極楽鳥の憂鬱

 クラスメイトの肩が自分の肩に軽く触れたので、どうしようもなく気分が悪くなってしまった。左腕の時計を見ると、一時ジャスト。丁度良いやと思い、口を押さえたまま教室を出て、廊下を歩く。

 予鈴が鳴った後の人の流れに逆らい、階段を駆け降りる。二階まで来たところで角を左に曲がれば、すぐそこが保健室だ。扉の前に置かれた靴は一つだけ。ノックもなしに扉を開けると、冷気がふわりと漂い出て来る。

「こら、春海。靴を脱ぎなさい、靴を」

 先生が怒鳴るので、口を押さえていた手を外して、弁解する。

「分かったからさあ、とりあえず休ませて。気分悪くて、吐きそう」

「じゃあ吐いてから来なさい。便所は隣だろうが」

 口調は丁寧。でも、内容は酷い。普通、生徒が顔を真っ青にして吐きそうになりながら保健室に来てるのを、追い返す? けれども、文句を言っても聞いてもらえそうにないし、何より、そんなの言ってられる状態じゃあないから、黙ったまま回れ右。本当にすぐ隣の、男子トイレに駆け込む。

 一番奥の個室の扉を引いて中へ入り、便器の蓋を開けて、その前に膝をつく。制服が汚れるけど、仕方がない。両手で便器の縁をつかみ、下を向く。便器の中はつるんとした白色をしている。毎日、真面目に掃除しているおかげだろう。

 何が可笑しいのか、笑い出しそうになったけれど、開けていた口からは、逆流してきた元・食べ物が、こぼれた。一瞬忘れていた嘔気が、すさまじい勢いで胸の辺りを渦巻く。すぐに、熱いものがせりあがってきて、口から溢れ、落ちていく。

 まだ辛うじて固形を保っている食物は、次々に、喉を通って口から吐き出されていく。否が応でも視認してしまうそれらから、今日の昼食のメニューが思い出される。申し訳なさなのか何なのか、涙があふれた。いや、ちょっと待て、弁当を作ったのは俺自身だろう。じゃあ、これは生理的な涙か。獣でも流しうる涙。

 口の中は吐いたもののカスがへばりついていて、べとべとする、なんて言葉じゃ足りないくらい、気持ち悪いけど、まだ、何か出てくる。喉の奥の熱いものにうんざりしながら、すこしでも楽になろうと思って、吐くのを助けるように、喉の奥を開いた。苦いものが舌を伝ってこぼれおちていく。

 ぼと、と落ちたものは胃液らしき液体で、少し粘つくからか、唇の端から、糸を引いている。仕方ないから、右手で糸を切って、便器の縁に擦り付けた。それから、目を瞑って、手探りで、水を流す。その流れる音がしなくなってから、目を開けて、ゆっくりと立ち上がり個室を出た。

 口の中も口の周りも、べとべとして気持ちが悪い。でも、シャツで拭うなんかごめんだ。手洗い場の蛇口から思い切り水を流して、その下に開いた口をもっていき、水を口に含む。それで口を濯いで、水を吐き出す。二、三回、繰り返す。べとつきはとれて、だいぶすっきりした。後は、口周りだけど、そこだけ流すのも面倒だ。なら、頭から水でもかぶろう、暑いし、丁度良い。

 ひと思いに蛇口の下に頭を突っ込むと、勢いよく流れる水が、思いの外気持ちよかった。顔を色々傾けて、気になるべとつきも洗い流す。このまま顔ごと溶けて流れてしまえばいいのに。でも、また、べとべとするのを洗い流さないと、気持ち悪いのだろう。それは面倒だ。めったなことを考えるもんじゃない。

 また手探りで、水を止める。顔をあげて、視界に入る邪魔な前髪だけ左右に分けた。滴る水でシャツの肩が濡れるけど、こればかりは、仕方がないだろう。

 少しだけ足下がふらつく。壁を支えにしてトイレから出て、保健室の前に戻る。ドアは俺が出て行ったときのままの、開けっ放しだった。なんて、不用心。

 今度はちゃんと靴を脱いで、スリッパに履き替えて中に入った。養護教諭はこちらを見て、目を細める。

「……今の一瞬でベタなイジメにでも遭ったか」

「いいえ」

 出来る限りの笑顔で答える。養護教諭はやけに大げさに溜息を吐くと、席を立った。

「春海、ドア閉めろ」

 また命令。うんざりしながらそれに従う。振り向いて。ぴしゃりとドアを閉める。文句の一つも言ってやろうと、養護教諭の方を見ると、白い何かが飛んできた。避ける間もなくて、顔面に被さった。表面は少しごわごわしている。

「……雑巾?」

 言った後に後悔する。思ったままのことを口にするという、馬鹿馬鹿しいことをしてしまった。ただ、養護教諭は、好きに考えればいい、とだけ言って、空いたベッドを指さした。白くてよく分からないもので、髪を拭きながら、そのベッドの方に歩いていく。腰掛けると、小さく、ベッドの軋む音がした。

「寝ても良いですかー?」

「お前はここに何をしに来た」

「先生とお話?」

 また怒鳴るかと思ったら、相手は静かなままだった。沈黙は肯定。枕の上に白いものをしいて、その上に頭を乗せて、ベッドに潜り込む。

 目を閉じたときの、暗闇が心地よい。その中で、心臓の音を聞きながら呼吸をするのが心地よい。まるで一人のような、自分以外は何もないような気分になれる。

 そういえば、この養護教諭の名前は何と言っただろうか。かなり、教諭陣の中では仲が良い方だと、思って、いるけれど。

 その人に直接聞こうと思って、目を開けた。カーテンを引いている、人影があった。その人影と目があった、と思った瞬間、人影は、動かなくなった。自分は睨めっこでもしたいのかと錯覚するほど、互いに視線を逸らさない。

 先生、と呼びかけようとしたら、先に春海、と呼ばれて、黙るしかない。早く寝なさい、という言葉が続いて、更に、黙るしかなくなった。また命令だ、と思う自分と、その通りだ、と苦笑する自分がいる。とりあえず目を閉じて、布団を頭までかぶった。

 しばらくして、カーテンを引く音と、足音が聞こえた。ただ、その足音は、近づいてくる。

 何故だろう、と思いながら呼吸をしていると、頭に、手が触れた。大きな、骨ばった手だというのが、髪を撫でる感触で分かる。その手は布団に入ってきて、額にまで触れてきた。冷たい、手だった。しかしすぐに離れてしまい、その温度がどれだったか、分からなくなる。

 かすれた声が何かを言ったように思った。何を言ったかまでは分からなかった。

 そういえば、俺はあの人が触っても平気だったのか。あの人は、そのカテゴリーだったのか。覚えていなかった。何故か。先程の冷たい手は、わりと好きな温度だったのに。

 でも、考えすぎたら、眠れなくなってしまう。今はとりあえず、眠りたかったから、深く息を吸い込んで、心臓の音に集中した。



「空」

 名前を呼ばれた、のを聞いた。それに答えようとするのに、口が開けられない。そういえば、自分を呼ぶ相手の顔も見えない。なんだ、まだ眠っているのか。

 眠りは自分にとって非常に望ましいものだ。意識が体から寸断され、体は全く動かない(これは、少なくとも自分にとっては真実だ。兄が言うには、「お前は寝返りすらしなかった」らしい)。意識だって、時々あって、大部分はない、のだから、ほとんどないのと同じ。まるで、死んでいるみたいな状態になれるから。

 人が生きているのが、俺にとってはどうしようもなく、不自然なことで、この、死んだみたいな状態が、ひどく望ましいのは、多分そのせい。自分自身がまだ死んでいないことは——自分自身をまだ殺していないことは、奇跡みたいな妥協だ。つまり、生きていることをどうしても受け入れられない本能と、自分が生きていくことを望む人がいるという現実の間で、俺がつけた折り合いの形だ。

「……そーら」

 名前を呼ばれる。生きているから、生きている人から、名前を呼ばれる。決して、その全てを心から肯定して、受け入れられるわけではないけれど。

 目を開けると、眉間にちょっと皺を寄せた、あっちゃんの顔がすぐそこにあった。目を開けた瞬間、あっちゃんが息を止めたのが分かるくらいの、近い距離。

「おはよう、あっちゃん」

 俺が言うと、あっちゃんは、ゆっくり息を吐いた。顔が段々とほころぶ。

 あっちゃんの名前は、本当は亜子、という。でも、会ったばかりのとき……確か、俺が十四歳のときだったと思う。その名前を聞いた俺が口走った、可愛いのか何なのかよく分からないあだ名を、ずっと呼ばせてくれている。

 一回、何でこのあだ名で呼ばせてくれているのかを、聞いたことがあった。そのとき、あっちゃんは「性別、わかりにくくなるからね」と、当たり前のように答えてくれた。そうだから、俺はあっちゃんが触っても大丈夫なんだろう。

 顔が遠ざかったので、俺も体を起こす。どうやら、畳の上で熟睡してしまっていたらしい。あっちゃんは、隣できちんと正座をしていた。背筋が真っ直ぐで、それだけで、綺麗だ、と思う。

 あっちゃんが、膝の上に置いていた手を、こちらに向けて伸ばす。どうするんだろう、と指先をぼんやり見ていたら、俺の右腕に触れた。

「畳、跡になってる」

 言われて、よく目を凝らしてみると、確かに、自分の腕に、赤い、畳の目の跡がついていた。ただ、それより先に、あっちゃんの腕の白さに、意識が飛んだ。

 このひとは、おれとはちがうせかいにいきている。

「——空が昼寝なんて、珍しいね」

 そう言いながら、あっちゃんは俺の腕から手を離した。触れなくなった人肌を少し寂しく思う。顔を見ると、穏やかな笑みを浮かべていた。

「夏休みだから?」

「そういうなら、あっちゃんが昼間家にいるのも珍しいよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 あっちゃんは、首を傾げて目を閉じた。また、眉間に少し皺が寄っていて、多分、くだらない会話への答えを必死に考えている。こういうところが、好きだなあ、と思う。勿論、嫌いだったら、一緒に住むことなんかしないだろう。それは、あっちゃんだって同じはずだ。むしろ、あっちゃんの方が激しいくらいじゃないだろうか。アパートの隣同士だった頃、あっちゃんを訪ねてきた人は、ほんの三人ほどだった。

 その頃は、一緒に住むなんて夢の夢でしかなくて、今みたいな生活を想像していたのは、兄だけだったはずだけれど。

 あっちゃんが目を開けた。首を傾げたまま、口を開く。

「一日ぐらい慧さんとはち合わせるかと思って、一週間家にいたけど、一日も会わなかった」

 うまくいかないね、と言って、肩をすくめる。眉根を寄せたまま、口元だけ笑んでみせた。いわゆる、苦笑の表情。僕は僕で酷く驚いて、多分、目も当てられないような表情。

「二人とも、互いの予定って……」

「知らない、かな」

「何で。俺はあっちゃんの予定も慧ちゃんの予定も、どっちも知ってるよ」

「空は知らなきゃ困るだろ」

「でも、あっちゃんと慧ちゃんだって……」

 そこで、僕は思わず口をつぐんだ。あっちゃんが、結んだ唇に人差し指をあてて、また、苦笑した。俺でも、そのジェスチャーの意味するところくらい分かる。

 俺も黙ったまま、あっちゃんも何も言わずに、互いに、少しの間見つめ合った。

 あっちゃんが、人差し指を唇から離す。その手がこちらに伸びてきて、一度だけ、頭を撫でていった。

「ありがとう、空」

 俺には、何で礼を言われるかが分からない。ただ、何だか胸の辺りがむかむかして、すっきりしなかった。

「空が怒るのも、当然だと思うよ。僕も慧さんも、互いに無関心すぎるから」

 あっちゃんが静かにそう言って、俺は、自分の状況を納得する。これが、怒っているときの感じなのか。でも、そんな一種類だけの感情じゃない気がする。もっと、ごちゃごちゃした、綺麗じゃない色を、している気がする。

「でも、嫌なんだ。慧さんが僕なんかに縛られるのも、その逆も。だから、相手の予定は知らないようにしてるのに、やってることは、一番嫌なことで、とても、矛盾してる」

 大きく溜息を吐いた後、あっちゃんは眉間を押さえて、首を左右に振った。その様子を見ているうちに、さっきまでのすっきりしない感じは薄れていった。代わりに、いたむ。同じ辺りがちりちりと、燃えているように、痛む。

「僕も慧さんも、互いの側にいるのが一番楽だからって、今のところに収まったのに、今は全然、楽じゃない」

 あっちゃんの声は変わらず静かで、でも、しぼりだすようなものに変わっていた。僕は何も言えない。声の変化の理由さえ分からないから、痛みを堪えて、眉根を寄せるだけ。

 この人は決して泣いていない。それだけは、分かるのに、それだけ分かっても、どうしようもない。

 俯いたあっちゃんの、白い首筋と腕を見た。全く日に焼けていない。だって、この人は夜、外を歩く人だ。昼はじっと、太陽から隠れて縮こまっている人だ。今だってこうやって家の中にいる。

 それだけじゃない。この人は夜生きる人で、男でも女でもない、心をしている人だ。だから僕はこの人に触れる、触れてもらえる。そして、この人は兄が好きなのだ。

 なのにどうして、こんななんだ。

 思わず、あっちゃんの腕を強く掴んだ。弾かれたように顔をあげ、俺を見る。目は見開かれていて、思いの外黒くて、少しびっくりした。そのせい、ではないけれど、言葉が出てこない。

 分かっていても、この手を離す気にはなれずに、ただ、じっと、あっちゃんの目を見つめた。

 しばらくして、あっちゃんが目を伏せた。掴んだ腕を握り返され、その力が強いことに少し驚く。

 俺も目を伏せて、自分が掴んだ腕と、自分の手を、見た。




 左腕の時計を見る。一時半ジャスト。もうそろそろ、大丈夫だろうか。そう考えながら、目の前の扉をノックする。

 扉の上には、美術室、と書かれたプレートが掲げてある。芸術の選択で書道をとっていて、かつ帰宅部の俺には、本来なら関係のない場所。でも、関係する理由がある。

 中から、どうぞ、との返事が聞こえたので、扉を引いて、中に入った。

 広々とした空間に、整然と机が並んでいる。窓側の低い棚の上に、雑然と並べられた作品群や、胸像の様子とは、大違いだ。

 その机の並びの端の方に、一人、人が座っている。その前には、カゴに入った果物と、ワインの瓶が置かれている。スケッチブックを広げている、座った人影は、目の前にあるものを写生、しているらしい。

 それを見て嬉しくなった。足取りも軽く、その人まで近づく。二列ほど離れた机に腰掛け、その人の方を見た。

 ここからだと、その人の手の動きがよく見える。右手がスケッチブックを押さえ、左手が鉛筆を握っている。左手が小刻みに動くのは、短い線を少しずつつないでいるからだろう。以前見せてもらったスケッチには、ひと思いに長く引いた線が見当たらなかった。

 目を閉じて、鉛筆が紙の上を走る音に集中する。手の動きと同じ、小刻みな音。線の長さと同じ、全てが同じ長さじゃない。規則なんてないのにそれを探そうとする自分の心が面白い。

 再び目を開けると、鉛筆の音が止んだ。ほぼ同時だ。何かしただろうかと、鉛筆を持つ人の方を見る。その人もこちらを見ていたものだから、いきなり、目と目があった。

「何でそんな後ろにいんの?」

 女子高生らしからぬぶっきらぼうな言葉遣い。あまりに似合っていて吹き出しそうになるけれど、こらえて、口を開く。

「だって、先輩が窓際にもの置くから、正面に回れなくて」

「ああ……ごめん。春海が来ると思ってなかったんだ」

 先輩はそう言って、立ち上がった。手を伸ばして、正面にあるカゴを持ち上げると、俺の側にある机に、それを置き直した。

 顔をあげた先輩と再び目が合うと、彼女は、チェシャ猫のように笑った。

「これで良い?」

 少しの間、動くことが出来なくて、ようやく、出来たのは、首を縦に振ることだけだった。彼女は一人で何度か頷くと、座って、また手を動かし始めた。

 この人も、大概、変な人だ。乱入者、闖入者でしかない俺のために、わざわざ作業スペースを仕切り直したりして、しかも、その後に、あんな風に笑ったりする。別に、そんなことしなくて良いのに。俺は絵を描いているこの人を見ていたいだけだ。

 まあ、いつもそうやって先輩を見るときには彼女の正面に座っているのだし、その方が彼女も落ち着く、ということはあるかもしれない。今も顔をあげれば、いつもと同じ先輩が見える。

 スケッチブックと描くものとを交互に見るから、少し顎を引いている。目は大抵は伏せがちになっていて、ものを見るときにだけ、正面を向く。その、正面を向いたときの目が、一番好きだ。

 真っ直ぐに、対象だけを捉えている目は、射抜くような鋭さをたたえていて、自分がその正面に回れないことを後悔する。きっと、あの視線を受けたら、熱いのだろう。先輩はものを見るとき、記憶に焼き付けるようにしている、らしいから。その熱で、映像が剥がれなくなるに違いない。

 そうやってものを見ているときの先輩が好きだ。あの目も、鉛筆を握る手の動きも、邪魔にならないようにまとめてあげた髪も。全てが好きだ。ずっと見ていられたらいいのに、と思う。

 また、先輩があの目で、正面のものを見た。俺は、背筋がぞくりと粟立つのを感じながら、先輩を見ている。


「——春海」

 先輩が、目を上げないまま言った。俺は、彼女の手元を見つめながら、何ですか、先輩、と答えた。彼女はやはり顔をあげず、白いはずのスケッチブックの紙ばかり見ている。

「あんたは、私が絵を描いてるのを見るのが好き?」

「はい。好きですよ」

「それは、絵を描いている人を見るのが好き、という意味か、それとも、私が絵を描いているのを見るのが、という意味か、どちら?」

「もちろん、後者です。俺が好きなのは、絵を描いている先輩ですから」

「その理由を、もし言えるなら、聞かせてほしい」

「——今まで一言も、そんなこと聞かなかったのに?」

「もうすぐ卒業だから、色々整理したいことがあるんだ」

「そうですか」

「………………」

「………………多分、細かくあげていったら、きりがないです」

「っていうか、どうやって知り合ったっけ」

「保健室、で会ったのが、最初じゃなかったですっけ。俺、あの人には触れるから、その先生の知り合いなら、触れるかな、と思って、ひょこひょこ美術室に来たのが、ここに来た最初で」

「何だ……あの人づてだったのか」

「覚えてなかったですか」

「うん、そういうのは、多すぎて——」

 先輩は一度手を止めて、落ち掛けていた前髪を、もう一度ピンで固定した。その間も、顔は伏せられたままだ。よく考えれば、今日は何かを見て描いているわけではないから、顔をあげる必要はない。ということは、あの目を見ることもないのか。それは少し、残念だ。

「で、理由の話だったか。さっきは」

「ああ……簡単に、本当に簡単にまとめると、綺麗だ、と思ったからなんですよ。その……絵を描いている先輩が。

 ご承知の通り、俺は生きている人間が気持ち悪くて仕方がないっていう、最悪な人間ですけれど、映画とかでよくある、人型のロボットって、大好きなんですよね。あれって、一つの目的を完璧にこなすのに、全然生きた感じがしないんです。

 初めて絵を描いている先輩を見たとき、そんなものを見ている気がして、すごく、綺麗だ、って思って……だから、だと思います」

「春海。今のことを言って、私が怒るとは思わなかったのか?」

「描いているときの先輩は、そんなこと気にしないでしょう」

「——酷いやつだ」

「壊れてるらしいですから、俺」

 相手に見えないのは分かっているけど、笑ってみた。仕方がない。どう言われても仕方がない。俺が、人間として決定的に何かが欠けているという事実に、疑いが一片も混じらない以上、仕方がないことだ。

「春海。私もあんたが好きだよ」

「そうですか」

「壊れてるところも含めて、あんたが好き」

「………………」

「卒業式の後、ここに来て。春海のために、春海のためだけに、ここで、絵を描くよ」

 それはつまり、俺だけが絵を描いている先輩を見ていられるということで、そのことはとても嬉しい。先輩が俺を好きでも嫌いでも関係ない。絵を描いている先輩が見られれば、それで、十二分。

 頭の中に、卒業式後、美術室、という単語を記したメモを作る。もうすでに、そのときが楽しみだ。


 椅子と椅子の間が、一メートル弱。だから、俺と先輩の距離は、もう少し近い。

 俺は先輩の真正面に座って、絵を描く先輩を見ている。卒業式だから、普段と違って制服をきちんと着込んでいて、しかも、緑色の縁の眼鏡までかけているのに、ブレザーを肘まで捲り上げてしまっているから、真面目な感じは全くしない。愉快なことだ。

 先輩は絵を描いている。ただ、絵を描いている。俯き気味でスケッチブックに視線を落とし、左手を小刻みに動かす。その動きが、とても美しいと思う。

 唐突に、先輩が顔をあげた。左手の動きが、少し前に止まっていたかもしれない。その、先輩の目は、間違いなく俺を捉えている。見開かれた、大きな目だ。

 その目が俺を見るのは一瞬のことだ。でも俺は、その一瞬がずっと続けばいいのに、と思う。あの目がずっと俺を見ていればいい。俺だけを捉えていればいい。鉛筆を動かす左手も、神経質そうに紙を押さえる右手も、全て俺を描くためだけにあればいい。

 酷い我が儘だけど、絵を描いている先輩を見るときには、そんな思いばかりが胸を過ぎる。この人はずっと、絵を描いてだけいればいいのに、と。そうすれば、俺はずっと、この人の側にいられるから。

 俺が欲しいのは、絵を描いている先輩だけだ。

 ——どうすればこの願いは叶うのだろう。

「春海」

 先輩が俺の名前を呼んで、はっとして顔をあげた。先輩がこちらを見ていた。でも、もう俺の好きな先輩ではない。俺を見るのは、絵を描いているときのあの目ではないし、右手と左手は、一緒に白い紙を抱えていた。

「私はあんたに言っとかなきゃいけない」

「……何を、ですか」

 自分の声はあからさまにぶっきらぼうになっているだろう。だって、これは望ましい状況ではない。俺は生きている人間が嫌いで、今の先輩はまさにそれだからだ。

 でも、ここから逃げ出そうという気には、不思議とならなかった。逃げ出すには、何かが少し遅かったのかもしれない。たとえば、先輩の手の中の白い紙に気付かなければ、今この部屋から出ていけたかもしれない。

「あんたを好きだと言った意味」

 先輩は、手の中の白い紙をくるくると丸め、それが戻らないように左手で持ちながら、髪をほどいた。その飾りも何もついていない赤いゴムで、丸めた紙を止めた。できあがった筒に、視線を落とす。

「春海は、生きた人間が嫌いだ、と言うね。私には、絶対その気持ちは分からない。でも、絵を描いているときの私は、多分その気持ちを理解している

 絵を描いているときの私には、生きている人間なんて、少しも見えない。もっと別の何かが、人間の代わりに目の前を行き交ったり、座ったりしているみたいに見える。……そこにいるのが人間だと、理解していても。

 春海の代わりに見えるものは、とても綺麗で、心惹かれた。そんなものが見えるのは、きっと春海が壊れているからなんだろうと思った。だから、私は春海を好きだと言った」

 先輩が顔をあげて、迷わず僕と目を合わせた。筒を持った左手を、俺へ差し出してくる。絵を描いているときの目とは違ったけど、大きな目は、真っ直ぐで、吸い込まれそうな、気がした。

「この絵は、春海だけのものだ。受け取ってほしい」

 その言葉に逆らえなくて、僕は紙の筒を受け取った。先輩は、一度も俺の手に触れなかった。ただ、少し首を傾げて、眉間に皺を寄せながら、苦しそうに、笑った。

「私もあんたも、もっと正しく、人を好きになれれば良かったね」

 その言葉の意味は分からないし、分かろうと思わないし、きっと先輩もそんなことは期待していない。確かなのは、俺がこの人から何かを受け取ったということ。ぼんやり理解できるのは、それは取り返しのつかないものだということ。ほんの少し、泣きたいと思う自分がいるということ。

 先輩は、ブレザーの袖を直して、スカートの裾をはたき、制服の様子を整えると、なにも言わずに、俺に背を向けた。そしてそのまま、扉の方に歩いていく。

 俺はこの先輩は嫌いだ。だから、呼び止める気にはならない。だけど、それにしてはやけに、さっき先輩から受け取ったものは重すぎる。でも、何故か放り出すことも出来そうにない。

 先輩がドアを開けて、その向こうに消えた。ドアの閉まる音と一緒に、溜息をつく。

 ——全部、もうどうにもならない。




 兄が帰ってきたのは深夜近くて、家の中で起きているのは俺一人だった。俺だって、うとうとしていたところを、玄関の方から聞こえた音で、引き戻されたのだった。

 似合わないスーツを着た兄は、こんな時間にも関わらず、俺を見つけて、あまりにも自然に、ただいま、と言った。だから俺も、普段通りに、お帰り、と返すしかなかった。

 夕飯はすませてくる、と連絡をされていたから、そのことに関して言うことはない。……それを伝えたときのあっちゃんの落ち込みぶりは、あまり思い出したくないのだ。しかも、無理が相当効いたのか、夜なのに寝るなんて言い出したのだ。あのあっちゃんが。

 敢えてそれを兄に伝える気は、ない。これもまた、珍しいことだが。

 脱いだ靴をそろえ、玄関に立った兄は、スーツの裾を軽くはたいた。これも全く似合っていない細いシルバーフレームの眼鏡、ぼさぼさになった髪は、自分の目線より少し上にある。

「お茶でも飲む?」

「あー……悪い、頼む」

 考えるような素振りを見せてから、兄は答えた。本当は全く考えていないことぐらい分かる。そうやって躊躇することは、兄が覚えた処世術だろう。別に、俺に対してそんな遠慮をする必要は、ないのだけれど。

 兄が自分の部屋へ向かうのを見届けてから、俺も台所へ向かう。夕飯の片づけも済んで、いつでも朝の準備が出来る状態にしてある。学校がないから、弁当を作らなくて済むのが、楽と言えば楽。実際には、あまり気にしていない、のか。

 昼間に淹れた水出し緑茶の残りが、冷蔵庫に冷えているはずだ。あっちゃんが喉が渇いたと言ったから、淹れた。一緒に出したお茶菓子は、さすがに残っていない。

 冷蔵庫のドアを開けると、ちゃんと、緑茶の入った透明なポットが、真ん中の段に入っている。それをだすと、奥に、フルーツゼリーがあるのが見えた。——一つだけ持っていこう。

 冷蔵庫から出したものを、台の上のお盆に乗せる。後、食器棚から兄の湯呑みと、小さい木のスプーンを出して、それも一緒に並べた。そのお盆を持って、台所を出る。

 片手でふすまを開け閉めしながら、さっきまで自分も居た居間に向かう。一応、純和風の家だから、個々の部屋の中や、アメニティの部分をのぞくと、こういう和式の作りになっている。現に、居間も畳張りで、縁側なんていう洒落たものまでついている。この時間は雨戸を閉めているから、特に意味はないが……。

 卓袱台、というらしい低い丸テーブルにお盆を置いて、さっきまで座っていた座布団の上に、もう一度座る。まだ自分の体温が残っていた。少し、熱い。

 ふう、と息を吐いたところで、ふすまが開いた。音で分かるぐらい、少し、荒っぽく。浴衣に着替えた兄が、悠然と歩いてきて、俺の正面に座った。そう、兄に似合うのは、こういう格好。この家を手に入れてから、兄はプライベートで和装しかしていない。さっきみたいなスーツは、違和感も甚だしい。それこそ、笑いを誘うほど、だ。

 兄は黙って、湯呑みに緑茶を注ぎ、口をつけた。半分くらい飲んだかな、と思ったところで、湯呑みを机に置き、俺を見る。

「で、何を言いたいんだ、お前は」

 開口一番、兄が言った意味が分からなくて、俺は本当に、首を傾げた。俺が兄に言いたいこと、というのを、今の俺にはとっさに思いつけない。それとも、何か忘れているだろうか。

 黙ったままでいると、兄は溜息を吐いて、湯呑みの中身を一気に飲んだ。

「帰って顔会わせた瞬間から、『けいちゃんに言いたいけど、言いたくないから黙っとこう』っていう顔、してるんだ。それとも、黙っておいた内容を忘れたのか?」

 苦笑混じりで兄が言うから、俺は、実際にそう思って黙っておいたことを、思い出した。あっちゃんのことだ。

「どっちでも良いが、言った方が楽になれると思うぞ」

 多分、兄は選択の幅を持たせたつもりだろう。俺が、それを実際に言うか言わないかについて。でも、兄が聞いて、俺が内容を思いだしたからには、俺には「言う」という選択しかない。俺にとって、どんな些細なことであっても、兄は絶対だ。兄がそう思ったなら、俺はそれに従うしかない。

「あっちゃんのことだけど」

「——ああ」

 兄は、空の湯呑みを机の上に置くと、目を閉じて、少し微笑んだ。

 それを見て、俺は何だか、胸の辺りがむかむかして、でも、兄に対してそんな感じをもったことはなかったから、戸惑ってしまう。そのせいで、話し出そうと思っていたのに、言葉が出てこなくなってしまった。

 兄が、眉をひそめて俺を見る。

「どうした?」

 聞こえる声はいつも通りの、柔らかいものなのに、俺はいつも通りにその声に答えられる気がしない。胸のあたりはやっぱりすっきりしないし、自分が思っていた言葉は、出てきそうにない。別の、訳が分からないものが喉の奥でぐるぐるしている。

「……けいちゃんはずるい」

 やっとのことで出た言葉は、やっぱり自分の思っていたのと全く別のもの。そして、兄は俺が言った後、眼鏡の奥の目を丸くした。

 考えるよりも先に、頭の中に言うべき言葉があふれ出てきて、俺の口は、勝手に動いてそれを兄に届けようとする。

「一人だけ普段通りで、全然変わらなくて、それなのにあっちゃんが苦しいのなんか気にかけてなくて、そんなの見てたら、俺だってなんか変な気分なる。けいちゃんは絶対、あっちゃんのことも、俺のことも気付いてるのに、一人だけ全然平気なのは、ずるいよ」

 そういう自分の声を、少し離れて聞いているように感じながら、自分はこんなことを考えていたのかと、妙に感心した。

 兄は、いつのまにか俯いていて、表情が分からない。でも、怒られても仕方ないかな、とひっそり考えた。少し、緊張する。

 何度かゆっくり呼吸を繰り返していると、兄が、顔をあげた。思わず、肩が震える。

 兄がどうするのか、俺が考えつく間もなく兄は、歯が見えるほど大きく口を開けて、笑い始めた。

 俺は、あんまりびっくりして、何も言えず、何も出来なかった。だって、笑い出すなんて、全然、想像出来ない。俺は兄を非難するようなことを言ったのに、それで笑い出すなんて、本当の、本当に。ただ、声をあげて笑い出した兄を見ていた。

 兄はひとしきり笑うと、人差し指を目頭にあてて、何かを拭う動作をした。そして、溜息を吐いてから、俺を見る。穏やかな、という表現が似合うように微笑んで、俺の方を見る。

「空、お前、本当に亜子が好きなんだな」

 俺は、答えを決めつけているような兄の問いかけに、首を傾げた。もちろんあっちゃんのことは好きだ。でも、今の流れでどうしてそんな話になるのだろう。

 兄は、俺の頭に手を伸ばして、髪をくしゃりと撫でた。昔、まだアパートに住んでいた頃なんかにはよくしてくれた動作。何だかそうされる自分が妙に子供じみている気がして、いつもくすぐったい感じがしていた。今、兄は俺を子供扱いしたいのだろうか。別に、逆らう気はないけれど。

「俺はそれがすごく嬉しい」

「だから、笑った?」

「そう、そうだ。お前が『他人』のことでそんなに揺れるのは、初めて見たから。——いや、でも」

 きざしはあったか、と兄は辛うじて聞こえるほどの声で、小さく呟いた。きざし、という意味が分からなくて、俺はじっとしていた。

 いつもならそんなことはないのに、兄と二人で黙っているのが何となく気詰まりで、視線を泳がせていたら、まだ俺の頭に手を置いている兄と、見事に目が合った。兄は、少し真剣な顔つきになって、口を開いた。

「お前はもっといろんな人を好きになれるよ、空。俺より、亜子より、ずっと」

 少しだけ、兄の顔が泣きそうに歪んだ。でも、本当に少しだけだった。

 兄は俺の髪から手を離した。大きい手の平の感触がなくなって名残惜しいと思っている自分が、おかしかった。

 兄はすく、と立ち上がって、腕組みをした。そこから、俺を見下ろして、悪戯っぽく笑った。

「亜子のところに行く。添い寝でもしてやろう」

「——驚くだろうね」

「だと良いけどな」

 足音を全くさせずに、ふすままで歩いていって、兄は部屋を出ようとした。その背中がいつも通りすぎて、今度は、嬉しくなった。胸が温かくて幸せな感じ。兄はさっき、そう感じたのだろうか。だったら、それもまた嬉しいことだ。

 その兄に、何かを尋ねたくなって、それが何か、理解できないうちに、また、勝手に口が動いていた。

「けいちゃん」

 名前を呼ぶと、ゆったりとした動きで、俺の方を見た。なるべくその目を真っ直ぐに見る。

「あっちゃんが好き?」

 兄はすぐに、一度だけ、大きく、深く、頷いた。俺は、それをみて酷く安心して、同時に、申し訳ない気分になった。兄が何を言っても、あっちゃんが何を言っても、二人が互いを好きなのは、俺だってよく分かっていた。

「ごめんなさい、けいちゃん」

「——お休み、空」

 兄は優しく、少なくとも俺には優しく感じられるようにそう言って、ふすまを開けて部屋を出ていった。

 ふすまが閉まり、兄の姿が見えなくなって、俺は机に突っ伏した。何だか、とても疲れた。それに、眠たい。

 少し前の会話を、頭の中で反芻する。兄の言ったことが、合っているかどうかは分からない。でも、俺はそれに従うことしかしないんだろう。それとも、自分からすすんで、だれかを好きになったりするのだろうか。どうしても、吐き気を覚えてしまう話だけど。

 顔を伏せたまま手を伸ばすと、俺が出していたゼリーに指先が当たった。ぬるくなっているそれを、どうにかしないといけないのだろうけれど、実際に何かする気にはなれないほど、眠たかった。




 チャイムの音がする。水の中に潜って聞くような、とても揺らいだ音だから、きっと、自分の聴覚はまだ眠っているのだろう。

 少しだけ目を開けてみると、白い天井が視界を埋めた。その白さに、はっとする。自分が生きていることを思い出す。一瞬泣きたくなって、チャイムの残響に耳を澄ませた。

 段々と遠ざかる音。一緒に、どこかへ行ってしまえれば、楽になれるかもしれない。——所詮俺は人間で、地を這うことしかできないから、想像でしかない話だ。

 また沈みかけた意識を浮かび上がらせるのは、どこかで鳴る心臓の音。ぎゅっとシーツを握りしめると、手の平が痛い。そうして、実感するのは、自分が生きていること。

 ああ、なんてきもちがわるい。

 ベッドの周りのカーテンが開けられて、西日が差し込む。そこだけ暗い、逆光になる人影に、目を向けた。

 猫背で、酷く痩せていて、こざっぱりと切りそろえられた短髪に不似合いな、不格好な眼鏡と、無精髭。この部屋の主が、淡々とした表情で、俺を見下ろしていた。

 そういえば、この人を見る度に、あの人に似ていないと思っていた。丁度、今年の冬頃までの話。あの人がまだ学校にいた頃。

 でも、先に知ったのはこの人のことで、触れることが分かったのもこの人の方が先だった。あの人の側にいても大丈夫だと知ったのは、この人の言ったようにあの人が絵を描くのを、初めて見たときだ。それからは互いに、この人を通じて知り合ったことを、ほとんど忘れていた。絵を描くあの人と同じ場所を過ごすのは、俺にとって、意味のあることだったから。

 よく姿が見えなくて目を細めると、春海、と名前を呼ばれた。

「……はい」

「帰れそうか」

「ええ、まあ」

 吐き気は収まっているし、他に何か具合の悪いということもなかった。今あるのは、寝起きで呆けた頭の考えている、無意味な思考だけだ。

 布団から出て、ベッドの端に腰掛ける。自分の革靴が置いてあるので、腰掛けたままそれを履いた。立ち上がったときに、先生の視線は、俺よりも少し高いところにある。背筋を伸ばせば、多分兄と同じぐらいになるだろう。今の感じだと、大体あっちゃんぐらいの高さだ。

「荷物どーすればいい?まだ教室かな」

「親切なクラスメイトが持ってきてくれてるが」

「……そりゃ、ありがたいや」

 俺を知る人ならば、どう聞いても、皮肉だろう。クラスの人間の顔なんて全然覚えていない。愛着なんて全くない。むしろ、俺の愛する空っぽの教室——本来人のいるべき場所なのに人が存在しない空間を見る機会を奪われたことに、ほのかな怒りさえ感じる。長くは続かず、すぐに消えてしまったが。

 先生が背を向けたのを追って、ベッドから離れる。カーテンが開いているのは、枕の真向かいの辺りだけだ。そこから、保健室のもう半分の領域に出る。西日で真っ赤に染まった窓が、まず視界を埋め尽くした。

 思わず手を翳しながら、前へ進む。机の上に自分の鞄が置いてあるのが見えたから、そちらへ進んだ。

 机の正面に立ち、鞄を持ち上げる。革製の、あっちゃんから譲ってもらった通学鞄。弁当と水筒、財布と携帯ぐらいしか持ってこないから、軽いものだ。

 持ち上げると、下敷きになっていた机の表面の、様々な装飾が目に付く。色とりどりのメモ用紙や付箋、生徒からもらったであろうプリクラ。でも、ひときわ目を引くのは、普通のサイズの写真だ。若かりし頃のこの人と覚しき人と、一人の少女が写っている。そして、この写真は、白色が古ぼけた、モノクロ写真だ。

 俺はその写真の中の少女の顔に人差し指で触れて、少しだけ笑った。この少女が、穏やかな目をした少女が、あんな目で世界を捉えるようになるなんて、想像もできない。

 あの射貫くような、鋭くて痛い視線。

 顔をあげて、先生を探す。視線を横に滑らせていくと、窓の外を眺める人影が見えた。桟に肘をついて、普段から丸めている背中を、今日は更に丸めている。何だか可笑しい。

 でも、この人が、あの人が変わる原因だったに違いない。

「——先生」

 声をかけると、先生はゆっくりこちらを向いた。西日に染まって、頬も額も赤い。着ている白衣も赤い。

 赤い先生は、窓から離れて、腕組みをしながらこちらに歩いてきた。

「何だ、春海」

 聞きながら、俺の隣で立ち止まる。呼びかけたものの何を言って良いか分からない俺は、曖昧に笑って、首を傾げるしかなかった。あまり良くないことかもしれない。先生は溜息を吐いて目を逸らすだけだから、良いけれど。

 どうしたものかと思って、じっと先生を見ていると、先生が見ているものは、俺の手の下の写真であることが分かった。目がそちらを向いているだけでなく、少し顔をしかめている。その顔は、あっちゃんが一人称について他人に何か言われたときにするのと、よく似たものだった。

「この写真が、どうかしました?」

 写真から手を退ける。先生は、首を横に振って俺の言葉に答えた。そして、俺がさっきまでしていたように、写真に触れた。

「何で俺は、こんなもん持ってんのか、ってな……」

 独り言のような言葉だった。でも俺にはしっかり届いていたし、聞き流すことも出来なかった。それだけの重みを持った声で、先生はそう言った。

 先生と先輩は、兄妹で、ただ、周知はしていない。そのこと自体は珍しくないだろう。あんまり知られていると、困ることが多いらしいから。

「先生は、先輩が、嫌いなんだっけ」

 妹を嫌い、なんていう感情は理解できない(必要も感じない)し、その事実すら、俺には認めがたい。でも、先輩と先生との関係が、俺には理解できないから、その元にあるのが俺に理解できないものだというのは、順当な帰結だ。本当に、順当だ。きっと兄は、こんな話が好きだろう。理人辺りも、好むかもしれない。あの人たちは、先に理論があって、世界を見ている。俺みたいに、先に世界があって、後付けの論理が支えているのとは、根本から違う。

 先生は何なんだろう。先輩は、何なんだろう。きっと俺には理解できないだろう。先輩のことを、俺は最後まで理解できなかった。それこそ、必要じゃなかったから、なのだけど。

「嫌い? むしろ、愛しくて愛しくて仕方がない」

「……へえ」

 素直に驚く。多分、愛しい、というのは、俺が家族みんなに対して持っているのと同じような、感情だろう。それなのに、先生の先輩への態度は、俺とは全然違う。理解、出来ない。

「俺にはそういう風に、見えないけど」

「お前と俺は違うだろう。——まさか、自分の感情が万人のものだと思ってんじゃないだろうな」

「違うの?」

 先生は、急に俺の方を見た。睨むような、目つきだった。でも、泣きそうになっているようにも見えた。俺は先生に睨まれて、何だか痛い感じがしていた。頭が、心臓が、痛んでいた。

 どうも、俺は否定されているらしい。少なからず、自分の側に分類している人にそうされるのは、悲しむべきことだ。

 最後まで睨んだ目つきを止めず、先生はまた、写真に目をやった。その向きになると、俺からは先生の表情が見えない。光の具合のせいもある。

「あいつは、俺が二度と手に入れられないものを持っている。理由はそれだけだ」

「そうだね。先生には、もう、色が見えないんだもんね」

 初めて会ったときから、この人には触ることが出来た。あっちゃんみたいなこともあるから、そのこと自体にはあまり驚かなかった。ただ、理由が気になった。見て分かるほど、俺が触れる理由が顕著ではなかったから。

 でも、すぐに理由は分かった。この人が嗜みに描いた絵を、俺が見つけてしまったせいだ。その絵の空は緑で、人の肌は薄い水色だった。

 先生には色が区別できなくて——そういう意味で、この人は死んでいた。だから、俺はこの人に触れた。

「色付きの世界を見て絵を描く先輩が、先生は」

「うらやましいとか、ねたましいとか、言葉にしてすむものか? こういうのは」

「そう、じゃ、ないね」

 済ませられるものなら、俺はもっと、楽に生きられただろう。いや、生きる気はないのだが。済ませられたら生きる気は起こったのかもしれない。

 現実にはなり得ない、無実な仮定。いや、起こってほしくないだけか。

「自分にまだ色が見えてたらって、考える?」

「初めに見たものが死体じゃなかったら、と考えるか?」

 答えは、互いに分かっているから言わない。大体、こんな会話は会話ではない。独り言とほとんど同じだ。

 だから、俺も先生も黙っていた。先生は写真に目をやって、俺は先生の横顔を見て。

 先輩とこの人は違う。顔立ちも中身も、全然似ていない。でも、絵を見ればすぐに、兄妹か、それに近い間柄だということは分かった。本人たちの意識的なやりとりは、全くそうではなくても、無意識的な部分には、表れるものだ。だって、先輩の絵には、いつだって、色がなかったのだ。

「先輩は、先生が好きだったと思うよ」

「——何故そう思う」

「描く絵が、全部モノクロだった、から」

 先生はこちらを見なかった。代わりに、何か小さい声が聞こえた、多分、誰かのことを笑ったのだろう。

 俺はもう、何もすることが思いつかなった。だから、帰ろうと思った。

 カバンを肩にかけ直して、先生に挨拶。そのまま、ドアに向かう。スリッパが並んでいるところで、自分の靴に履き替えた。

 扉を開けると、熱い空気が流れ込んでくる。思わず、顔をしかめた。

 ああ、夏だ。

「お前はあいつが好きだったんだろう」

 先生が何か言った気がしたけれど、俺はもう、聞き返す気がしなかった。意識は、夏の空気に溶け込んだように希薄だった。廊下が、思ったよりも暗かったせいもあるかもしれない。赤い部屋の中とは差がありすぎて、目が眩んだのかもしれない。

 歩き出しても、入ってきたときより、体はずっと軽い。眠ったおかげだろうか。本当に、眠りとは望ましいものだ。死んだように、生き返るような気がする。

 先生の名前を、結局思い出せなかったと、保健室から離れた後に気付いて、でもすぐ忘れた。




 冬の日差しは、力ないけれど、温かい。風さえ吹かなければ、晴れた日の午後は絶好の日向ぼっこ日和だ。その、風さえ吹かなければ、という条件が、意外と難しい。

 今日も、朝から空はきりっと青く晴れ渡っているのに、風はずっと止まず、吹きすさんでいる。日差しの温かさも何も、あったもんじゃない。

 更に悪いのは、今日俺が庭掃除をしたかったということだ。あくまで希望は過去形。初めて数十分で、続けるのを諦めた。集めても集めても散らばっていく落ち葉を、何度も何度も追いかけることが出来る程、俺に根性はない。やる気も気力もない。

 早々に箒を手放した俺は、それから縁側に腰掛けて、空を眺めたり、小さい竜巻を観察したりしていた。側にあるのはちりとりと、紙の束とマッチだ。本当は、掃除の後、たき火をするつもりだったのに、予定は未定とは、よく言うものだ

 溜息を吐きかけたところで、風が一際強く吹く。思わず腕で顔を覆って、目を瞑る。……目を瞑ったら、顔を覆う必要はないのに。何でそんな無駄をしてしまったのだろう。耳の横を風が通るときに、鋭い音がして、その後すぐに、目を開けた。

 さっきと配置の変わった庭の落ち葉。そこに一つだけある、白いもの。……白いもの?

「紙か!」

 重石を置いてあるのに、とか、何で一枚だけ、とか、色々と頭の中をぐるぐるした。でも、体の方が先に動いて、俺は、その紙を掴むために庭の真ん中まで走っていた。

 落ち葉だけでも大変なのに、これ以上ゴミが増えてはかなわない。

 地面近くでくるくる回っている紙を、右手で掴んだ。意外としっかりした紙だ。

 ほこりをはたいて開いてみると、白い紙の上に、黒の何かで絵が描かれている。多分鉛筆だろう。

 その絵は、鳥だった。宿り木か、それに準ずるものに止まり、羽はたたんで、じっと正面を——絵の外側にいる俺のことを見ている。表情などない目で。

 そういった全体から目を離すと、筆致の精緻さに驚かされる。羽の一枚一枚を全て、描きとったのではないかと思われるほどの、微細さ。線の細さは、信じられないぐらいだ。

 素直に、この絵を綺麗だと思った。どころか、一瞬、白黒のはずの絵の中に、色を見つけそうになった。

 でも同時に、何とも形容しがたい、敢えていうならば重苦しい、ぐらいにしか表現できない、暗いものが、喉の奥からこみ上げてきた。

 そういえば、この絵は誰にもらったのだったか。絵をくれる人なんて、相当、限られているはずだけど。

 鳥とにらみ合いをしながら考えて、考えて、ふと、ある人の顔が頭を過ぎった。この間学校を出ていって、それきり会っていない人。

 先輩だ。

「……燃やしちゃおうか」

 思ってもみなかったことを口走り、数瞬遅れて納得する。そう、確かにこんなものは燃やしてしまった方が良い。家族以外なんて要らないのに、その記憶が残ってしまう。今絵を見るまで、思い出すことはなかったとはいえ。

 紙を握ったまま縁側に戻り、マッチを手に取った。

 もう一度、紙の中の鳥を見た。絵を描いているときの先輩には、俺がこう見えていたのだろう。虚ろな目のくせに、正面にあるものを睨みつけている。まるで、生きているように。

 きっと、この名前も分からない鳥は、剥製なのだろう。死んでいるくせに生きたふりをしている。もしくは、剥製のふりをした生きた鳥か。

 はっきり何かは分からない。でも、何かが酷く滑稽で、何かは酷く悲劇的だった。

 ただ、あのとき初めての感情がこっぴどく失敗したのを思い出したのは確かだ。きっと俺はそれも含めて忘れてしまいたいに違いない。兄が聞いたら、怒るだろうか。

 深呼吸をして、マッチを取り出す。側面で棒の先端を擦れば、小さな火が点った。その火を、紙の角に移す。あっという間に火は広がって、俺は紙を持っていられなくなった。

 火のついたところから、茶色く焦げ、やがて、黒い灰に変わり、崩れた。そうして、風に吹かれて、跡形もなくなる。

 止めていた息を吐き出すと、何だか肩が軽くなった気がした。何かがあって泣いてしまった後のような、変な開放感。

 あのとき失敗してしまったものに、恋とでも名前を付けよう。そうすれば、すぐに、忘れられるだろう。先輩も、先輩への感情も。元から俺には必要のない類のものだったのだから。熱に浮かされたようなものだと思って、忘れてしまおう。

 開いたままの傷口だって放っておけばいつか塞がる。抉られても抉られても、いつかはきっと、塞がる。そういう、ものだろう。

 マッチを元の場所において、溜息を吐く。すると、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。一人分の音だ。

 誰だろうと思って、顔をあげ、足音のする方を見る。

 角を曲がって現れたのは、ジーンズにセーターという、ラフな格好のあっちゃんだった。あっちゃんは俺と目が合うと、少し目を丸くして、すぐに、微笑んだ。

「空が、居る」

「居ると思ってなかった?」

「うん。学校に、行ってるもんだとばかり」

 俺は、笑って答えを誤魔化した。まさか、もう今年度は行かない、と、馬鹿正直に言うわけにもいかない。

 あっちゃんは、ゆっくり歩いてきて、紙の束の隣に腰掛けた。

「たき火でもするつもりだった?こんなたくさん、後、マッチも」

「……でも、落ち葉集まらなくて」

「そっか」

 残念だね、と悲しそうに、あっちゃんは言った。俺は小さく頷いて、あっちゃんの隣に座った。

 あっちゃんは、上を見ているようだ。俺も、それに倣ってみる。見えるのは、どこまでも青空だった。

「早く夜になるといいね」

 俺が言うと、あっちゃんは、そうだね、と小さい声で言った。

 風は、まだ止まない。ずっと止まないかもしれない。ならせめて、この風が早く夜を運んできてくれればいい、と、馬鹿なことを考えた。

 風に運ばれていった黒い燃え滓が、夜空の黒に変わって、戻ってくればいい。

 二度とあの人に会うことはないだろうし、あの感情を味わうこともないだろうけれど。最後に残った灰ぐらいは、どこかに留まっておいてほしい。そして、それは出来れば俺の手が届かない場所であってほしい。

 どうしてかそんなことを願いながら、青空を見上げ、隣にいるあっちゃんのために、小さく、少しでも早い夜の訪れを、祈っている。

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