翔子は三崎たちともども、ジャージのままでいて、中休みになると教室の後部の空間に集まって、フォームの練習をしていた。

 翔子はわりと人気があるから、いつも昼食を一緒にしたりしているクラスメイトたちが、なんとも言いがたい顔で見ていた。

 栗須は自分の席で、新聞の懸賞付きの数独に集中していた。わたしはその背中を揺さぶった。翔子たちのほうを指さす。

「あれ見て!」

 栗須はうるさそうにした。

「落ち着いてよ。パニックになってるよ」

 そう言い、体を傾けて数独に戻る。

「落ち着けないのがパニックだよ!」

「じゃ、落ち着きをなくして」

 ズールー族の勝利の踊りをおどる。御手洗潔が東大の教授室で踊ってたやつ。

 近くで床を踏み鳴らされることに耐えられなくなったらしい。神に感謝を捧げたころ、栗須は体ごとふり返った。

「そんなに気になるなら、佐藤さんに直接聞けばいいでしょ。知らない仲じゃないんだから」

 それもそうだ。わたしと翔子の間柄なら、さすがに聞いたほうが早い。わたしは席に戻った。

 隣の席では土屋がブックカバーをつけた文庫本を読んでいる。椅子ごと近づいて文庫本を傾けると、やっぱりライトノベルだった。

「これは知ってる。岡嶋二人の『クラインの壺』みたいな設定のやつでしょ」

「その『クラインの壺』を知らないって」

 土屋は文庫本を手元で起こした。

「でも、言いたいことはわかるよ。正確には、その続編の続編の外伝の続編だけどな」

 わたしは椅子の背もたれに腕をかけた。翔子たちのほうに親指を向ける。

「翔子があんなことするの、おかしくない?」

「あー」そう声を出し、口を開けて考える。「でも佐藤もたいがいノリがわからないからな。深い意味はないんじゃないか?」

 翔子は明るい雰囲気でも大笑いするということはなくて、大抵、ぎこちなく笑っている。けど付き合いは悪くない。それを考えれば、たしかに不自然じゃない。

 土屋は体をわたしに向けて、首を突きだした。

「それよりさ。気づかないのかよ」

「え?」

「メガネを変えたんだよ。前におまえが似合ってないって言ってたからさ」

 土屋のメガネは赤いフレームから、四角い黒縁のものに変わっていた。

 記憶を探る。たしかにそんなことを言ったような気もする。たいした意味はなかっただろうから、本気にさせたなら悪い。けど、たしかに新しいメガネのほうが良かった。

「うん。いいね。似合ってるよ」

 そう言ってから、言いかたが漠然としてて、テキトーなようにとられかねないことに気づく。慌てて言いたす。

「いや、わたしが勧めたから褒めてるんじゃなくて。本気でね」

 わたしが慌てるさまがおかしかったのか、土屋が笑った。恥ずかしかったけど、悪い気分じゃなかった。

 土屋は机に手をおいて、おおきく体を反らした。

「そもそもさ。おれに女子のことを聞いたってわかるわけないだろ。女子と話すの苦手なんだから」

「わたしとは普通に話してんじゃん」

「そりゃ、本木はさ」なにか言いかけてやめる。机においた文庫本に、栞の代わりに指を挟んでいる。「いや。嫌なことを言いたくない。ともかく、おまえとは普通に話せる」

 わたしはその気遣いが嬉しかった。


 予想どおり、翔子たちは昼休みは校庭にいってペタンクをはじめた。

 橋津はどこかにいってしまったけど、ほかに三崎と親しい竹井は教室に残っていた。竹井は男子テニス部に所属していて、よく三崎たちと話している。

 竹井は木村たちと教室の隅に集まって、総菜パンとかそんなものを食べていた。

 「お。なんだー?」と騒ぐ木村を無視して、竹井を教室の中央に連れていく。

 わたしは身長が一七五センチあって、たいていの男子より目線が高いけど、竹井とは目が合う。顔がやや長い。髪はツーブロックに刈りこんでいて、残りは自然に流している。目が二重ですっきりしてる。

 わたしは窓に視線を向けた。

「最近、三崎と橋津になにかあった?」

「どうして?」

「マラソン大会のときにちょっとゴタゴタしたから。わたし、その場にいたからさ。ちょっと気になってたんだよね」

 あくまで話のきっかけのつもりだったけど、竹井は気まずそうにした。

「どうだろうな。ちょっと複雑かな」

 そう言ってから「べつに仲が悪いってわけじゃないけど」と付け加える。

「どういうこと?」

「事情を知ってるなら話してもいいか。あのとき、橋津と分藤は別れてただろ。それで分藤は三崎に相談してたんだけど、それでいい雰囲気になったみたいなんだよな」竹井は気まずさをごまかすように笑った。「分藤はマジで三崎のことが好きみたいなんだけど、三崎は寝取ったみたいになるのが嫌みたいでさ。分藤は橋津とはっきり別れてたし、問題ないって思うけど」

「三崎、意外と頑固そうだからね」

「まあな」

 竹井は短く笑った。

「それでいまは、仲悪くもないけどギスギスしてる感じかな」

「橋津はそれでもまだヨリを戻したがってるんだ」

 わたしがそう言うと、竹井は「いや、それはどうかな」と、またごまかすように笑った。

 そういえば、さっきから竹井は橋津への感想はほとんど言ってない。それで気がついた。

「もしかして、橋津はいまは竹井に気があるの?」

 竹井は甲高く笑った。顔が赤くなっている。

「モテると大変だね」

 わたしの言葉に、必死で片手を振る。

「いや。おれなんかぜんぜんモテないよ。高校入ってから彼女ができたことないし」

「そうなんだ。意外」

 竹井はまたごまかし笑いをした。その様子は気弱そうだったけど、顔がいいから爽やかに見えた。

 三崎がペタンクをはじめた理由については、なにも心当たりがないらしい。必要なことをすべて聞き、席に戻る。話し終わったあと、わたしは心臓がドキドキ脈打っていた。


 この日は吹奏楽部の練習がなかった。最終時限の授業が終わり、チャイムが鳴ると、わたしは翔子のほうを見た。翔子は通学鞄を持ち、席を立つところだった。

 わたしは荷物を置きっぱなしにして翔子を追った。ジャージの袖を掴む。

「今日、どこか遊びにいかない?」

「やめとく」

 翔子は簡潔に答えた。仕方なく本題を言う。

「どうしてペタンクをはじめたの?」

「倫子に言う必要ないでしょ」

 さすがに付き合いが長いから、意味のないごまかしを言ったりはしない。

 翔子は眉を寄せて、わたしの手を見た。わたしはまだ腕を掴んでいた。

「放して」

「でもさ、教えてくれていいじゃん」

 食い下がると、翔子はわたしを見据えて言った。

「倫子にはわからないよ」

 そのときの硬い声に、わたしは胸が底冷えするように感じた。思わず手を放す。

 翔子は廊下に去った。教室の扉から何人かの生徒が出ていって、わたしは数歩下がった。

 やっぱり翔子たちがペタンクをはじめたことには理由があるらしい。けど、それがなにかわからなかった。

 栗須の席を見る。腹立たしいことに、こちらもすでに空席だった。

 わたしは荷物をまとめて、急いでバス停に向かった。栗須は信条で、絶対にスマホに出ない。というか、つねに電源を切っている。だから会うなら駅で待ち伏せするしかない。

 バスに乗るのは久しぶりで、ほかの生徒が見るなか、小銭を出すのに手間どってイラついた。それでも駅前のベンチに座って待っていたら、一本後のバスから栗須が降りてきた。

 体との対比で通学鞄が大きく見える。高校生たちのあいだに、ひとり小学生が混じっているみたいだった。

 栗須はバスの降車口の前に立っているわたしを見ると、ため息をついた。


 相談は朝霞市中央公民館ですることにした。駅から市役所通りを歩く。

 駅前の細々とした商店の軒並みに、「すぐできます 合カギ」と書かれた琺瑯製の看板が出ている。その奥は雑貨屋で、棚に陶器が並べられている。

 市役所前の幅広い車道に出る。個人の司法書士事務所がある。その手前は選挙事務所で、「無所属」という文字と肖像写真、一部をひらがなにした名前がガラスに貼られている。

 中央公民館の玄関ホールは、机と椅子が並べられている。机は折り畳み式、椅子は脚が鉄パイプのものだ。わたしと栗須はそのひとつに座った。

 ここにくる前にスーパーに寄って、揚げ物を買った。

 油紙に包んだメンチカツにかじりつく。ザクッという歯ざわりとともに、口に油脂があふれる。

 栗須はコロッケを買った。ジャガイモだけのやつだ。栗須はコロッケを机に置き、使い切りの醤油を慎重に垂らした。それからコロッケをいれた紙袋を両手で持ち、端からかじりはじめた。

 わたしは片膝を立てて椅子に足をのせ、その上にメンチカツを持つ腕をあずけた。栗須に今日の出来事を語る。栗須は食べながら聞いた。

 話が終わると、栗須は「竹井くんのことが好きなの?」と聞いた。

 予想していた質問じゃなくて、わたしはうろたえた。

「べつにいいじゃん。推理小説に恋愛要素はご法度だと思われがちだけど、恋愛の禁止は独善的な〈ヴァン・ダインの二十則〉にあるだけで、〈ノックスの十戒〉にはないしね。

 ベントリーの『トレント最後の事件』みたいに、恋愛要素を前面に出した名作もあるし。国内なら、島田荘司の『北の夕鶴2/3の殺人』かな」

 栗須が気のない様子だったから、わたしはあらすじを話した。

「『北の夕鶴2/3の殺人』は冬が舞台でさ。ある年の暮れ、刑事の吉敷竹史は、離婚した妻の通子から電話を受ける。それで夜の上野駅におもむくけど、通子はすでに特急〈ゆうづる〉に乗車していて、車窓ごしに視線を交わしただけで別れてしまう。翌日、〈ゆうづる〉から女性の死体が発見される。吉敷は上司にも隠して単独捜査をはじめ、一路、北海道に飛ぶ」

「ふーん」

「そして、足跡を残さずに雪原を歩く鎧武者に遭遇する」

「なんで!?」

 栗須が悲鳴をあげる。あらすじのとおりだから仕方ない。わたしは「最高だよ」とあらためて言った。栗須は不満そうだった。

 わたしは竹井と話した印象を栗須に話した。

「でも、竹井もモテるからな。あんまり期待しないほうがいいかも」

「本人の気持ちだったら、望みはあると思うよ」

 栗須の言葉に心が浮きたつ。

「ホントに?」

「男は女を見たとき、セックスできる確率を計算して、それがある数値を超えたとき、あとからその快感を〈恋〉って言うものだから」

 わたしは黙った。もう栗須に恋愛関係のことは話さないことに決めた。

 話題を戻し、あらためてペタンクの謎を尋ねる。栗須は冷淡だった。

「放っておいたら。たしかに突拍子もない出来事だけど、日常から外れた物事に、全部わかりやすい説明がつくわけじゃないでしょ。つまり、よく知る日常と因果関係でつなげられるわけじゃない」

 わたしはメンチカツを食べきると、油紙をねじって机に放った。両手を頭の後ろで組む。

「それじゃロマンがないよ。〈五十円玉二十枚の謎〉だって未解決事件だけど、まだ研究してるひとがいるし」

「なにそれ」

 栗須は低い鼻にシワを寄せた。

「推理小説家の若竹七海が大学生のときに実際に遭遇した怪事件。当時、若竹七海は池袋の大型書店でレジ打ちをしてたんだけど、毎週土曜日の夕方、中年の男がきては五十円玉二十枚を千円札と両替してったって話。

 五十円玉は手に握りしめてて、両替が終わると急いで退店する。男は顔も身なりもパッとしなくて、いつも不機嫌そう。鮎川哲也賞授賞式の翌日にあった、若手推理小説家の集まりでこの話をしたら大ウケ。それで、このネタで競作した上に一般公募までした。その結果は一九九三年に『競作 五十円玉二十枚の謎』ってタイトルで出版されて、以後、この謎は未解決のままなんだ。言ってみれば、新本格における〈切り裂きジャック〉事件みたいなものだね」

「未解決って、全国的な捜査や科学捜査がおこなわれるわけじゃないんだから、解決なんかするわけないでしょ」

 栗須の言葉に、頭を掻く。

「せいぜい、納得のいく説明がつくってことでいいよ。体験談でも釣り銭の両替とか、レジ打ちの気を引くとか仮説が上げられてる。ちなみに、当時は土曜日も銀行の営業日ね。でもどの仮説もスッキリしない。

 競作者の解答もすごいよ。法月綸太郎の〈五十円玉二十枚の謎〉って推理小説を書くための取材だったとかいうメタオチから、五十円玉は自販機荒らしで稼いだものだとか、それで作った五重塔を解体したものだとか、覚醒剤を計るための分銅だったとか… 言っておくべきなのは、デビュー前の倉知淳がこの競作に応募してることだね。しかも、猫丸先輩を探偵役に据えて。だから猫丸先輩の初登場は、正確にはシリーズ第一作の『日曜の夜は出たくない』じゃなくて、この『競作 五十円玉二十枚の謎』なんだ」

「その〈猫丸先輩〉を知らない」

 栗須は食べ終わったコロッケの紙袋を、小さくなるまで畳んだ。

「『猫丸先輩の推測』に収録されてる『夜届く』は、チェスタトン以来の逆説があって、わたしが考えるに〈日常の謎〉の最高傑作だね」

 わたしは推理小説を、現実とは関係のない絵空事だと思っているけど、たまに現実を変えるような作品に出会うことがある。そういうときは、やっぱり最高だ。

「でも、べつに不思議がるほどのことじゃないでしょ」

 栗須がすごくあっさり言ったから、しばらくその意味がわからなかった。

 わたしが「え!?」と声をあげると、栗須は大声に顔をしかめた。

「だってこの三十年、あまたのミステリー愛好家とか推理小説家とかが挑んで解けなかった謎なんだよ」

「五十円玉を二十枚両替したって考えるからおかしくなるんだよ」栗須は説明した。「これが仮に、百枚なり二百枚なりなら、売上げの小銭としか解釈できないでしょ」

「でも二十枚なんだから…」

「一日の売上げが十万円で、そのうちの一割が五十円玉なら二百枚。池袋なら両替してくれる店は大型書店だけじゃない。むしろ、ある店で五十円玉を四十枚出して千円札二枚への両替を頼むより、二つの店で、それぞれ五十円玉を二十枚ずつ出して千円札への両替を頼むほうが自然。男はそれを五軒から十軒の店でやってたってことだよ。大型書店なら駅に近いでしょ。その店が最後だったから、剥きだしで五十円玉二十枚を握ってたんじゃない」

 わたしは栗須の話に引きこまれていた。椅子に両足をのせ、膝を抱きかかえる。栗須は続けた。

「銀行の営業日、営業時間を待たないなら、店舗のない露天商かも。池袋なら屋台ってことが考えられる。一日の売上げは百食から二百食くらいでしょ? 値段が三六〇円とか、三八〇円とかなら、かならず支払いに五十円玉を使う。それでいて、釣り銭に五十円玉を使うことは絶対にない。だから五十円玉だけが溜まる。三八〇円のほうが、事件への説明としてはいいかな。二個買っても、支払いに五十円玉がいるから。

 認知科学は経済学を修正して、行動経済学って分野をつくった。とくに期待効用理論をプロスペクト理論に修正した。期待効用理論は人間を客観的に判断すると仮定するけど、プロスペクト理論は〈参照点〉っていう主観的な基準を導入する。所持金が十万円のひとにとっての一万円と、千円のひとにとっての一万円は、あきらかに価値がちがう。

 このことが実証されたのが、二〇一二年の大手小売店のJCペニーの経営改革。当時のCEOのロン・ジョンソンは、希望小売価格を廃止して、末尾が九九セントで終わる端数はドルに切り上げて、価格体系を簡素化するって宣言した。九ドル九九セントは十ドル、っていうようにね。改革が実施されると、売上げは激減、株価は急落して、ジョンソンはCEOを解任された。そして価格体系は元に戻った。

 消費者は不合理で、末尾が九九セントのとき、その上のドルを参照点にしてお得だって錯覚する。同じ理由で、原価や競合商品の価格に関係なく、屋台も価格の末尾は端数にする。で、支払いに五十円玉が使われる」

 わたしは激しくうなずいた。いつもは小うるさい認知科学のうんちくも、今日は気にならなかった。膝を抱えたまま体を前後に揺する。行儀が悪いかと思ったけど、栗須もわたしが話に引きこまれていることに満足げだった。

「だから疑問なのは、どうして毎週土曜日の夕方に両替したかじゃなくて、それ以外の曜日に両替しなかったか。ありそうなこととしては、平日は普通に銀行で両替してた。土曜日は稼ぎどきで銀行にいくヒマがなさそうだし、銀行の営業日は週明けを待たなきゃいけない。なら、どうして日曜日はこなかったかって話になる。

 想像をふくらませると、日曜日は屋台を出せなかったんじゃないかな。男には家族がいて、会社をリストラされたけど、そのことを隠してた。稼ぎどきの休日も、土曜日は出勤と偽って出かけられたけど、土日ともはできなかった。週休二日制が定着する前に起きたことなんでしょ。で、土曜日も急いで帰った。人生はつらいってこと」

 わたしは小さく拍手した。すっかり興奮していた。

「すごい。三十年の謎を解いたよ」

 けど、栗須は冷めた顔で「解いてないよ」と言った。わたしは混乱した。

「でも、いまの謎解きは正しく聞こえるし、破綻もない」

「だから、たぶんこの謎解きは発表されたときにだれかがしてるよ」栗須は退屈そうに言った。「だって、この謎解きは当たり前だから。なぜ両替したか? それは両替したかったからだ、って当然の答え。でもそれじゃお話にならない。だから推理小説家や、その志望者たちは奇妙な答えをひねりだした」

 栗須はしばらく顔を背けていたけど、わたしに顔を向けた。

「さっきこれは〈切り裂きジャック〉事件だって言ったけど、〈切り裂きジャック〉なんていない。フレッド・ベストっていう新聞記者が、売上げのために〈切り裂きジャック〉って署名した手紙を警察に送った。それから報道が過熱して、何百通もの〈切り裂きジャック〉からの手紙が書かれた。〈切り裂きジャック〉はメディアのなかだけの存在だった。何百通もの手紙は、たぶん全部偽作だったけど、ひとりの女性だけが逮捕された」

 わたしはスカートのポケットから丸めたノートと鉛筆を取りだした。制服がブラウスとベストに変わってからは、ノートはスカートのポケットに入れている。

 ノートを机に置く。

「〈五十円玉二十枚の謎〉もそれと同じだって言いたいの?」

「そう。事実はわかりきってた。だって、現実には当たり前のことしかないから。ただし、その話が本当は実体験じゃなかったらべつだけど」

「でも、わたしはわからなかった」

 わたしは鉛筆を持ったまま、机に肘をついて手を組んだ。

「きみが謎を解いてくれた。きみがホームズなら、わたしはワトソンでいい」

 栗須は気まずそうに顔を伏せると、机の端に手をついて腕を伸ばした。

「いまの推理、ノートにとるね」

「好きにすれば」

 栗須は顔を伏せたまま言った。

 鉛筆をノートに走らせていると、前から声が降ってきた。「でも、いつもわかりやすい説明がつくとは限らない」

 わたしは顔を上げた。

「佐藤さんたちのことだけど、本当に理由なんてないかも。べつの言いかたをすれば、理由はいろいろあって、単純にひとつの原因で説明することはできないかも」

「それはない」わたしは間を空けずに断言した。「わたしは翔子のことを知ってる。翔子とは三年の付き合いなんだ。わたしは翔子のいちばんの友達じゃなかったけど、翔子はわたしのいちばんの友達だった。翔子は理由もなく奇行をしたりしない」

 栗須は考えていたけど、それから「わかった」と言った。小さな肩をさらに狭めて、両手を組む。

 わたしは最初から最後まですべて話した。

 聞き終わってから、栗須は「うーん」と声を出した。

「あなたはわたしのことを名探偵だって言うけど、これは現実だから。やっぱりわからない」

「そっか」

 と、わたしは言った。勝手なことに、けっこう失望していたけど、軽く聞こえるように心がけた。

 栗須はポツリと言った。

「もう探偵ゴッコは終わりにしない?」

「そうだね」栗須の言葉に、わたしはうなずいた。「これ以上、翔子たちのことを探っても…」

「そうじゃなくて」

 栗須はわたしの言葉を遮った。

「あなたの探偵ゴッコにもうわたしを巻きこまないでほしいってこと」

 わたしが黙っていると、栗須は続けた。

「このあいだ、神田さんがわたしたちのことをそんな風に言ってたでしょ。わたしは校内で目立ちたくない。その限界にきてる」

 わたしは気分が重くなった。「ああ…」と気のない返事をしたあと、それがあいまいなことに気づいて、はっきり「わかった」と言った。

「多分わかってない」

 栗須は言った。

「これからはなるべく話しかけないでほしい」

 わたしは絶句した。

「つまり絶交ってこと?」

 栗須は眉を寄せて、顔を背けた。たぶん言葉を選んでいた。わたしを見て、慎重に言う。

「わたしはこの二年間、だれとも話さずに学校生活を送ってきた。そのときに戻りたい。あなたはわたしが会ったなかでいちばん気が合うし、たぶんこれからもそう。けど、やっぱりわたしはひとと話すと疲れる性格なんだ。家に帰ってもあなたのことを考えるときがある。それはわたしにとって、あまり気分がいいことじゃない。わたしの時間を盗まれてるみたいに感じる」

「言いたいことはわかった」

 わたしは力なく言った。反論する気力もなかった。

 栗須は椅子を引いて立ちあがった。そのまま中央公民館を出ていく。あとには斜めに引かれた椅子だけが残った。

 わたしは机に体を乗りだして、向かいの椅子を机に入れようとした。けど手は届かなかった。

 仕方なく、椅子を引いて立ちあがる。それから机の上にある、ねじった油紙と折り畳んだ紙袋の、二つのゴミに気づいた。ついでに、二つのゴミを掴んで、離れたゴミ箱に捨てにいく。戻ってから、斜めに引き出された椅子を机に入れる。鉄パイプの脚が床とこすれて、耳障りな金属音が鳴った。

 わたしは体を投げだすようにして、椅子に座った。しばらくぼんやりとした。足下の通学鞄を引きよせる。

 鞄のなかから薬剤をまとめたものを取りだす。薬剤のパッケージを輪ゴムで束ねている。栗須と親しくなってから、処方薬の量は減っていた。服薬を忘れていることもあった。

 デパスの銀紙のパッケージを抜きだす。処方箋に反して、勝手に断薬したこともあるから余っている。手のなかで銀紙をたわませると、ギチギチという金属音のあと、弾力でまっすぐに戻った。

 それを見ていると、目の奥が熱くなって、急に涙があふれた。わたしはしばらく泣いた。

 気分が上下する波を見はからって、デパスを嚥下した。時間が経つと気分が落ち着いて、なにが悲しかったかもわからなくなった。

 中央公民館の玄関ホールで座ったまま、なにも考えずにいた。建物の外からセミの声が聞こえていた。

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