3
わたしは職員室で千川が企画書を読むのを待った。
職員室の長い窓から夏日が差している。わたしはスチール製の事務机の前でぼんやりとしていた。壁際にウォーターサーバーの透明な給水ボトルがある。見るともなく見る。透明な給水ボトルのなかで水は揺らぎ、陽光が反射して、壁に光の筋が投げかけられていた。
教師のひとりがボタンを押し、備え付けの紙コップを手元に落とす。給水口に紙コップを近づけ、レバーを倒す。給水ボトルのなかで気泡の連鎖が浮き上がっていく。
「本木くん」
千川の声で、わたしは我に返った。
太縁メガネの奥からわたしを見る。
「いい案だと思うよ。ぼくから職員会議にかけ合っておくから。期待しておいて」
正直、いつもは教師のことを舐めているけど、こうして書類仕事をしているときは大人だと感じさせられる。
わたしはお礼を言って職員室をあとにした。
スキップして廊下をいく。
形式ばった文章を書くのは苦手だから、企画書には考えを思うままに書いた。それが通ったのは嬉しいおどろきだった。
三年G組の教室の扉を開ける。昼休みでひとは少ない。
わたしは教壇にあがり、教卓をバンと両手で打った。何人かがわたしを見る。わたしは大声で言った。
「みんな、ひとを殺したくない!?」
何人かの生徒がふり返る。
「思春期は殺人衝動をもて余すよね。でも、もう小動物を殺さなくても大丈夫! モモンガをパチンコで撃ち落とすやつね。わたしが人間を殺す機会を用意した! 八月三十日から三十一日の一泊二日。学習合宿の名目で合宿所を借りることができた! そこで推理ゲームをやろう!」
ひとりのクラスメイトが不満の声をあげる。
「えー。また学習合宿かよ」
朝霞東高校は七月二十五日から三十日にかけて、大学受験のための学習合宿をおこなう。三年生のうち二百人ほどが参加する。ずっと授業と自習でレクリエーションはない。
わたしは言った。
「そこはあくまで名目だから。数学の総復習ってことにしておいた。講師は千川ね。引率も兼ねてる」
「推理ゲームならべつに合宿しなくてよくね?」
またべつのクラスメイトが言う。
「現代日本で推理ゲームが成立するにはクローズドサークルが必要だから。やっぱり孤島がいいよね。瀬戸内海の小島で、山が二つあって鬼の角のように見えることから〈ひょっこりひょうたん島〉と呼ばれてるとか。
さすがにそこまではできなかったけど、秩父の山間の合宿所を借りたから。うちの高校でよく使ってるとこ。みんなも一度くらいはクローズドサークルを体験したいでしょ。
極限状況は人間の本性を暴くからね。そういう作品は作者が安易な結論を出さず、善と悪は単純に割り切れるものじゃないってことを教えてくれるんだ。『ひょっこりひょうたん島』は教育番組のお手本だね」
このときにはクラスメイトの大部分はもう自分たちの会話に戻っていた。
「正式に決まったら掲示板にチラシを貼っておくから!」
わたしは最後にそう言った。
数学講座の学習合宿は正式に決まった。
わたしはめぼしいクラスメイトを誘った。ほかのクラスにも顔を出して宣伝する。推理ゲームをすることが本当の目的なのに、マジで受験勉強のためにきたやつがいたら気まずい。べつにいてもいいけど。理想としては、わたしを入れて六人から十二人でいきたい。
翔子にそのことを話す。
「合宿所って、去年、吹部で使ったとこ?」
吹奏楽部の合宿は例年学校でおこなうのだけど、去年は三年生がやけに熱を入れて、合宿所まで遠征した。
合宿所は「松籟館」という名前で、それを知ったとき、わたしはかならず「松籟館殺人事件」という題名の推理小説を書くと決意した。この合宿を企画したのには、その思いもある。もっとも、実際の合宿所はまったく現実的な建物だ。
「車は出るの?」
「人数にもよるけど、たぶん歩きじゃない」
「最悪」
翔子は嫌そうな顔をした。吹奏楽部の合宿を思い出したのだろう。
もちろん、重い楽器を運ぶから移動はバスだ。けど、徒歩で麓まで買い出しにいくことがあった。翔子はその担当だった。
わたしはニヤついて言った。
「ってことは、合宿にきてくれるんだ」
「あんたがほかの参加者をふり回さないようにね」
隣の席の土屋も誘いに応えた。
わたしが合宿を企画したのは、クラスメイトに話しかける口実ということもあった。
三崎、神田、翔子は、あれだけ熱をあげていたペタンクを三日でやめてしまった。やめた理由も説明しなかった。
終わったことだと調査するのも難しい。けど、わたしはどうしてもあの騒動の理由を知りたかった。そうすれば栗須も…
そのことを考えかけ、わたしは強いて思考を中断した。
栗須は人間関係の駆け引きのようなことは嫌いだ。その栗須が縁を切りたいと言ったなら本気なんだろう。そのことを考えると、まだ胸が痛む。けど、いまはただ「日常の謎」の真相を知ることができればよかった。
クラスでほとんど話したことがない相手にも、合宿のことを会話の糸口にすることができた。
三崎とたまに話しているのを見かける西条に近づく。女子で、太っていて身なりがだらしない。だいたい教室ではスマホでゲームしているか、マンガを読んでいる。アキバ系の趣味に関する友達がいて、三崎はその一人だ。
中休みで、西条は自分の机でマンガを読んでいた。細密な画風で残酷描写を売り物にしたやつだ。人体なんてただの道具で、損壊することに大した意味はない。推理小説を読むとそのことがよくわかる。だから、残酷描写を売り物にしたアニメやマンガを見ると、推理小説を読めばいいのに、と思う。
机の正面に立つ。西条は顔を上げた。鼻に感じる酸っぱい臭いが西条のものだと気づき、わたしは胸がムカついた。
「夏休みに数学講座の学習合宿をやることになってさ。まあ、それはいいや。最近、三崎と神田が仲良いじゃん。前にはそんなことなかったよね。なにか知ってる?」
「ああ。オタクに優しいギャルね」
「えッ、なに?」
わたしは聞き返したけど、西条は小声でアニメかなにかのキャラクターの話をブツブツ言っていて、なにを言っているかわからなかった。
質問が悪かったのかと思い、聞きかたを変える。
「三崎は部活が女バトで趣味はオタクでしょ。神田は遊んでる感じじゃん。共通点がないから、このあいだ仲良くしてたのを不思議に思ってさ。それより前に会ったり、話に出たことってあった?」
「フツーに大学にいくようなひとよりヤンキーやギャルのほうが世間を知ってるんだよね」
脈絡のない発言にポカンとしてると、西条は俯いてブツブツ言った。
「フツーに大学にいくようなひとたちはヤンキーやギャルを見下してるけど、フツーに大学にいくようなひとたちの世界は閉じた狭い世界で、ヤンキーやギャルのほうが世の中を知っているんだよね。むしろヤンキーやギャルはしたたかで、そういうフツーのひとたちを利用しているんだよね」
そこで、西条はわたしにはわからないアニメだかマンガだかの話をした。小声で早口のまま続ける。
「そういうことを頭の悪いオタクとかフツーのひとたちとかはわかってないんだよね。頭の悪いオタク女がオシャレしてかわいいって言われるの、ウサギが自分のウンチを食べてかわいいって言われるのと同じだから」
その例えは突飛なだけでズレていたけど、西条は気の利いたことを言ったつもりらしく、くぐもった笑いをあげた。
わたしはイライラするというより気分が悪くなって、西条から離れた。西条は気にする様子もなく、ひとりでなにかのキャラクターの話をしていた。
西条の世界は自分の妄想だけで完結していて、そのなかにはアニメやマンガから得た知識と、自分で考えた格言や処世訓が、ぎこちない比喩と一緒につまっているのだろう。わたしは西条の話にほとんど固有名詞が出てこなかったことに気づいた。
神田はクラスの女子よりは、むしろ男子の運動部のグループと親しい。昼休み、わたしは木村たちに話しにいった。やっぱり竹井もいて、心臓がドキドキした。
合宿のことを話すと、予想しなかったことに木村が食いついてきた。
「それおれメッチャやりたい! ペンションに泊まって推理ゲームだろ? そういうのおれマジで一度やってみたかったんだよな」
同じサッカー部の男子が「合宿所ってあそこだろ? おまえサッカー部の合宿はサボったくせに、ッとに調子いいよな」と文句を言う。
「メンバーに入れとくね。いまのところ、女子はわたしと翔子、男子は土屋が参加することに決まってるから」
正直に言って、木村が参加することには鬱陶しさも感じたけど、竹井が木村に付きあうかもしれないと気づくと心臓が高鳴った。
「竹井はどうする?」
と、聞く。竹井は苦笑した。
「建前でも昼間は勉強して、夜が自由時間だろ? おれ、受験で数学は使わないしな。具体的にはどんなことするの?」
「花火とか?」
口に出してから、自分が間抜けなことを言ったと気づいた。
竹井以外の男子はニヤついていたけど、その笑いはどこか冷ややかで、わたしは恥ずかしくなった。話題を移す。
「そうだ。このあいだ神田と三崎が仲良くしてたけど、あの二人に接点ってあったっけ」
「聞いたことねェけど。でも女子ってそういうもんじゃねェの。会ったばっかでも仲良くできんだろ」
男子のひとりが言う。その偏見にイライラしたけど、詳しく聞いても、三崎と神田が以前に会っていたことはなさそうだった。
木村が言う。
「ペタンクってラインからじゃなくて、円のなかから投げなきゃいけないんだってな。神田に聞いたけど。神田も三崎に聞いて知ったらしいけどな」
「ああ。ペタンクはサッカーで言えばゴールの位置が変わるからね。距離を一定に保つにはそうしなきゃいけないんだろうね」
「いやべつに距離だけの問題じゃないけどな。メッシとかサイドから中央に移るドリブルが得意技だし」
面白そうな話だ。わたしはスカートのポケットからノートを取りだした。木村は勢いづいて話した。
「走力があれば普通は一気にゴールに向かうだろ。そこをメッシはあえて横にかわすのが巧いんだよな。やっぱ右サイドから左中央まで切りこむのが多くてさ。熱かったのは二〇一七年のマラガ戦だな」
わたしは個別の試合よりテクニックに関心があったけど、メモをとりながら話を聞くと、木村は嬉しそうにした。
雰囲気が打ち解けてきて、木村は言った。
「にしても千川もバカだよな。あんなの口実だって見え見えだろ。教師は大学を卒業してそのまま学校に勤めるから、社会経験がなくて子供のままなんだよな」
「知ってる。山田詠美の『ぼくは勉強ができない』でしょ? 主人公の水商売の母親が言うんだよね。水商売でもなんでもいいけど、大衆はそういうのが好きなんだよね」
わたしは笑った。けど、木村はもう笑ってなかった。ほかの男子も黙っていた。居心地が悪くなって、わたしは男子たちから離れた。さりげないようにして教室を出る。
廊下は窓から日射しが差していた。生徒たちが談笑しながら歩いている。わたしは目的もなく階段のほうに向かった。
わたしにとってはどうでもいい本だったけど、『ぼくは勉強ができない』はたぶん木村がめずらしく読んだ本で、それで記憶に残っていたんだろう。そういうものをバカにするべきじゃない。そのことに気づくべきだった。
「本木」
後ろから呼びとめられる。ふり返ると竹井だった。
黙っていると、竹井は「さっきのはよくなかったな」と言った。困ったような笑みを浮かべている。
「うん」
わたしも気まずさをごまかすために笑った。二人とも黙っていて、なにかの共犯のような奇妙な感覚があった。
竹井は言葉に困ったらしく、黙って頭を掻いた。生徒が近くを通りすぎていく。
やがて、竹井は「おれも合宿にいくよ」と言った。
わたしはただうなずいた。両手をもて余して組んでいた。廊下の喧噪がおおきく聞こえた。
翌日の昼休み、早めに教室に戻って推理小説を読んでいると、橋津が話しかけてきた。
「キリンってミステリ以外の本も読むの?」
橋津はわたしの机の前に立っていた。
「あんまり」
昨日の木村たちとのことを聞いたのかもしれない。わたしは慎重に答えた。文庫本を机に伏せる。
「このあいだの芥川賞受賞作読んだ? あたしは候補作のほうが受賞すべきだったと思うんだよね。何年か前から受賞傾向がさ…」
そう言い、芥川賞について熱っぽく語る。
その熱心さにすこしヒく。わたしは言った。
「わたしが読んだことのある芥川賞の受賞作家はひとりだけだから。その作家は好きだけど」
「だれ?」
「松本清張」
わたしはニヤニヤしたけど、橋津は真顔だった。わたしは言葉を継いだ。
「ミステリ関連の新人賞はチェックしてるけど、それ以外はどんな賞があるかも知らないからさ。芥川賞以外にどんな新人賞があるの?」
橋津はなにか言いかけ、そのまま固まった。なにも思い浮かばないらしい。ますます気まずくなる。けど、小説についてほとんど知らないのに、どうして芥川賞にだけ熱をあげるのかはわからなかった。
橋津は目的があって話しかけてきたみたいで、わざとらしく「あー」と言った。
「最近、竹井と仲良いみたいじゃん」
「それは竹井次第かな」
そう答えると、橋津は表情をイラッとさせた。
「あたしが分藤と別れたのは知ってるでしょ?」
橋津が同意を求めるように見たからうなずく。
「でさ、ミサはそのことを知ってたのに、分藤とベタベタしてたんだよね。もうあたしは分藤に未練はなかったけどさ。でも許せなくない?」
橋津の声は感情が籠もっていた。けど、わたしは「本当かな」と思った。橋津は怒っているというより、自分が怒っていると思いたがっているように見えた。
たぶん橋津は恋愛ドラマのようなものを体験したいんだろう。けど、それはムリだ。だって、現実に意外な展開はないからだ。だから現実でドラマを体験することはできない。
推理小説を読めばいいのに。わたしはそう思った。
橋津は声に抑揚をつけて言った。
「そういうことがあってから、あたし、竹井のことが気になりはじめたの。だからあたしは竹井のことをあきらめたくない。悪いけど、もう近づかないでくれる?」
橋津はわたしを睨みつけた。
「いいよ」
わたしは答えた。生々しい欲望に触れて、気分が悪くなった。竹井のことは好きだったけど、それ以上に元気がなくなっていた。とにかくこのことから解放されたかった。あいまいな笑みを浮かべる。
「わたしも竹井のことがそんなに好きってわけじゃなかったから。これからは気をつけるよ」
最後にわたしは愛想笑いをした。自分でも媚びたように聞こえた。
橋津の顔に苛立ちが走った。
手をサッと伸ばし、橋津はわたしのスカートからノートを奪った。
「返して!」
喉から悲鳴が出る。立ち上がろうとして、体が痙攣した。机の引き出しに膝をぶつけて転ぶ。床のタイルに体を打ちつける。
わたしの過剰な反応に橋津はおどろいていたけど、すこし得意そうでもあった。扇のようにして顎の下にかざす。
「べつにいいじゃん。キリンのノートになにが書いてあるのか、みんな気になってるよ」
もったいぶって両手でノートを持ち、ページを開こうとする。
「待って! やめて!」
わたしは叫んだ。けど、それは状況を悪化させるだけだった。昼休みが終わりかけ、クラスメイトが教室に戻りかけていた。その注目を集めた。
顔が熱くなり、それから冷たくなり、貧血を起こしたように視界がチカチカと明滅した。
あのノートにはわたしが考えたアイディアやセリフなんかがメモしてある。体の外に露出した心臓に触られている気がした。わたしが考えたトリックが朗読され、批評されたりしたら、きっと心がズタズタにされる。
クラスにひとが集まってくる。何人かの女子が近づいてきて、橋津が得意そうに説明した。目の奥から涙がにじむ。教室を出て薬を飲みたかったけど、教室を出ることができないから薬を飲みたかった。
ノートをとり返す方法を考えたけど、まるで思いつかない。助けを求めて教室を見回すと、室内にいる全員がわたしを見ていた。翔子でさえ、教室の隅で腕組みしてわたしを見ていた。
それで、わたしは理解した。わたしはみんなのことをわからないけど、みんなもわたしのことがわからない。だから、わたしにとってノートを見られるのが耐えられないということがわからない。そして、わからないままにしていたから、こういうときにだれも助けてくれないんだ…
「そのノートを開かないほうがいい」
きっぱりとした声が響いた。
橋津の前に小柄な女子が立っていた。
「え、なに?」
橋津はそう言って、半笑いを浮かべた。
「アガサ・クリスティの『メソポタミヤの殺人』を知ってる?」
栗須だった。いつもはビクビクして、声も小さいけど、いまは背筋が伸びていて、ハキハキした発音をしている。それで、栗須とはわからなかった。
「アガサ・クリスティは中東の発掘隊に同行したことがあって、『メソポタミヤの殺人』はその経験を参考にしてる。発掘隊長夫人は嫌な性格で、クリスティは友人として接してたけど、あとでこっそり復讐した。『メソポタミヤの殺人』の被害者のモデルにした」
「なんの話?」
「そのノートを開かないほうがいいってこと。推理小説家はみんなそういう復讐をしてる。推理小説家志望の本木さんも。わたしは前にそのノートを見たことがある」
栗須にもノートを見せたことはない。だから、その言葉はノートをとり戻すための嘘だ。
「そのノートには登場人物のモデルとして橋津さんのことも書かれてる。高校の思い出がぜんぶ嫌なものに変わるくらい、嫌なことがね。だから、そのノートは開かないほうがいい。橋津さんだけじゃない。このクラスのほかのひとのことも書かれてる。だからこれは橋津さん一人の責任で済むことじゃない」
栗須は手を差しだした。
わたしはいつも、栗須のポニーテールをリスの尻尾のようだと思っていた。
けどいまは、甲冑の兜の尾のように見えた。
橋津は黙ったまま、ノートを栗須に渡した。栗須は床にしゃがみこんでいるわたしに、ノートを突きだした。荒々しいやりかただった。
ノートを受けとる。机に手をついて立ち上がる。始業のチャイムが鳴った。クラスの視線を集めていることはわかっていたけど、ノートを胸に抱いて教室を出た。本当は薬の入っている鞄を取りたかったけど、鞄を持って教室を出て、早退すると思われる危険を冒すことはできなかった。
ひとのいない廊下を抜けて、女子トイレに入る。個室に入り、鍵をかけて壁に背中をつく。タイルの冷たい感触が背中に伝わる。トイレットペーパーを巻きとって口を押さえる。ノートを胸に抱えて、声を殺して泣いた。
放課後、わたしと栗須は一緒にバスに乗った。二人掛けの席に横並びで座る。栗須は窓の外を見ていて、視線を合わせなかった。
わたしは駅前にあるいくつかの店を示したけど、栗須は首を振った。それで高架になっている朝霞駅の駅舎を通って、東口に出た。
マンションが並ぶ西口の地域に対して、東口の地域は古い民家が多い。瓦屋根の家が並び、合間に広い空き地がある。空き地は土面が剥き出しで、重機のキャタピラの跡が付いている。凸凹の縞模様で、浮いたところだけ乾燥して薄茶色になっている。わたしと栗須はそうしたなかを歩いた。
栗須は黙って歩いていたけど、唐突に言った。
「三年間、自分のイメージを守って居場所をきずいてきたのに、全部台なしになった」
「ごめん」
「倫子は悪くない。悪いのはわたしだから。黙って見てることもできた」
栗須は前を見たまま言った。
「きみがアガサ・クリスティを読んでるなんてね」
「自伝だけ。本当は『メソポタミヤの殺人』は読んだことがない」
わたしはあきれて栗須を見た。
「コナン・ドイルのときもそうだったけど、変な読みかたをしてるよ」
「わたしには現実だけで手一杯だから。わざわざつくり話を読もうとは思わない」
空き地にトランクルームの看板が立っている。鋼鉄製のコンテナが積んである。コンテナの凸凹の表面は風雨で薄汚れていた。栗須は言った。
「佐藤さんたちがペタンクをやめれば、もう倫子が首を突っこむこともないだろうって思ってた。でもそうじゃなかった。最近、倫子の周りの空気が悪くなってた。自分では気づかなかったみたいだけど」
「じゃ、翔子たちがペタンクをやめることまでわかってたの!?」
わたしはそのことに驚いた。
「一度、倫子に知ってることを全部話してもらったときに」
わたしが説明を求めると、栗須は「こうなったら話したほうがいいか」と言った。
「倫子の話にはおかしなところがあった。三崎さんたちがペタンクをはじめた日、三崎さんのジャージには体育の授業の汚れがついてた。でも、三崎さんが校庭で遊んでいたのは教室にくる前だった。だって、通学用の重い鞄を持ち歩いてたんだから。だとしたら、三崎さんがいつジャージに着替えたのかがわからない。あの日、ジャージで登校する理由なんてなかったし、わざわざジャージを持ち帰るのなんて洗濯するときくらい」
「それだけペタンクに本気だったんじゃないの?」
わたしが言うと、栗須は冷たい目を向けた。
「競技用のボールも適当に代用するくらいだったのに?」
わたしは黙りこんだ。栗須は続けた。
「つまり、順番は逆だった。三崎さんたちはペタンクをはじめるためにジャージで登校したんじゃなくて、ジャージで登校するためにペタンクをはじめた。三崎さんたちはずっとジャージで過ごしてた。神田さんは帰宅部だし、三崎さんも運動部だけど、ずっとジャージを着てるほどじゃない。もしペタンクをしてなかったら、どうしてジャージでいるんだって聞かれる」
「なら、どうしてジャージでいたの?」
わたしは栗須の小柄な体を覗きこんだ。栗須は歩きながら言った。
「三崎さんと神田さんには共通点があった。佐藤さんは、三崎さんと神田さんが、浦和か大宮に住んでるって言ったんでしょ? 親しくもないのに住所がわかる。つまり、佐藤さんは三崎さん、神田さんと同じ路線の電車で乗り合わせてた。京浜東北線でね。倫子にはわからないって、佐藤さんに言われたんだよね。倫子、徒歩通学でしょ。
三崎さんは駅でジャージに着替えた。神田さんが一度、学校に取りにいって、駅に戻った。そのときに自分のジャージも取った。三崎さんと神田さんの立場は逆だったかもしれない。それはわからない」
「駅で制服からジャージに着替えた? なんで?」
「制服が汚れたから。汚れをとるのに二、三日かかって、それで汚れたことも知られたくないもので」
「なに?」
「精液じゃない?」
栗須は事務的に言った。なるべく感情を込めないようにしているみたいだった。
わたしは歩みをとめた。聞いたことが信じられなかった。けど、栗須の推理は反証できなかった。それから、翔子もジャージに着替えてペタンクをしていたことに気づいた。そのとき、どうにもやるせなくなった。怒りとも悲しみともつかない感情だった。
仮に栗須の推理が正しかったとして、頭のおかしいひとが汚物をつけただけだ。そこに特別な意味はない。そう思いたかったけど、なにか大切なものを踏みつけられたような感覚は消えなかった。
高台を下りる。遠くに、地平線と平行に荒川の堤防が見える。
もう前に民家はない。田畑と空き地、工場があるだけだ。正面にひび割れたアスファルトの道路が伸びている。右手は砂利を敷いた駐車場で、同型の大型バスと、同型の大型トラックが数台ずつ平行に停まっている。左手は畑で、黒土に畝が刻まれている。
目的地なんてあるはずないけど、栗須はその道を進んでいった。
解体場の敷地がある。柵は三方を囲っているだけで、正面は道に開け放されている。重機が板金をまとめて圧縮して、ものすごい音が響いている。
その前を通りすぎる。バイパス道路に出る。道路に面して、トタン板で囲っただけの土地がある。「残土置場」という看板が立っていた。
わたしは栗須に話しかけた。
「それならなにかしなくちゃ。翔子たちに話を聞いて、警察に届けるとか」
栗須は首を振った。
「意味ないよ。佐藤さん、三崎さんたちもそうすることはできた。でも考えて、そうしないことに決めた。なにかその選択を変えさせるものがあるの?」
「ならどうすればいいの」
「どうすることもできないよ」栗須は遠くを見た。「なにも知らずにいるのが、佐藤さんたちにとっていちばん嬉しいだろうね。倫子はいま知ったけど、それでも知らないフリはできる」
「でも、なにかしないと」
「どうすることもできないことはあるんだよ。ううん。なにをしても状況を悪くするだけで、なにもしないのがいちばんいいことはあるんだよ」
わたしが焦って言うと、栗須はそう言い聞かせた。わたしは反論を考えたけど、結局、栗須の言うとおりだった。わたしは栗須が真相をわかっていて、それを話さなかった理由を知った。
わたしはスカートのポケットからノートを取りだしかけ、やめた。
川べりに巨大な工場がある。塀の内側に敷地が広がっていて、たくさんの乗用車が停まっている。背の高い工場は、二本の筒型の塔が伸びている。「埼京アスコン」という社名が印字されている。操業のアナウンスが、スピーカーのひび割れが混ざって、道路まで聞こえていた。
栗須はそっちに向かいかけたけど、チラッとふり返ると、逆側に向きを変えた。
東京外環自動車道が近いから、大型トラックが列をなして走っている。轟音を立てて、巨大な車体がひっきりなしに真横を通りすぎる。排気ガスが薄く漂っていて石油臭い。
栗須はわたしをふり返って睨んだ。
「ついてこないで」
どこにいくつもりかと思ったけど、わたしを振り切りたかっただけらしい。
物流拠点である立体駐車場のような巨大な倉庫が並ぶ。車道が東京外環道に合流し、渋滞情報の電光掲示板が冠される。頭上の電光掲示板を見て、栗須はわたしを振り切るのをあきらめた。わたしと向きあって言う。
「この世界はゲームでできてるんだよ。ただし、ルールは参加者たちが好き勝手に決めるゲームでね。頭のおかしいひとが電車で他人に精液をかけるのも、普通のひとたちが恋愛したり結婚したりするのも同じ。ただ前者のゲームはほとんどのひとがルールを認めなくて、後者のゲームは、ルールがほとんどのひとに認められてるってだけ」
「それで十分でしょ」
「でも、わたしはそのほとんどのひとじゃない」
「そりゃ、〈ほとんどのひと〉なんてひとはいないでしょ」
「いるよ。正規分布は知ってるでしょ。ほとんどのひとは標準偏差の範囲にいる。わたしが言ってるのは、イヌやネコ、子供が騒音を出すと殺したくなって、他人にはどこかにいってほしいとしか思えない、そういうひと。あなたが言うとおりだよ。普通のひとたちにとって〈普通のひと〉はいなくて、〈普通じゃないひと〉だけがいる」
栗須は皮肉な表情をした。
「ほとんどのひとたちがするゲームには絶対のルールがあって、それは、ゲームの参加者がゲームを楽しんでいること。ゲームを楽しんでいないひとがいることは、そのひとたちのゲームを崩壊させてしまうから。だから、すくなくともゲームを楽しんでるフリをすることを要求する」
「だから目立たずに生きていくことにしたの?」
大型トラックの車列が真横を通過して、風圧を受ける。栗須はうなずいた。
「認知科学の研究では、重い鬱病にかかっているほどバイアスとヒューリスティックが働かなくなって、より客観的な判断をするようになる。わたしはほかのひとよりゲームのルールが見える。だからゲームを楽しんでるフリもできる。けどそれは、それだけゲームがただのゲームにしか見えないってこと。わたしはずっと、ペラペラの紙に記号を書いたカードで勝負して、ボール紙を切ってつくったコインを交換するゲームをやらされてる気がする。それでほかのひとに注目されないように、ゲームに真剣になってるフリをしてる。だって、その部屋から出ることはできないから」
「でも、そのおかげできみは名探偵になった」
「わたしの話を聞いてなかったの?」栗須は不快そうに言った。「わたしはこの社会のためにならない人間なんだよ。名探偵っていうのは他人のために活躍するひとのことでしょ」
わたしは言った。
「でも、きみは翔子たちのことを黙ってた。自分の頭の良さをひけらかすために、推理したことを話したりしなかった」
栗須は当惑したようにその場をうろうろしていたけど、それから、わたしに背を向けて歩きだした。わたしは追った。
「わたしのことも助けてくれた」
「いまは後悔してる」
栗須は早口で言った。
幸魂大橋から離れて、もう一本の橋が架かっている。道幅は広いけど、両側にガードレールがあるだけの殺風景な橋だ。針金を曲げたような鉤型の外灯が、等間隔に並んでいる。荒川から風が吹きつけている。大型トラックがひっきりなしに走っている。
わたしは橋の中ほどまで栗須を追った。視界を遮るものはなくて、遠くに川岸の工場施設が見える。
栗須は立ちどまって、わたしをふり返った。
「わたしは世界に期待してない。よく誤解されてるけど、覚醒は感覚系じゃなくて、脳幹からの入力で起こる。血糖値が低下してレプチンの濃度が低下するか、大脳辺縁系、とくに偏桃体の入力でオレキシンが分泌される。オレキシンの分泌で、脳幹からアセチルコリンが分泌される。つまり人間が覚醒するのは、飢餓か危険に対処するため。睡眠をうながすGABAを分泌する視索前野は、脳幹と相互に抑制的に働く。眠剤、抗鬱剤はGABA受容体作動薬。
つまり、神経科学で言えば、人間は苦痛を避けるために生きる。望まずに生まれて、苦痛を避けるために一生を送る」
わたしはなにも答えなかった。ただ悲しかった。わたしは栗須の推理力というか、観察力や洞察力を尊敬していた。けど、栗須はこんなことを考えて生きていた。たぶん、栗須だけじゃなく、普通に働いている大勢の人間が同じことを考えて生きている。でも、わたしは栗須に大勢のうちの一人でいてほしくなかった。
栗須は言った。
「わたしのことを変な読みかたをするって言ったけど、コナン・ドイルなら『シャーロック・ホームズの冒険』を読んだ。ホームズの人物描写が優れてた。いまで言う自閉症だよ。きっとひとはホームズに自己投影して読むんだ。ワトソンじゃなくて」
わたしは「ねえ」と言った。
「きみの考えは、前提に人間がひとりで完結してるってことがあるよ。たしかに論理的には、ひとは自分のために生きられない。けど、他人のために生きることはできる。わたしは前に死ぬことを望んでた。きみに会って、生きたいと思えるようになった」
「で、わたしとはちがう立場にいった」
栗須は冷ややかに言った。
「わたしはきみを言い負かしたいんじゃない。同じサイドに立ちたいんだよ」
「わたしは、あなたよりあなたのことをわかってる。いまあなたはわたしのことを友達だと思ってるけど、それも一時的な感情なんだよ。
夏休みが明けて自由登校がはじまれば、会うことも少なくなる。べつの大学に進学して一年も経てば、おたがいに知らない人間になる。わたしは認知科学を知ってるから、自分のなかに感情的なバイアスとヒューリスティックがあることがわかってる。だから、客観的な判断をしたい」
「悲観的すぎるよ」
「ちがう。わたしは現実を知ってるだけ」
栗須はガードレールに両手をかけた。わたしからは横顔だけが見えた。
「わたしは栗須を裏切ったりしない」
栗須はサッとわたしにふり向いた。
「なら、あなたがワトソンで、家庭かホームズか選ばなければいけなかったらどうする!?」
「もしわたしがワトソンだったら、十九世紀末のロンドンから二十一世紀の日本にタイムスリップして、きみを抱きしめる」
栗須はガードレースの端を固く握りしめた。小さな手の、拳の関節が白く浮きあがっている。しばらくして「わたしは友達でいる資格がない」と言った。
「え?」
わたしの疑問には答えず、栗須はただ顔を伏せた。泣くのをこらえているかもしれなかった。橋上のわたしたちを、風が撫でていった。
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