3
土手の斜面を滑り降りる。
木立の陰から遊歩道をうかがう。普通に走っている生徒たちに気づかれないように合流するのが難しく、結局、最後尾に近づいてしまった。
最後尾ではタイムキープのために実行委員が走っている。陸上部らしい小柄な痩せた女子だ。「最後尾」のゼッケンを着けている。
最後尾ランナーの前では、ダルそうな顔つきの男子が走っている。体力がないようには見えないから、ギリギリまでサボっていたのだろう。けど、急に走るとペース配分ができない。男子は息切れしたらしく、その場で立ちどまった。その横を、最後尾ランナーがタッタッタッ、という一定のリズムで走って通りすぎる。
最後尾ランナーはあくまで目安だから、追い抜かれても失格になるわけじゃない。けど、男子は気落ちした様子で、とぼとぼと走路を戻っていった。気力が尽きたらしい。わたしはゾッとした。
気づかれないように、急いでコースに入る。
隣で伴走する栗須に言う。
「千川が自分でコースをチェックするって、実行委員会のトラブルが気づかれたのかもね。もし実行委員会が調査されるなら、不正を頼んだわたしたちもヤバい」
「不正が気づかれそうになったら、実行委員会はわたしたちを足切りする。そうならないように、犯人を見つけて保証にしなくちゃ」
「どうするの? わたしたちがゴールするときは、たぶん制限時間の間近だよ。すぐ閉会式になる」
わたしがそう尋ねると、栗須は渋々と答えた。
「実行委員の半分は十一時にスタートする。いまごろわたしたちの前で、二周目、三周目を走ってるはず。追いついて、走りながら質問する。木村くんは後半の組だったでしょ」
「橋津も。それから分藤もね。前半の組のとき、橋津が電話してた」
「木村くんに質問して終わるように願うよ」
栗須は無言になってペースを上げた。
わたしは走りながら言った。
「ピーター・ラヴゼイのデビュー作『死の競歩』みたいだね。デビュー作から歴史モノで、時代はヴィクトリア朝。当時、本当におこなわれてた〈ウォッブルズ〉っていうスポーツのイズリントン競歩大会が舞台。
競歩って言っても、時間じゃなくて距離を競うものなんだ。開催期間は六日間で、走破距離が八百キロを超えるのが普通。不眠不休で、選手は一日三時間くらいの睡眠でぶっ通しで歩きつづける。『死の競歩』はイズリントンの農業会館を会場にしてて、特設されたコースをグルグル回るんだよね。優勝賞金は五百ポンド。いまの価値で言えば一千万円くらいかな。
そんな大がかりな大会だから、選手の一人が殺されても中止されない。他の選手に事情聴取するにも、貴重な睡眠時間を奪うわけにはいかないから、スコットランドヤードの刑事も伴走して事情聴取するんだ。いまのわたしたちみたいじゃない?」
栗須に笑いかけると、殺気立った視線が返った。
「凶器は毒薬のストリキニーネ。アトロピンやストリキニーネみたいなアルカロイドは、少量で強壮剤として使われてたんだって」
「わたしもストリキニーネを飲みたいよ。少量じゃなくて致死量ね」
栗須は皮肉っぽく言った。
わたしたちの横を、ジャージを着た初老の男が走り抜ける。数学教師の千川だ。千川はすれちがうとき、わたしたちを見て手を振った。わたしも愛想笑いを浮かべて、おざなりに手を振り返す。
栗須は恨みがましい目で千川の背中を見送った。
ペースを上げたことで、最後尾ランナーとの距離が開く。そのうちに実行委員らしい、快調な走りの生徒たちが見えてきた。
栗須に言う。
「木村に追いつく前に、推理を整理しておいたほうがいいんじゃない。なんだっけ」
「犯人は給水タンクをすり替えたはずの、どこかの運動部。木村くんに犯人からラインのメッセージが送られたけど、犯人にそんなことをする理由がない。だから、これは偽の偽装工作で、犯人は木村くん」
走りながら話すから、呼吸が乱れてつらそうだ。わたしは重ねて尋ねた。
「でも、そうとは限らないんだよね」
「うん。状況は犯人の偽装工作が偽の偽装工作で、真犯人が木村くんであることを示してる。けど、それで木村くんが真犯人であると断定することはできない。だって、偽の偽装工作が偽の偽の偽装工作で、真の真犯人がいるかもしれないから。だから、真の真犯人はそのときラインを送ることができた野球部のひとたち」
息が絶え絶えになりながら、なんとか言う。わたしは重ねて尋ねた。
「でも、そうとも限らないんだよね」
「うん。真の真の真犯人が、犯人の偽装工作が偽の偽装工作で、真犯人が木村くんっていう偽の偽の偽装工作を仕組んだ野球部のひとたちが真の真犯人って推理されることまで予想していたのかもしれない。その場合、犯人の偽装工作が偽の偽装工作で、真犯人が木村くんっていう偽の偽の偽装工作を仕組んだ野球部のひとたちが真の真犯人っていう、偽の偽の偽の偽装工作を仕組んだ木村くんが真の真の真犯人ってことになる。けど、それすら真の真の真の真犯人が…」
そこまで言って、息切れしたらしく、おおきく息を吸う。立ち止まることだけは避けて、走りながら息を落ち着ける。
「殺す気かッ!」
栗須の怒声を無視し、わたしは前方を指さした。
「見て。木村だ」
栗須はわたしに殺気のこもった視線を向けたけど、前に向きなおるとペースを上げた。
わたしたちは木村の横に並んだ。これで栗須が、木村が嘘をついているか確かめれば、調査は終わりだ。
走りながら「よッ」と声をかける。
木村は顔をわたしに向けた。
「キリンじゃん。なんか給水タンクのことを調べてるらしいな」
「うん。きみがラインで実行委員長からメッセージをもらって、それでスポーツドリンクを運んだんだって? 責められたんじゃないの?」
「そうなんだよ」
木村はおおきくうなずいた。
「ラインをもらえば本人からだって思うじゃん。それなのにおれが悪いみたいに責められてさ。ひどくね? それに結果的にはスポドリを給水で出してよかったんだから、べつにいいじゃん! そう思わね?」
実行委員会では言い訳をさせてもらえなかったらしく、わたしがあいづちを打つと、木村は嬉しそうに話した。
「そもそもおれひとりの責任じゃないじゃん。確認しなかったみんなも悪いじゃん。それが、おれだけが責められるのっておかしくね?」
だんだんイライラしてきたから話題を変える。
「そういえば、どうして実行委員長がきみ宛てにラインを送ったの? 実行委員長を装っただれかか。とにかく、実行委員会のグループラインがあったんでしょ」
「おれと分藤は実行委員会じゃなくても友達だし。知ってる? 分藤と橋津、付きあってんだよ。でもこのあいだ別れてさ。分藤が誕生日を忘れたんだってよ。マジヤバいよな。二人が仲悪いと、こっちまで響いてくるから勘弁してほしいわ。一年も付きあってんだし、また元に戻るかもしんないけどさ…」
それからも橋津たちの恋愛模様を聞く。
さっきから栗須が黙っている。視線を向けると、栗須は表情を硬直させていた。
「どうしよう」
「なにが?」
「運動中だから、瞳孔が開きっぱなしで変化しない」
「そりゃそうだ」
わたしは真顔で言った。
給水所が近づいてくる。木村は先行した。栗須が気落ちしてペースを落とした。
わたしは走りながら言った。
「これでいよいよ後期クイーン的問題が到来したね」
「なんで嬉しそうなの」
栗須の声は殺伐としていた。
給水所では、千川が下級生の実行委員と話していた。千川は労っているつもりらしいけど、実行委員は苦笑していて、内心、鬱陶しそうだ。
千川が片手を上げて、給水所を離れる。
栗須は走る方向を変えて、給水所に向かった。
「せめてスポーツドリンクでも飲んでいこう。犯人がわたしたちに用意してくれたんだから」
「待った!」
わたしは栗須のポニーテールを掴んだ。
栗須の首がグッと後ろに倒れる。栗須の喉から、グッという空気が漏れる妙な音がした。
「なにするの!?」
「ゴメン」
トイレの引き下げるレバーのように、ポニーテールがちょうどいい高さにあったからとっさに掴んでしまった。そのことは言わず、ただ謝って、遊歩道のさきを指さす。
「千川を追いかけよう。いまから走れば間に合う」
「なんで? べつに先生も実行委員会の内情は知らないでしょ」
「事件じゃなくて、後期クイーン的問題について聞くんだよ。別名、推理小説のゲーデル的問題についてね。千川は数学教師でしょ。論理学について教えてくれるよ」
「たしかに倫子は論理学を学んだほうがいい」
「じゃ、栗須はいまのままで犯人がだれか特定できるの?」
栗須はしばらく黙ってから、わたしと千川を追いはじめた。
数十メートルも走ったところで追いつく。
千川は固太りの体型だ。髪は白髪で灰色になっている。四角い太縁のメガネをかけている。角ばった顎の下で贅肉がだぶついている。
わたしは走りながら、頭を下げて挨拶した。
「お疲れさまです。先生」
「ああ。本木くん」
わたしは授業後によく質問にいくから、名前をおぼえられている。それで成績は低いから、なおさらおぼえられているだろう。
「先生もマラソンしなきゃならないなんて、大変ですね」
「いや、これは趣味でね。ぼくが勝手にやろうって言いだしたんだよ」
千川がそう言った瞬間、栗須の目に殺気が宿る。千川はまっすぐな姿勢で、悠々と走っていた。
「ぼくは大学の同期と、毎年、東京マラソンに出ることを目標にしててね。何時間かかってもいいから完走だけはしようって。妻も誘ってるんだけど、いい年して走りたくないって。なァに言ってんだ、って話でしょ。いい年してるんだから走らなきゃ。ぼくも今年の健康診断では、肝機能、内臓脂肪の数値が悪かったんだけどね。とくにγ-GTPがねえ。あはは。でも、これがマラソンをやってなかったら、どれだけ悪くなってたって話じゃない。これからさきの時代、介護が頼りになるかわからないじゃない。息子も東京にいるけど、ぜんぜん帰ってこない」
わたしはイライラしながら千川の長話を聞いた。話の継ぎ目で、急いで質問する。
「先生。ゲーデルの不完全性定理について知りたいんですが」
「どうしたの。急に」
「事情があって…」
わたしは言い淀んだけど、千川はとくに気にしなかった。
「ああ。ぼくの若いときに『ゲーデル・エッシャー・バッハ』っていう本が流行ってね。ゲーデルもずいぶんブームになったものだけど。あれはぼくが大学生のときだったから、もう何十年前かな。ぼくも若いころはけっこう思想の本を読んで…」
「ゲーデルの不完全性定理によれば、無矛盾性の証明ができないって話ですけど」
わたしはすばやく言った。
「それは歴史的な背景から説明したほうがいいだろうね。当時、二十世紀の初めごろは数学の基礎づけ、いまでいう数学基礎論が問題になっててね。一足す一はなぜ二か、とかそういうことだよ。それで二十世紀の数学者、ヒルベルトが国際数学者会議の主要講演で、実数論を公理主義的に構成する必要があるってぶち上げたんだ。これが有名な〈ヒルベルトの二十三の問題〉の二番目だね。実数論っていうのは算術、まあ、いま言ったみたいなものだね。公理主義的に構成するっていうのは、その公理の体系の無矛盾性を証明すればいいわけだ」
「で、ゲーデルがそれができないって証明したんですね」
「まあ聞きなさい。そのあと排中律、あらゆる命題はAまたはAでないか、という法則が無限については成り立たないということがわかってね。数学は有限なステップで証明できなければならないってことが言われだしたんだ。この立場を直観主義と言うんだけどね。これで公理主義の見通しが厳しくなったんだ。
それで、ヒルベルトも数学基礎論に本腰を入れたんだ。それから数学基礎論の講演で四つの課題を挙げた。その四番目が恒真式、AすなわちA、とかの文を証明する体系の完全性を証明することだったんだ。この体系を一階論理って言うんだけどね。この講演を受けて、ゲーデルは一階論理の完全性を証明した」
走りながら話すことに疲れたらしく、千川はふう、と息を吐いた。
「ヒルベルトは講演の三番目に、数論や解析学の公理系の完全性を証明することを挙げた。一階論理の完全性を証明する論文を提出したあと、ゲーデルはこれにとり組んだ。解析学の無矛盾性の証明は数論で、数論の無矛盾性の証明は有限の数論でできると考えた。けど、数論の真理は有限の数論で定義できないというパラドックスに直面した。しかも、これはどんな体系にも拡張できる。だから、どんな体系にも真偽を決定できない命題が存在すると言える。
さらにここから、ゲーデルはある任意の体系は、同じ体系の無矛盾性を証明できないということを証明した。これがゲーデルの不完全性定理だね」
わたしは伴走しながら言った。
「それで結局、ゲーデルの不完全性定理は数学の限界を示したんですか」
「いやいや」
千川は走りながら首を振った。
「長々と話したのは、歴史的背景を理解してもらうためでね。数論の完全性が証明されてたなら、数論、ひいては数学は大きな影響をこうむっただろうけど、不完全性の証明はほとんどなにも影響を与えなかった。
面白い話があって、ヒルベルトはケーニヒスベルクの名誉市民の称号が与えられたんだけど、そのときの講演で、ケーニヒスベルク出身のカントについて話した。市民には不快だったろうことに、カントはまちがってるって言った。カントのア・プリオリは人間中心の概念で、そのあとに残るのが真のア・プリオリだって。その講演の直後に、ゲーデルの不完全性定理が発表されたんだ。つまり、ヒルベルトは数学について直観主義を否定したけど、メタ数学については自分も直観主義者だったんだ。
ゲーデルもカントの直観は、無限の概念をあつかうには不十分だって言ってる。ゲーデルは講演で、不完全性定理は主観的な数学と、客観的な数学のギャップを証明するものだって言ってる」
千川は顎を上げた。額から汗が流れる。
「〈数学は完全化不可能で、公理が有限の規則で尽くされることはない。つまり、人間精神はいかなる有限の機械をも無限に超越してる〉ってね」
「いい話ですね」
「そうでしょう。ぼくの若いころは吉本隆明が流行っててね。そのとき、ぼくは大学の数学科にいたんだけど…」
それからまた長話がはじまり、わたしはどうにか話に区切りをつけた。軽く挨拶して離れる。千川はさきを走っていった。
尻ポケットからノートを取りだし、いまの話をメモする。
「後期クイーン的問題は推理小説のフェアプレイの限界を示すものじゃなかったんだ。むしろ、無限の可能性を示すものだったんだ!」
興奮して栗須に言う。
「そのなかには、推理の真偽を決定できるって可能性だけはなかったみたいだけど」
走りながら、栗須は冷たく言った。
「いいじゃん。完走はあきらめてさ。おとなしく補習で十キロ追走しようよ。わたしも一緒だしさ」
ノートを丸めて、また尻ポケットにしまう。
「追走は学校の周りを走るんだよね。そしたらまた〈日常の謎〉に出会うかもよ。商店街の肉屋のコロッケを買い食いしたら、なかからダイヤモンドの指輪が出てきたとか。隣の奥さんが行方不明。あッ、ミンチ機に奥さんの服の切れ端が!」
「絶対にこの大会で終わらせる」
栗須は断固として言った。
彩湖にかかった歩行用の橋に差しかかる。簡素な手すりの向こうに、さざめく湖面が見える。
橋上から、彩湖自然学習センターの白い建物が見える。鉄骨コンクリート造の無機質なものだ。窓枠の下に赤茶けた雨垂れがある。
栗須は腕時計を見た。
「あと十分しかない」
わたしは言った。
「それで、どういう状況だっけ」
「倫子がまとめてみてよ」
栗須が悪意のある口調で言う。わたしは走りながら答えた。
「犯人の偽装工作が偽の偽装工作で、その真犯人の偽の偽装工作も偽の偽の偽装工作で、その真の真犯人の偽の偽の偽装工作も偽の偽の偽の偽装工作で、その真の真の真犯人の偽の偽の偽の偽装工作も偽の偽の偽の偽の偽装工作かもしれないって話でしょ。でも、それだけじゃなくて?」
水を向けると、栗須は「えッ、えッ」と慌てた。走るために振っていた手を、指で数えるのに使う。
「犯人の偽装工作が偽の偽装工作で、その真犯人の偽の偽装工作も偽の偽の偽装工作で、その真の真犯人の偽の偽の偽装工作も偽の偽の偽の偽装工作で、その真の真の真犯人の偽の偽の偽の偽装工作も偽の偽の偽の偽の偽装工作で、その真の真の真の真犯人の偽の偽の偽の偽の偽装工作も偽の偽の偽の偽の偽の偽装工作が…」
栗須は言葉を区切った。二、三歩、進んでから歩みをとめる。顔色が悪い。手で口を押さえている。
わたしは栗須から数メートル進んだところで、走るのをとめた。後ろをふり返る。
突然、栗須は橋の欄干に走った。両手で手すりを掴むと、上体を湖に乗りだす。口からゲロがあふれる。吐瀉物が水しぶきを上げながら湖面に着水する。
わたしは手で顔を覆った。
栗須が十分に吐いたあとで、わたしは近づいた。吐くものがなくなっても湖面を覗きこんでいる。ふさふさしたポニーテールの下で、背中が大きく上下している。
背中に手をおいてさする。背骨と肋骨の起伏がじかに伝わる。小学生のとき、ハムスターの背中をなでたことを思い出した。
「隣を見たらいなくなってるから、『銀河鉄道の夜』で気づいたらカムパネルラがいなくなってたジョバンニの気分だったよ」
「そのカムパネルラ、たぶん別の車両に移ってるよ」
栗須はわたしをふり返ると、嫌そうに言った。言葉を続ける。
「犯人がわかった」
「ゲロで!?」
「ゲロのわけないでしょ!」口元をぬぐって腕時計を見る。「いまからわたしが走っても、実行委員たちに間に合わない。さきにいって止めてきて」
「任せて」
わたしは片手をスッと上げた。口元をゲロでベタベタにしていても、栗須はやっぱり名探偵だった。
それまで休んでいたこともあって、わたしは短距離走のスピードで走ることができた。
歩行用の橋を渡りきったあと、自然公園の遊歩道は一周する。右手に競技場や運動場、広場を臨み、ふたたびスタート地点に戻る。
実行委員たちは話しながら、最後の直線を走っていた。男子は一時間で十五キロを走らなければいけないから、けっこう大変なはずだけど、余力はあるみたいだった。
木村と背の高い男子が走りながら話している。たぶん実行委員長の分藤だ。その隣を走っている坊主頭は、まちがいなく野球部員だ。たまたま合流したらしく、二周でいい橋津まで並走している。
わたしは全力でダッシュし、実行委員たちに追いついた。事情を説明する。しばらくその場で待つと、栗須がきた。
背後に最後尾ランナーが迫っている。分藤がG-SHOCKの腕時計を見ると、もう十二時五分前だった。
デブの男子が通ったあと、よたよたと栗須がくる。
わたしは実行委員たちに言った。
「じゃ、犯人がだれかの説明は栗須がするから」
「は!?」橋津が声をあげる。「自分ですればいいじゃん」
もっともだ。「あー」と考える。結局、「それはタルいから」と言った。
分藤が腕時計を見る。
「なんでもいいけど、そろそろゴールに向かったほうがよくないか? おれたちが最後集団だ」
わたしたちは栗須を囲むようにして、また走りはじめた。栗須はこれまでの推理をくり返した。
「木村くんのスマホに、スポーツドリンクを流用するようにラインが送られたのは、給水タンクの故障の発見を遅らせるためだった。でも、給水タンクは簡単に壊れるものじゃない。だからたぶん、給水タンクはもとから壊れてた。犯人は、壊れた給水タンクをマラソン大会で使うものと交換した。そうじゃなければ、故障をごまかす理由がない。つまり、犯人は実行委員で、給水タンクを使う運動部のだれか」
ここまでの推理にはもう慣れた。けど、はじめて聞く実行委員たちには興奮するものだったらしい。とくに分藤と野球部員は熱心にうなずいていた。
栗須は言った。
「さらに、犯人はだれか。ここで疑問が浮かんでくる。どうして犯人は偽装工作をしたのか。故障の発見を遅らせたところで、マラソン大会が終わるまで見つからないとは思えない。つまり、この偽装工作はムダだった。得をするのは、ラインを受けとってアリバイができる木村くんだけ」
それを聞いて、木村は顔を赤くした。
「はあ!? なに言ってんだよ!」
栗須は急いで続きを言った。
「けど、それも木村くんに冤罪を着せるためのものかもしれない。その場合、犯人はパソコンを操作できた野球部のひとたちってことになる」
坊主頭の野球部員は黙って聞いていた。ただ眉間にシワを寄せている。
ゴールが見えてくる。最後にゴールする生徒を応援しようと、沿道に生徒たちが集まっている。生徒たちはまとまりのない歓声をあげている。
わたしはチラッと後ろをふり返った。最後尾ランナーが数メートルのところまで接近している。すると、本当に制限時間ギリギリらしい。
目の前を走っている、デブの男子が失速した。わたしたちの真横を下がっていく。横目に、太った顔に満面の汗をかいているのが見えた。
デブはまだよたよたと走っていたけど、最後尾ランナーが追い抜いた。「あー!」と、デブは悲痛そうな声をあげた。わたしは前に向きなおった。
栗須もヤバそうだった。もう腕を上げきることができず、ゾンビみたいに前のめりで走っている。
沿道の生徒たちが「がんばれー!」と声をかけてくる。実行委員が、脱落しそうな生徒を支えているように見えるらしい。
もう時間がない。分藤が苛立ったように言う。
「で、犯人はどっちなんだよ」
「どっちでもなかった。わたしたちは根本的に考えちがいをしてた。どっちが犯人にしても、そんな不確かなアリバイ工作をするはずがない」
喘ぎながら、栗須はそう言った。
沿道から女子が飛びでてきて、わたしたちに伴走する。三崎だ。栗須に透明なペットボトルを差しだす。中身は水らしく、ペットボトルのなかで波立っている。
「これ。つらそうだから」
栗須はフタの空いたペットボトルを受けとると、顔の上で傾けた。口から水があふれる。ペットボトルを三崎に返すと、続きを話した。
「犯人は給水タンクを壊したことをごまかすためにラインを使ったんじゃなかった。ラインを使ったことをごまかすために給水タンクを壊したんだ」
分藤が言う。
「どういうことだよ。おれだって自分のラインを見られれば気分はよくないけど、だったらそもそも共用のパソコンでログインしたりしない」
「だから、犯人はパソコンからラインにログインしたんじゃない。学校に置き忘れたスマホからログインしたんだ」
「いや。スマホはロックがかかってるだろ」
分藤は眉を寄せた。栗須は言った。
「わたしは不思議だった。橋津さんの誕生日は六月六日。そんな特徴的な日づけを忘れるひとが、どうして付きあいはじめの記念日をおぼえておけたんだろうって。たまたま他の記憶に残る日づけと重なってたのかもしれない。けど、だらしないひとが記念日をおぼえておく方法がある。それはスマホのパスコードに登録すること」
栗須は分藤を見た。分藤は黙っていた。
「〇五二六」
やがて、分藤はポツリとそう言った。「スマホが戻ってきたら変えるよ」と言い足す。
木村が橋津のほうを向く。
「じゃあ、犯人は分藤との記念日を知ってる…」
栗須は木村を制した。
「犯人は実行委員のだれかじゃない。実行委員がバスで学校を離れるまで、分藤くんはスマホを取りに戻るかもしれない。この犯人が、そんな危険をおかすとは思えない。犯人はたまたま学校にいって、そこで分藤くんがスマホを置き忘れたことに気づいた」
わたしは三崎の顔を見た。三崎は顔を赤くして、汗をかいていた。走っているからだけじゃないだろう。
兄の自転車が盗まれた話をしたとき、三崎はダイヤル錠ならすべての数列を試せばいいということにやけに感心していた。そのことを思い出した。
栗須は言った。
「犯人は分藤くん、橋津さんと親しい関係で、記念日の日づけも知っていた。そもそもわたしと倫子がこの事件のことを知ったのは、三崎さんに教えられたからだった。そこでスポーツドリンクが盗まれたと説明されて、事件の中心が実行委員会であるみたいな先入観が作られた。ただ事件の状況を知ったなら、もっとはやく犯人がわかったかもしれない。わたしたちはそのとき最後集団にいたけど、いまから考えれば、運動部の三崎さんがその位置にいるのがおかしかった。倫子は推理小説バカで有名だし、事件のことを話せば、いいスピーカーになってくれるって予想できる。
そう。給水タンクはどの時点でも壊れてなかった。犯人は木村くんのスマホにラインを送ったあと、給水所までいって、隙を見て給水タンクをぶっ壊した。もちろん、移動手段は走り。女子は男子よりスタートするのが三十分遅い。給水所までいって戻ってくる時間はあった。犯人は分藤くんのスマホで、木村くんとのラインのやりとりを見た。それで既読を付けてしまったけど、どうしてもそのことをごまかしたかった。実行委員会の本部にいったら、運良く、分藤くんがパソコンでラインにログインしたことを知った。それでこの計画を思いついた。犯人は三崎さん、あなただよ」
ゴールを通過する。わたしたちの直後に最後尾ランナーが到着する。
計時係の実行委員が、置時計を見て「時間でーす!」と声をあげる。
栗須が酸欠で地面に倒れこむ。応援していた生徒たちが歓声をあげて、わたしたちに殺到した。
彩湖道満グリーンパークの自然公園には、湖水を引いて池がつくられている。その中心には浮島がある。岸とは桟橋のような木橋でつながっている。橋を渡るとき、板木を踏む乾いた音がした。藻の臭いがする。
わたしと栗須は閉会式を免除されて、浮島にいた。いまごろ広場では、全校生徒が分藤の閉会式の挨拶を聞いているだろう。
栗須の推理のあと、三崎は言い訳しなかった。橋津が三崎に怒っているみたいだったから、たぶん、三崎は分藤の相談を聞くうちに親しくなった。その恋愛関係のもつれが、今回の事件を起こしたんだろう。けど栗須が倒れてしまって、わたしは詳しい事情を知ることができなかった。
栗須に買ってきたプロテインバーを差しだす。
「はい。高タンパク高カロリーだよ」
自分でも包装紙を開けて食べる。スニッカーズのような、ヌガーの濃厚な食感がする。栄養のかたまりを食べているという気がする。
雑草の生えた土面に体育座りする。プロテインバーをくわえ、膝を台にして、ノートに栗須の推理をメモした。
栗須は両手でプロテインバーを持って食べた。
「ヒントになったのは排中律の話だったんだ。無限については排中律は成り立たないって。しかも、それはそれだけのことじゃなかった。わたしも犯人が木村くんかそうでないかのどちらかだと思ってたけど、本当はそれ以外の可能性があった。しかも、それは検討にあたいするものだった」
「本気で言ってる?」
「そう思わなきゃやってられないだけ」
口調に毒気がある。ねぎらうつもりで言う。
「たいした名探偵ぶりだったよ」
「名探偵じゃなくても、後期クイーン的問題が難題だってことはわかりそうだけどね」
栗須は皮肉っぽく言った。
「うん。だから知的なパズラーはあきらめて、タフなハードボイルドをやろう。マラソンの直後の栄養補給は、筋肉をつけるのに最適なんだって。それを食べて体力つけてね」
栗須はしばらく手のなかのプロテインバーを眺めたあと、頭を抱えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます