栗須は両手で紙コップを持ち、スポーツドリンクに口をつけた。

「ホントだ」

 味見して言う。「ねえ」と実行委員に声をかけられ、栗須はビクッと体を跳ねさせた。紙コップを両手で抱えたまま、視線をさまよわせる。

 給水所には実行委員が立っていた。よく見ると橋津だ。

 橋津はわたしに言った。

「さっきミサがきて、キリンたちにスポドリのことを話したって言われたんだけど。それで、なにか聞かれたら答えてあげてって」

 ミサは三崎のあだ名だ。わたしは橋津に向いた。

「無くしたか盗まれたって聞いてたけど」

「べつに、それもまちがってない」

 そう言い、イラついたように手で髪を整える。

 橋津はショートカットを茶髪に染めている。頬が盛りあがっていて、鼻の脇から線ができている。顔の輪郭を気にして、左右の前髪を伸ばしていた。

 事件の前に、橋津について聞く。

「実行委員も走るんでしょ。きみは?」

「十一時に交替する予定。女子は十キロでいいから、あとから交替する。木村もいたんだけどもうスタート地点にいった」

 言葉にしたことで時間が気になったらしく、ジャージからスマホを出して画面を見る。

 わたしは並べられた紙コップを見た。

「とにかく、スポーツドリンクはなくなってなかったんだ」

「そういう問題じゃないから」

 橋津は頬にかかる前髪を指でしごいた。

「結局、ここで給水に使ったせいでスポドリは足りなくなる。あたしは実行委員の三年で金を出して買い足そうって言ってるんだけど、どうしても自腹切るのは嫌だってバカがいてさ」

「スポドリくらい、だれも文句言わないよ。普通に謝ればいいじゃん」

 わたしがそう言うと、橋津は早口で応じた。

「毎年そうしてるんだから、あたしらの都合で勝手に変えるわけにいかないじゃん。みんな楽しみにしてるんだしさ。イベントっていうのは、事前に決めたことをやるだけじゃダメじゃん。参加したひとを楽しませて、終わったときには新しい価値を生みだしてないとさ」

「だから、金を出させるの?」

「そう」

 ファシスト、とわたしは心のなかで橋津を呼ぶことにした。

「それにしても、なにがどうなってるの?」

「それがさ。あたしと木村が給水所の設営を担当してたんだけど、木村が勝手にスポドリを持ってきちゃって…」

「どういうこと?」

 わたしは驚いて遮った。橋津はうなずいた。

「実行委員の連絡はラインでしてるんだけど。分藤がスマホを学校に置いてきちゃって。あ、知ってるかもしれないけど、実行委員は学校に集合してバスで移動ね。で、本部に記録を管理するためのパソコンがあるんだけど。Wi-Fiが通じてるから、分藤はそのパソコンでラインにログインしてたんだよね」

「それで?」

 と、わたしはあいづちを打った。

「分藤は実行委員長だから、本部を離れることも多いんだけど。その隙にだれかがパソコンで木村にラインのメッセージを送ったらしいんだよね。〈スポーツドリンクを四箱、給水所に持っていって、水の代わりに準備しとけ〉って。で、あたしが気づいたときには、木村はもうそれをやってたわけ」

「でも普通、ラインがきたって直接確認しない?」

「そこは木村だから」

「ああ…」

 わたしの問いに、橋津はあっさり言った。わたしも納得する。木村は髪にワックスをベタベタつけたバカだ。サッカー部に所属している。期待もされないけど、こういうときもたいして責められない。

「そのとき本部にいたのは?」

「野球部の連中が固まってた。でもずっとパソコンの前に座ってたわけじゃないから、だれが使ってもわからなかったって」

 考えこむわたしに、橋津は言った。

「だれのイタズラにしても、ある意味では良かったんだけどね」

 怪訝な顔をすると、橋津はわたしを給水タンクの横に連れていった。

「ここ見て。縦にひび割れがあるでしょ。あたしも木村が余計なことをしてるのに気づいて、給水タンクに水を汲んだんだけど。このひび割れから水漏れするんだよね。だからってスポドリを使うわけにはいかないんだけど、なし崩しにそのままになったんだよね」

「ちょっと状況が複雑になってきたな。給水タンクはもとから壊れてたの?」

「それはない。事務室に保管してたし、一回、実行委員で現物を確認してる。運動部も同じ型を使ってる。今日、学校でテントとかと一緒にトラックに積みこんだけど、べつに乱暴にしたりしてない」

 なら、そのあとに壊れたということになる。わたしは栗須をふり返った。

 栗須は小さい顎に手を当てて、なにか考えていた。

 考えがまとまるまでの時間稼ぎで、わたしは橋津に尋ねた。

「三崎に聞いたんだけど、委員長の分藤と別れたんでしょ。橋津、自分から実行委員に立候補してたよね。気まずくなかったの?」

「別れたのは実行委員が決まったあとだから。イベント運営の経験をして成長したかったんだよね。ネットじゃバカにされてるけど、自己啓発書ってホントいいこと書いてあるよ。やっぱり、最後にはコミュニケーション能力が大事なんだよね。証券とかコンサルみたいなすごい会社に入るためにはさ…」

 わたしはニヤニヤしながら橋津の話を聞いた。わたしはときどき冗談を言うけど、橋津のようなひとは冗談のなかで生きているという気がする。

 けど、橋津はいやな顔すると、急に言葉を切った。わたしが面白がってるのが気に入らないみたいだった。わたしは急いで話題を変えた。

「でも、なんで分藤と別れたの? 分藤、イケメンじゃん」

 マラソン大会の実行委員長の顔なんか見ないけど、そう言っておく。

「それがさ。あたしの誕生日を忘れたんだよ? マジありえなくない? 付きあって一周年記念はおぼえてたから、確かめなかったんだけどさ。もともとそういうところはあったんだけどさ。もう最悪。いいかげんだし、デートも家で済まそうとするし。はじめのころは、それでもあたしに合わせてくれるのがいいな、って思ってたんだけど。誕生日を忘れたことを責めたらさ、〈おまえといると疲れる〉って言われて。何様って感じでしょ?」

「そうだね」

 助かったことに、栗須がわたしの体操服の裾を引いた。

 給水所の机からすこし離れて、栗須の話を聞く。それから、また橋津の前にいく。橋津は不審そうな顔をしていた。

「だれが木村にラインを送ったのか、突きとめてあげるよ」

「はあ? そんなの実行委員会のなかで探すから。外からシャシャんなくてもいいんだけど」

 橋津はかなりイラついていた。わたしはちょっと不安になったけど、栗須に教えられたとおりに言った。

「実行委員会のなかで探すって、だれかが名乗り出るのを待つだけでしょ? でも、これはうっかりとかイタズラ心とかじゃない。きちんと考えた上での行動じゃないと、こううまく運ばないよ。だから、ただ待ってても犯人が名乗り出ることは絶対にない。それなのに、名乗り出やすい雰囲気をつくればなんとかなるだろうって思ってるのは、認知科学の確証バイアスのせい。そのせいで、外部情報を参照せずに自分の思いこみを強める。これが楽観主義の原因」

 橋津は眉を寄せた。

「確証バイアスってなに?」

 そんなの、わたしだって知らない。

 深く追求される前に続きを話す。

「たぶん、実行委員会は大会が終わったあとで反省会をするだろうね。そのとき、また犯人に名乗り出るように促すと思う。けど、絶対に名乗り出たりはしない。被害はたいしたことなくても、自分たちのなかに犯人がいて、そいつがだれかわからないっていうのは気持ち悪い。大会のあとだけじゃなくて、家に帰ってからもその気分が続く。けど、大会が終わるまでに犯人を見つければ、それで終わり。犯人も謝るよ。そしたら、気分よく打ち上げにいける。だから、わたしたちに犯人を探させて」

 橋津は黙って考えた。長い沈黙のあと、「いいよ。探せば」と言った。

 わたしは言った。

「気づいたことがないか聞いて回っても、いまの橋津みたいな反応をされる。それじゃ困るな」

 橋津はわざとらしくため息をついた。

「わかった。グループラインで実行委員会にあんたたちに協力するように伝えておく」

 首を振る。

「閉会式まであと一時間しかない。いまから走ってたら、もう時間だよ。自由に行動できるようにしてくれないと」

 橋津はわたしを睨んだ。けど、それは負け惜しみだったらしい。ぶっきらぼうに「いいよ」と言う。

 わたしは栗須を指さした。

「栗須もね」

「なんで?」

 橋津は怪訝そうな顔をした。

 わたしは「ホームズにはワトソンが必要だからね」と言いたかったけど、栗須にそういう幼稚なことは絶対に言うなと念押しされていた。だから、ただ「いいじゃん」とだけ言った。

 橋津はジャージからスマホを取りだした。電話をかける。橋津の声だけが聞こえる。

「いまいい? そこに分藤いる? いや、代わらなくていいから。それより伝えてほしいんだけどさ…」


 彩湖について荒川と反対側に、やけに高い堤防がある。水害対策というやつだろう。ビル三階分の高さだ。草むした土手のなかに、急な石段がある。わたしと栗須はそれをのぼり、堤防の上に出た。

 アスファルトで舗装された道路がまっすぐに伸びている。道幅は狭く、またすぐ斜面になっている。

 眼下には、タイルを敷きつめたように、どこまでもありふれた住宅の屋根が続いている。その果てでは、首都高の高架道路の防護壁が走り、地平線を隠している。

 ここなら閉会式までサボっていても見つからないだろう。サボリはともかく、わたしは栗須が探偵に乗りだしたのが嬉しかった。栗須の推理を聞くのは楽しい。

 栗須は広がる家並みを見下ろした。

「このたくさんの家のなかに、ひとつひとつ別の人生があることを考えると怖くなるね」

「橋津が言ってたことをどう思う?」

 わたしが尋ねると、栗須は顔を向けた。

「橋津さんは認知科学でいうハロー効果の実例を示してた。認知容易性のために、評価の一貫性を保とうとするヒューリスティックのことだよ。

 実験で二人の人物に対する評価を質問する。Aは〈頭がいい、勤勉、直情的、批判的、頑固、嫉妬深い〉と説明される。Bは〈嫉妬深い、頑固、批判的、直情的、勤勉、頭がいい〉と説明される。そうすると、要素は同じなのにAとBの評価はかけ離れる。先行刺激によってバイアスが形成されるんだ。しかも〈頭がいい、勤勉、直情的〉と〈批判的、頑固、嫉妬深い〉のそれぞれの要素から人物像を想定してもらうと、両者が一致することはありえないって回答される。これは実験だけじゃなくて、日常生活で、連想記憶の働きによって一般的に起きてる。

 しかも、バイアスがかかるだけじゃない。訴訟で原告側、被告側のどちらかの弁護士からだけ説明を受けると、情報は変わらなくても、ほぼ説明した側に賛成する。それだけじゃなくて、その人々は、両方から説明を受けた人々より、自分の判断に自信をもつんだ」

 栗須は体をわたしに向けると、結論を言った。

「橋津さんの恋人への感情は、認知科学のヒューリスティックとバイアスに支配されてた。もっとも、これはいわゆる恋人たちのほとんどがそう」

「恋愛事情じゃなくて事件のことだよ」

 わたしは呆れて言った。

「なんでマラソン大会の最中に恋バナしなきゃいけないの」

 栗須は顔をすこし赤くした。

「推理小説のことしか頭にない倫子にそんな話してもムダか」

 そう嫌味っぽく言う。

「そんなことないよ。推理小説にも男女四人の四角関係をあつかった名作がある。一代にして犬神財閥を築いた大立者、犬神佐兵衛が家族の見守るなか死没する。遺言状には長女松子の息子・佐清、次女竹子の息子・佐武、三女梅子の息子・佐智のうち、いずれかと結婚することを条件に、養子の野々宮珠世に全財産を相続させることが記されていた。市川崑が監督した劇場版も記録的な大ヒット。『ハチミツとクローバー』ってタイトルなんだけど」

 栗須は前髪の下から、嫌そうにわたしを見上げた。

「本当に話が通じない」

「認知科学がどうこうっていうのも似たようなものじゃん」

「ううん。認知科学は実際に役立つ」両手の指を合わせる。「大半の人間のとる行動は、とても不合理で理解しにくい。とくに恋愛に関しては。認知科学を知っていれば、理解の助けになる」

 わたしは頭の後ろで両手を組んだ。

「偉そうな言いかただね。鳥がどういう意味でさえずっているかとか、どうしてシマウマがハイエナが近づいても平気でいられるかとか研究してるみたい」

「むしろ、オウムが人間の言葉を真似するとか、ウマが観客の前で算数を解くとかのほうが近いかな。わたしが鳥類や奇蹄目のほう」

「どっちにしてもきみの男性関係は壊滅だ」

「べつにいいよ。友達がいるし」

 そう言い、栗須はわたしを見た。

「よくそんな恥ずかしいことが言えるね」

 肩をつかんで揺さぶる。手のひらに小さくて骨ばった肩の感触が伝わる。

「わたしだって恥ずかしかったよ。ほら、動悸がしてる」

 栗須はわたしの手を導き、心臓の上あたりを触らせた。トトトト、というすばやい鼓動を感じる。わたしは笑いだし、地面にしゃがみこんでしまった。

「なに?」

 うずくまるわたしを、栗須は不審そうに見下ろした。

 わたしは笑いながら言った。

「だって、小動物みたいな鼓動をしてるから…」

 それを聞くと、栗須は不機嫌になった。なおさら笑えて、「動物の死ぬまでの鼓動の回数は、体の大きさに関係なく二十億回くらいらしいけど、栗須は早死にしそうだね」と言った。

 本気で機嫌を悪くしそうだったから、わたしは話を戻した。

「スポーツドリンクの箱を盗んだ、というか、移させたのは給水タンクを壊したことを隠すためだった。実行委員は各クラスから二人ずつ選ばれてる。そのうちのだれか特定することができるの?」

「うん」

 栗須はうなずいた。

 アスファルトの両脇は雑草が生い茂っている。イヌビエが穂を垂らし、茎を交差させている。高台だから風の通りがいい。雑草が風に吹かれてざわめく。陽気に涼風が気持ちいい。

 栗須は尻ポケットから小さなチョコレートを取りだした。わたしに手渡す。

 わたしはチョコレートを口に放りこんだ。舌で転がしながら言う。

「グルメミステリーっていいよね。カーの『緑のカプセルの謎』に出てくる、毒入りチョコレート・ボンボンとか」

 栗須は渋い顔をした。

 土手をぶらぶら歩きながら話す。栗須は言った。

「給水タンクはここに着いてから、それか移動中に壊れたんじゃないよ」

「えッ」

 わたしは驚いて声をあげた。

「この事件は実行委員長の分藤くんが、学校にスマホを忘れて、しかも大会運営用のノーパソでラインにログインしなきゃ起こらなかった。その段階ですごい偶然だよ。だれかがたまたま給水タンクを壊すなんて偶然が、さらに重なるとは考えにくい」

「ありえなくはないでしょ。犯人は幸運な偶然を利用したのかも」

「分藤くんがスマホを忘れるのもすごい偶然だけど、給水タンクを壊すのも、それと同じくらい偶然。だって落としたくらいで壊れるようなものじゃない。それなら、こう考えたほうが納得がいく。給水タンクはもともと壊れてたんだって」

 わたしは首を傾げた。

「給水タンクは事務室で保管されてたんでしょ。壊れることなんかないじゃん。壊れたにしろ実行委員の責任じゃないでしょ」

 栗須は隣を歩きながら、わたしを見上げた。

「運動部も同じ型の給水タンクを使ってるんでしょ? 壊れたのはそれだよ。どこかの部が部活中に壊した。給水タンクも数千円はするでしょ。たまたま実行委員の仕事があって、すり替えたら部費が浮くと思った。で、学校ですり替えておいた」

「じゃあ、部活ぐるみの犯行だ」そう言ってから、橋津の話を思い出す。「野球部がパソコンの前に陣どってた」

 栗須は慎重に言った。

「分藤くんは男子テニス部でしょ。スマホを忘れたふりをして、わざと大会運営用のノーパソでラインにログインする。そして、ほかの部活の犯行に見せかけたってことも考えられる」

 よく考える。「ああ」と、わたしはうなずいた。栗須は続けた。

「けど、それはない。そういう風に主張するには、自分が本部を離れてなきゃいけない。そのあいだ、本部にだれが詰めてるのかはわからない。本部を離れて、スマホから木村くんにラインを送って、それでだれも本部にいなかったりしたら、墓穴もいいとこ」

「なら、犯人はやっぱり野球部だ」

 栗須は顎に手を当てた。

「そう考えたいところだけど、そもそもの疑問がある」

「なに?」

「どうして犯人は偽装のラインのメッセージを送ったりしたかってこと。一見、給水タンクを壊したことの偽装工作に思えるけど、まさかそれが最後までバレないなんて考えたはずがない」

 つまり、と栗須は言った。「偽装工作そのものが偽装だった。この見せかけの偽装工作で得をしたのはひとりだけ。容疑者でなくなった木村くんだけだよ。木村くんは男子サッカー部でしょ?」

 わたしは小さく拍手をした。尻ポケットから丸めたノートと鉛筆を出す。いまの推理をメモする。それから栗須に言う。

「見事な推理だったよ。これが推理小説ならね」

 わたしの言葉が聞こえなかったように、栗須は歩きつづけた。すると、栗須もいまの推理の欠点は気づいていたらしい。

 わたしは鉛筆の尻で頭を掻いた。

「だって、木村はそんな複雑な考えかたをするタイプじゃないでしょ。そもそも、いま栗須が推理したみたいなアリバイ工作を思いつかないでしょ」

 木村の性格は知っている。推理小説なら〈意外な犯人〉でいいけど、現実ではありえない。

「うん」

 と、栗須はあっさりうなずいた。それからわたしを見上げる。

「でも、これは推理小説じゃない。だからべつに推理で犯人を特定しなくたっていい。わたしにはこの特技がある」

 自分の目を指さす。

 栗須には瞳孔の拡縮で、他人がどれだけ意識を集中しているか判別する特技がある。とくに嘘をついているときは、自律神経が活性化し、瞳孔が拡散するため、すぐわかるらしい。その精度はすでに知っている。

 わたしは肩を落とした。

「推理小説の名探偵なら、アンフェアの謗りをまぬがれないよ」

「これは超能力じゃない。だれでもできることだよ。例えば、写真家は被写体の瞳孔の大きさにつねに注意してる。ただ、質問をするのに工夫がいるけど。大抵のひとは質問される時点で緊張してるから、すでに瞳孔が開いてる。だから何気ない質問をしながら、犯人だけ注意力が跳ねあがる質問を挟まなきゃいけない」

 わたしは栗須の腕をとって、腕時計を見た。十一時十分だ。

「実行委員は十一時ごろにスタートするんだっけ。完走するのは十一時五十分くらいか。それくらいに本部に戻ればいいね」

「うん。ぶらぶらしよ」

 しばらく土手を歩いていると、自然公園に敷地にヤクルトスワローズの球場が見えてきた。二軍の本拠地らしい。何人かの野球選手が練習している。

 わたしが応援するのは当然、地元の西武ライオンズだ。それに、他球団の二軍の練習を見物するほどコアな野球ファンじゃない。視線を戻す。

 栗須に言う。

「さっきの話だけど、〈後期クイーン的問題〉っぽいね」

「なにそれ」

「法月綸太郎が『初期クイーン論』って小論で取りあげた問題でさ。フェアプレイを掲げる推理小説は、作中の手がかりから犯人が特定できるようにするけど、その手がかりが〈偽の手がかり〉だってことを考えるとキリがなくなるって話。

 探偵が手がかりから犯人をAだと推理しても、その手がかりは真犯人Bによる偽物かもしれない。これくらいならよくあるけど、同じ理屈は真犯人Bにも言えて、真の真犯人Cにも、真の真の真犯人Dにも言える。だから、推理小説のフェアプレイは仮でしかないって言われるわけ。で、〈偽の手がかり〉をあつかった名作がクイーンの『ギリシャ棺の謎』」

「それが後期作なんだ」

「いやぜんぜん」

 わたしは手をパタパタと振った。

「『ギリシャ棺の謎』はシリーズ第四作で、発表されたのは第一作の三年後」

「じゃ、なんで〈後期〉なの」

 栗須は眉を寄せた。子供みたいな顔だから、そういう表情が似合わない。

「後期作でクイーンはフェアプレイから離れて、自然主義的な小説に近づくんだ。だって、現実はカオスだからね。そのなかで名探偵のエラリー・クイーンは、真相を推理して、犯人を特定することの正義に悩むんだ。この名探偵の苦悩が、推理小説のファンには泣けるんだよ。

 後期作の『人間が犬をかむ』のあらすじはこう。ワールドシリーズ優勝を賭けたジャイアンツとヤンキースの死闘は第七試合までもつれこんだ。ニューヨークっ子のエラリーはこれを見逃せない。試合は白熱して、九回裏で三対三に。そのとき、観客席で殺人事件が。エラリーは名探偵としての要請で、泣く泣く、死体がある医務室にいくんだ。泣けるでしょ」

「剽軽にもほどがある」

 栗須はため息をついた。

「どうして〈後期クイーン的問題〉って言うのかわかった。〈前期クイーン的問題〉って言わないためだ」

「たしかに〈前期クイーン的問題〉じゃカッコつかないね。でもべつに早すぎるってことはない。なにせ、シリーズ第三作の『オランダ靴の謎』がフェアプレイの代表作だからね」

 わたしはノートをパラパラとめくった。

「『オランダ靴の謎』には、クイーンのこんなセリフまである。〈ぼくは少なくともこの意味では、カント哲学の学徒でしてね。人間におけるごった煮のような精神活動のうちで、純粋理性だけが最高に貴重な働きをする。その働きによって、ある人間の頭脳が考えることは、別の頭脳でもかならず推察できる、というのがカントの学説であり、ぼくはこの学説に全面的に賛同しているのです〉。

 この前作を上回ろうとするなら、〈偽の手がかり〉みたいなややこしいロジックを導入するのもムリない。〈後期クイーン的問題〉って言いかたを避けるなら、もっと具体的に〈推理小説のゲーデル的問題〉って言うこともあるけどね」

「どういう意味?」

 栗須がわたしの顔を見上げる。

「ゲーデルの不完全性定理って名前を聞いたことくらいはあるでしょ」

「まあね」

「わたしも名前だけは知ってる」

 栗須は肩を落とした。

 荒川の河川敷は広い。ゴルフ場が収まるくらいだ。土手からそのゴルフ場が見える。自然公園にくる途中、「戸田パブリックゴルフ」という看板が地面に立てられているのが見えた。

 スポーツウェアにサンバイザーという中年の男女が、ゴルフクラブを振っているのが遠目に見える。

 わたしはノートのメモ書きを見つけた。

「ゲーデルの不完全性定理は〈ある任意の形式体系の無矛盾性は、その同じ体系では証明できないことの証明〉だって。でも推理小説の説明のほうがわかりやすいな。ノックスの『陸橋殺人事件』にはこういうセリフがある。

 〈まず最初に言っておく。”この古文書には三つの部分が含まれている。すなわち、真正の部分と偽作の部分、そして第三には、偽作の部分を真正と思わせるための、故意に付け加えた偽の証拠である”とだ。ただそれだけの手間で、きみはこの論戦にかならず勝つ〉」

 栗須はあまり納得していないみたいだった。

 ノートを開きつつ、その向こうにゴルフ場を見る。わたしは言った。

「『陸橋殺人事件』は中井英夫の『虚無への供物』と並ぶアンチ・ミステリーなんだ。アンチ・ミステリーであることが明かされたあとのセリフも渋いよ。〈将来はゴルフのゲームに専念するよ――ゲーム、ゲーム、ゲームばかり、ゲームのほかには何もなしだ〉だって。

 『陸橋殺人事件』はゴルフ、『虚無への供物』は麻雀をしながら、登場人物たちが推理合戦をするんだ。やっぱり、ゲームは大人のたしなみだね」

「中年のサラリーマンのね」

 栗須は冷たく言った。

 そのあとも、わたしたちはダベりながらぶらぶらした。

「ゴルフに関係する推理小説はいろいろあるけどさ。あえて挙げるなら〈ネロ・ウルフ〉シリーズ第一作の『毒蛇』だね。ゴルフ場で大学総長が急死するんだけど、ウルフがゴルフクラブの異常に気づくところから物語がはじまるんだ」

「木から彫りだした手作りのゴルフクラブだったの?」

「そうなんだよね。大学総長の相手は猿にしか見えない野生児の少年。〈わいは猿! プロゴルファー猿や! わいは生活のために金を賭けてゴルフしとる。そこらの甘ちゃんとは違う、本物のプロや!〉。総長は負けたショックで心筋梗塞」

 体操服を着た女子が土手の石段を駆けのぼってくる。

 斜面が急だから、道にあらわれるまで気づかなかった。ヤバい、と思ったけど、女子は両手を振ってわたしたちに近づいてきた。

 よく見ると三崎だった。三崎はわたしたちの前で立ちどまると、両手を膝について、荒い呼吸をした。顔を上げて言う。

「キリンたち、こんなとこにいたんだ。探したよ」

「どうしたの?」

 わたしたちがサボっていることを知っているみたいだから、橋津あたりから話を聞いているのだろう。

「はやくコースに戻って」

 三崎は額の汗を拭った。

「ええ?」と、文句を言う。

「数学の千川が、自分も走ってコースをチェックするって。キリンたちの中間地点の記録はつけてるけど、到着の記録はつけてないから、このままだとサボリがバレるよ」

「ヤバいね。失格は追走十キロだから、残り五キロを走ったほうがマシだ」

 ここからコースに戻れば、最短でも四キロは走ることになる。栗須の腕時計で時間を見る。十一時半だ。

 両腕をおおきくグルグル回す。腕を真上でとめて、「んー」と伸びをする。

「二十分で四キロってとこか。ま、いままで休んでたしいいか。ね、栗須」

 かたわらの栗須を見下ろす。

 栗須はなにも言わなかった。顔には死相が浮いていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る