第3話 探偵小説が黄金だったころ

 推理小説の探偵役がのぞき趣味とか説教癖とかと結びつけられるようになってから、だいぶ経つ。その唯一の例外が「日常の謎」の探偵役だ。

 ミス・マープルは、ただの詮索好きで噂好きに見えて、じつは推理力がある。けど「日常の謎」の探偵役は、推理力があるように見えて、実際はただの詮索好きで噂好きだ。

 だからわたしはクラスメイトが奇行をはじめたとき、よろこんでその謎を調べることにした。わたしはミス・マープルじゃないからだ。

 七月になり、日差しが強くなってきた。制服はブレザーからブラウスとベストになったけど、風が吹かないときは暑さを感じる。

 その日はいつものように、早めに登校して図書室で推理小説を読んだ。パウエルの『道化の町』だ。

 ピエロの離婚した刑事が、ピエロだらけの腐敗した街で、出所したばかりのピエロの前科者が殺された事件を解決したあと、わたしは教室に戻った。なにげなく窓から校庭を見る。二人の女子がなにかしている。二人ともジャージで、いくつものソフトボールを延々と転がしている。

 それだけだったら大して気にしなかっただろうけど、その二人はクラスメイトの三崎と神田だった。ぼうっと眺めていると、三崎はまたソフトボールを放り投げた。ボールがコロコロと地面を転がっていき、静止する。

 三崎も神田も知っているけど、どちらも奇行をする性格じゃない。そもそも三崎は女子バトミントン部、神田は帰宅部で、とくに仲がいいということはないはずだ。この三年G組の教室でも話しているところは見かけない。

 わたしは同じ吹奏楽部にいる翔子を見つけた。自分の机で参考書を開いている。机の正面に立って言う。

「教室で勉強なんてやるね。受験生」

 翔子は顔を上げた。

「自分を追いこむためにね。これで落ちたらハズいでしょ」

 わたしと翔子は、同じ予備校の夏期講習に参加する予定だった。

 窓を指さす。

「校庭で三崎と神田がなんかやってるのを知ってる?」

「ああ」翔子はうなずいた。「登校するときに気づいたから聞いた。ペタンクだって」

「ペタンク…」

 ぼんやりとくり返す。

「知らない? 球技なんだけど」

「もちろん知ってるよ。正岡子規が〈野球〉って訳語を作ったんだよね。同じころ、夏目漱石はシャーロック・ホームズからクリケットを教わってた」

 わたしがそう言うと、翔子は無言で頭を振った。

 翔子は冗談は真顔で言ったほうが面白いことを知っている人間だ。けど、いまは三崎と神田がなにをやっているのか本当に知りたかった。あらためて聞く。

「で、三崎と神田はなにやってんの?」

「だから、ペタンク」

「本当は?」

「だから、ペタンクだって!」

 話にならない。わたしは「ペタンク! ペタンク!」と言う翔子を放って、自分で確かめにいくことにした。

 昇降口から校庭に出る。

 校舎に沿って歩き、三崎と神田に近づく。二人は地面にソフトボールを放っている。

 後ろから声をかける。

「なにやってんの?」

 三崎がふり向く。三崎は人当たりがよく、だれとも仲がいい。クラスで浮きがちなわたしとも、比較的良好な関係だ。先月、マラソン大会中に起きた事件で関わったけど、それでしこりが残ることもなかった。

 神田もわたしを見て「あ、キリン」と意味なくあだ名を呼ぶ。

 わたしはヒョロガリだけど背が高いから、平均身長の二人と向きあうと、首を下げることになる。

 三崎は両手でソフトボールを抱えて言った。

「ペタンクだよ」

 ジャージの肩に、前回の体育のとき、わたしがうっかりバレーボールを叩きつけたときの汚れが残っている。バレーボールの継ぎ目がきれいにスタンプされている。まさかそのことを恨みに思ってはいないだろうけど、担がれている気がしてならない。

 神田が言う。

「やっぱりソフトボールだとわかんないよね。ちゃんとブールとビュットを使いたいんだけど、とりあえずブールに近いソフトボールを借りてきたんだ。本当はサークルとメジャーもあればいいんだけどね」

「まず〈ブール〉がわからない」

 神田はしっかり化粧してる。目を際立たせるアイプチをつけ、アイラインも濃く引いている。セミロングの髪に、インスタグラマーを思わせるパーマをかけている。制服のスカート丈も短く、わたしは神田を前にすると、反磁場のようにその自信に気圧される。

 学年でも派手で有名だけど、三年生に進級して、みんなが受験勉強をはじめてからは、ひとりで川越のクレアモールあたりで遊んでいるらしい。

 対して、三崎は控えめな性格で、神田とのつながりは見えない。

「もしかしてキリン、ペタンクを知らないの!?」

 わたしの言葉に三崎がおどろく。

 屈辱的な気がしたけど、わたしは「うん」とうなずいた。

 教えを乞うと、三崎は説明した。

「ボッチャはジャックボールにほかのボールを近づけるでしょ。それがビュットとブールになったのがペタンク」

「知らないスポーツを知らないスポーツで説明しないで」

「あッ、ゴメン」

 三崎は両手を顔の前で合わせた。

「ボッチャはまず目標になるジャックボールを投げて、先攻、後攻がそれぞれ六個のボールを順番に投げるんだ。もっともジャックボールに近いボールを投げたほうの勝ち。負けたほうよりジャックボールに近いボールの数が得点になる。個人戦なら四セット、団体戦なら六セットで合計点を競う。このセットは〈エンド〉って言うんだけどね」

「ボッチャじゃなくて、じかにペタンクの説明をして」

 わたしがそう言うと、三崎は悲しそうな顔をした。

「ボッチャはパラリンピックの正式種目だから… ペタンクのほうが競技人口も多いのに…」

「政治的な事情があるんだね」

 深入りしないようにそう言っておく。

 三崎は説明を続けた。

「ボッチャにおけるジャックボールがビュット。ほかのボールがブール。ブールはチームごとに、個人戦なら三個、団体戦なら六個使う。その時点でビュットにもっとも近くないほうがポワンテする。両チームがブールをポワンテしきったら次のメーヌに移る。得点方法はボッチャと同じ。ただし合計点を競うんじゃなくて、十三点を先取したほうの勝ちになる」

「また知らない用語が出てきたんだけど!?」

「ゴメン。説明不足だったね」

 三崎がまた謝る。

「メーヌはセットのこと。ポワンテはティールやプーセットじゃない投げかた。ポルテ、ドゥミ・ポルテ、ルーレットをまとめてポワンテと呼ぶって言いかたもできる」

「もうわざとやってるでしょ」

 わたしはベストのポケットに丸めて突っこんだノートを取りだした。入学のときに買った使い古しのものだ。

 三崎にもう一度言ってもらってメモする。ポワンテはブールをビュットに向かって投げること。ポルテは投げ、ドゥミ・ポルテは手前ぎみの投げ、ルーレットは転がし。ティールは弾く、プーセットは弱く当てる。

 鉛筆の尻で頭を掻く。

「で、なんでペタンクをやってるの?」

 わたしがそう言うと、二人はため息をついた。

「それを聞いちゃうかぁ…」

 三崎が呆れたように目を細める。

「仕方ないって。説明されても伝わらないひとには伝わらないよ」

 神田が三崎の肩をポン、と叩く。

 正直、イラッとしたけど逆ギレになるからこらえる。

 わたしは二人をおいて教室に戻った。翔子のほうを見ると、参考書の上からひと睨みされた。

 三崎と神田は朝のホームルームがはじまる直前に教室に戻ってきた。三崎は机に通学用のエナメルバッグをドスンと置いた。その横に、ソフトボールを満杯にしたビニール袋を置いていた。


 その日の体育の時間、わたしは栗須と組んで準備運動した。いつもは翔子と組む。わたしと逆に、栗須は身長が一四〇センチくらいしかないから、二人で組んで準備運動するとバカみたいに見える。

 栗須はいつもなるべく教室にいないようにしているから、相談する時間をとれなかった。

 三崎と神田はジャージを着たままで、中休みも教室の後部にある空間で、ソフトボールを転がしてポワンテがどうこうと言っていた。

 栗須にそのことを話すと「単純にペタンクが好きなんでしょ」と言われた。

「でも昨日までそんな兆候はなかった。そんなに急に好きになったりしないよ」

「じゃ、もともと好きだったけど、たまたま同じクラスに同好の士がいることに気づいたんでしょ」

 栗須の言葉は気がなかった。

「それだよ。三崎は運動部、神田は帰宅部で、性格もちがうし接点がないじゃん」

「同じクラスってだけで十分」

「それ以前に、同じ人間だしね」わたしはうなずいた。「東西冷戦だからって、西側と東側のどちらに所属してるかじゃなくて、個人の尊厳で考えるべきだったよ。だからイギリスMI6、通称〈サーカス〉の情報部員、ジョージ・スマイリーは…」

「で、どうするの」

 栗須はわたしの言葉を遮った。

「三崎たちの本当の目的を調べよう。ただペタンクが好きなわけはない」

「目的って?」

 わたしは背中合わせで栗須と腕を組み、その体を背負いあげた。栗須のふさふさとしたポニーテールが首筋をなでる。

「本当はソフトボールを大量に持ちだす必要があって、そのためにペタンクを口実にしたとか」

「それならソフトボールを借りた時点で、もうペタンクはやらなくていいでしょ」

 自信のあった仮説をあっさり否定される。

 わたしはさらに体を傾け、栗須を持ちあげた。栗須が空中で足をバタバタさせる振動が伝わる。栗須を下ろす。

 わたしは言った。

「だからさ、三崎たちに話を聞きにいこうよ」

「わたしがクラスで悪目立ちしたくないのは知ってるでしょ」

 栗須はあどけない顔をしかめた。

「少しくらいいいじゃん。それじゃ、アームチェア・ディテクティブどころか、リンカーン・ライムばりのベッド・ディテクティブだよ」

「誰それ」

「嘘でしょ!?」わたしは声をあげた。「映画化もされたじゃん。『ボーン・コレクター』のシリーズの名探偵だよ。ニューヨーク市警の天才だったんだけど、捜査中の事故で全身不随になった安楽椅子探偵。『ボーン・コレクター』じゃ、ニューヨーク市警に連続猟奇殺人事件への意見を求められて、すげなくあしらうんだけど、熱心な制服警官のアメリアがあらわれて…」

「どうなるの?」

「アメリアがライムを背負ってニューヨーク中を行脚する」

「安楽椅子探偵をさせてあげて」

 わたしは栗須の両脇に手を入れて持ちあげた。

「じゃ、その代わりにきみを」

 栗須が悲鳴をあげて足をバタつかせる。軽い。体重は四十キロもないんじゃないだろうか。

 しぶしぶと探偵活動に同意した栗須を連れて、三崎たちのところにいく。

 三崎はだいたい同じ女子バトミントン部の橋津といるし、神田も似たようなファッション好きの女子といる。けどいまは、休み時間と同じく、二人でツルんでいた。

 わたしたちが近づくと、神田が声をあげた。

「あ。きたきた」

「なんの話?」

 神田は両手を後ろに組み、運動靴のつま先を立てた。

「キリンと栗須ちゃんはお笑いの凸凹コンビみたいだって、三崎に聞いてたから。マラソン大会のときに活躍したんだって?」

「凸凹コンビって」

 わたしは額を手で押さえた。活躍を知られるのは嬉しいけど、できればホームズとワトソンと言ってほしかった。どうせだから、なんのコンビだか聞いておく。

「オードリーと若林?」

「ううん」

「じゃ、太田と田中?」

 神田は首を振った。

「そういうんじゃなくて。日本じゃなくて海外の」

「アボットとコステロ」

 と、栗須が言う。気になったらしい。

「聞いたことない」

 神田は無表情で答えた。

 わたしはため息をついた。

「なんにしても、お笑いの凸凹コンビじゃなくて、ホームズとワトソンって言われたかったよ」

「ああ。それそれ」

 神田が手を打つ。わたしは膝から崩れ落ちそうになった。

 気をとり直して、事情を聞く。栗須はいつものとおり黙っているから、わたしが聞き役だ。

 ジャージのポケットから丸めたノートと鉛筆を取りだす。体育の授業中でもノートは手放さない。教室に置いておくと不安になる。はげしい運動のときには、畳んだジャージの下に敷いておく。

「ペタンクはどこで知ったの?」

「あたしは初心者。三崎に習ったの」

 神田が言う。これで、ペタンクそのものがミッシング・リンクだということはなくなった。

「三崎は?」

「うーん」三崎はくちびるを尖らせた。「ネットで」

 これじゃ、強いて質問しても答えは出ないだろう。神田に的を移す。

「いつペタンクのことを聞いたの? わたしも知りたかったな」

「このあいだからポツポツ、かな。それで興味があって、今日実戦してみたの」

 神田は体操服で両手の手のひらを拭くようにした。隠しごとは下手らしい。三崎と神田が教室で話しているところは見たことがない。

「いいね。よく二人で休日に遊びにいったりするの?」

 そんなことはないと分かっていて質問する。予想どおり、神田はおおきく手を振った。

「ぜんぜん。あたしと三崎はタイプがちがうし。あたしはよく川越のほうに遊びにいくけど」

 そう言い、三崎のほうを見る。

「わたしは、休みはときどき池袋にいくかな。アニメイトに寄ったり」

 アキバ系のグッズ専門店の名前を挙げる。三崎と神田は本当に急に近づいたことになる。会話していて、この程度のことも話題にあがらないということはない。

「神田が遊ぶのって、他校のやつ?」

 そう尋ねると、思いがけなかったことに、神田は慌てた。

「たしかに工業の生徒とかいるけど、みんないいやつだよ。真面目だし、地元愛が強いし」

 朝霞東高校は進学校だから、進学せず就職することへの偏見がある。神田はわたしの質問をそういう意図にとったらしい。わたしは急いで否定した。

「いや。物のついでに聞いただけだから。変な意味にとらせちゃったらゴメン」

「ううん!」神田はおおきく手を振った。「あたしこそ誤解してゴメンね」

 そう言い、大げさに謝る。神田はよく気がつくけど、その気苦労をしのばせて同情させられる。

 結局、それ以上のことはわからなかった。聞いた内容をノートにメモする。体育教師に注意される前に、二人から離れる。そのとき、神田が言った。

「キリン。前から気になってたけど、そのノートってなんなの?」

「え!?」

 その質問をされるのは久しぶりだったから驚いた。入学したころにずいぶん聞いた質問だった。いまでは自信過剰だったとわかるけど、そのころは高校在学中にデビューすれば、現役女子高校生として箔がつくという皮算用までしていた。

 当時のうぬぼれも思い出して、わたしは恥ずかしくなって答えた。

「これは創作ノート。わたし、推理小説家志望だから」

 バカにされると思ったけど、神田は「いろんなひとがいるんだね」と妙に感心していた。


 放課後は吹奏楽部の練習があり、調査をすることができなかった。朝霞東高校では、三年生は夏の地区大会をもって引退する。

 練習の休憩中に、わたしは翔子のところにいった。わたしはチューバ、翔子はクラリネットでパートがちがうから、練習中は離れている。

 椅子に座ったままの翔子に話しかける。

「三崎と神田に接点があるかわかる?」

 翔子は「放っておけば」と言ったけど、一応、考えてくれた。

「わたしもべつに、三崎とも神田とも仲良くないし。あんたと同じにね。でも、やっぱり二人もそうじゃない? 雰囲気でわかるでしょ」黙考してから言う。「ああ。でも二人とも、家は浦和か大宮のほうだよ」

 わたしは腕組みした。

「浦和と大宮は冷戦構造にあるからね。ペタンクは接触する口実かな。イギリスMI6、通称〈サーカス〉の情報部員、ジョージ・スマイリーが登場しそうな具合だね。あとバンコラン大佐。黒幕はパタリロ」

「べつに家が浦和と大宮に分かれてるとは限らないでしょ」

 翔子は冷たく言った。

「まあね。どっちにしても、本当にペタンクで仲良くなったとは思えないけど」

「じゃ、ただ目立ちたいだけなんじゃない。中休みも教室でやってたでしょ」

 翔子は肩をすくめた。

「神田はわかるけど、三崎はそういう性格じゃないでしょ」

 わたしの言葉に考えたけど、結局、なにも思いつかなかったらしい。「ペタンクがそれだけ魅力的なスポーツってだけかもね」と言う。

「そう思うなら、翔子が教えてもらえばいいじゃん」

「それは絶対に嫌」


 そう言った翌日、翔子は三崎たちとペタンクに興じていた。

 朝のホームルームの前、図書室から教室に戻ると翔子がいなかった。まさか、と思って窓から校庭を見ると、翔子が三崎たちといた。地面に大量のソフトボールが転がっている。

 校庭までいく。

「翔子!」

 声をかけると、翔子がふり返った。三崎たちとジャージ姿でソフトボールを手にしている。

「なにやってるの?」

「見てわからない?」

「わかるから聞いてるんだけど」

 翔子は言った。

「ペタンクはいいよ。こんな知力と技巧の結晶みたいなスポーツがあるなら、もっとはやく知っていればよかった」

 殴ってやろうか、と心のなかで思う。

 神田がソフトボールを差しだす。

「キリン。これ持ってみて」

「ええ…」

「あのゴルフボールがビュットの代わりだから。代用品だけど買ってきた」

「あれを目がけて投げればいいんだね」

 ソフトボールを受けとる。その瞬間、三人が「あー」と声を出した。

 翔子がうなずいて言う。

「だから言ったでしょ。倫子は下手で持つって」

 三崎が申し訳なさそうにする。

「ペタンクはブールを上手で持つんだ。ポルテ、ドゥミ・ポルテにしろルーレットにしろ、そのほうが軌道が安定するから」

「親指は添えるだけで持つのがコツ」

 神田が言い添える。

 わたしは三人とも蹴とばしたくなった。


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