箱庭療法

ふじこ

一章

泣く魚

 海に行こうと言い出したのは、慧ちゃんだった。俺と、あっちゃんと、あっちゃんの友だちの薄明さんと三人で、海に行こうと、毎週恒例、土曜日の夕飯の席で慧ちゃんがそう言い出したのだった。

「どこの海にですか」

 あっちゃんが、机の上、お皿の手前へお箸を置いてそう尋ねた。あっちゃんが海へ行くと聞いて心配するのは当然だろうなあと思う。だって、あっちゃんは絶対水着なんて着たくないだろうから。まさか、慧ちゃんが海で泳ぐつもりだなんて、俺は思わないけれど。

「電車で行けるところ」

「じゃあ、鹿嶋の方に出ましょうか。薄明……をどうつかまえるかですけど」

「あいつ、海、嫌いか」

「海というか、自然全般が嫌いですね」

 そう言って、あっちゃんは可笑しそうにくすくすと笑った。慧ちゃんは不満そうにすんと鼻を鳴らす。俺は、薄明さんの神経質な視線を思い出していた。まるで、自分の周りにある世界の全てを疑うような眼差しに、俺はとても親近感を覚える。薄明さんと自分は、同じ側に居る人間だなあと思うのだ。だから、僕は慧ちゃんと同じぐらいあっちゃんが好きだし、薄明さんはあっちゃんと同じぐらい慧ちゃんが好きなんだろう。

「でもあいつも連れて行くからな、絶対」

「嫌がったら、どうしましょうか」

 慧ちゃんも箸を置いて、袂へ手を入れて腕を組み、考え込む。かちり、かちりと秒針の進む音だけが、聞こえている。

「縄でくくって引っ張っていく」

 随分と考え込んだ様子の後、現実味のない力強い言葉が慧ちゃんの口から紡がれたので、僕とあっちゃんは、顔を見合わせてからくすりと笑った。ほとんどオレンジ色みたいな茶色の髪をした薄明さんの腰に縄を結びつけて引っ張っていく慧ちゃんを想像すると、ああ、可笑しいや。

「僕はそれと並んで歩いていくのは嫌ですね」

「あ、俺も。慧ちゃんと薄明さん、二人で来なよ」

 あっちゃんが真面目に整えた表情でそう言った。俺も、それに乗っかる形で言葉を続ける。慧ちゃんは腕を組んだまま、眉間に皺を寄せて目を瞑った。

「……だったら、普通に迎えに行く」

 ぱちり、目を開けて慧ちゃんはそう言った。俺とあっちゃんは、同時にうんうんと頷いた。うん、それがいいよ、きっと、それがいいです。言葉も重なった。慧ちゃんははあとため息をついて、袂から手を出すと、箸をもって、味噌汁のお椀を持ち上げた。僕とあっちゃんも、それにならって箸を手に取る。

 煮付けた魚の身を箸先でほぐしながら、海、今度四人で行く海は、一体どんな場所になるだろうか。そう思うと、今からわくわくして仕方がなかった。


 はじめて海に行ったときのことを、一体どれくらいの人がはっきり覚えているんだろうか。はじめて海に行く、その年齢がバラバラだろうし、誰とどういう理由でかも人によってまったく違うだろうから、まとめて考えるのはあまり、あてにはならないかもしれない。それでも、そんなことが気になってしまうのは、俺の中で、はじめて海に行ったときの記憶というのが、とても鮮やかに残っているからだろう。

 俺が家に来て、まだ間もない頃だった。あれは確かに、そんな頃だった。那智先生がまだ髪の長かった頃だし、慧ちゃんが制服を着ていたし、あきと理人がまだ居なかった。

 家族で海に行った、そんな、お休みの日が確かにあったのだ。自分の手を引いてくれる大きな慧ちゃんの背中を、俺はしっかりと覚えている。丁度、今、俺がやっているみたいに、慧ちゃんは俺の手を引いて、歩いてくれたのだ。

「そらー、ねむいー……」

「いや、俺が引っ張ってるからって目、閉じないで、薄明さん」

 そう言うのに、後ろを振り向いてみれば、薄明さんは目を閉じたまま、俺に引っ張られて前を見ずに脚だけを動かしている。ものぐさなその動きが許されるのは、ここがただただ平坦な、住宅地の中の路地だからだろう。

「ほら、慧ちゃんとあっちゃん、もう見えないし」

「あの二人はあの二人にしとけばいいじゃん……野暮だな、そらは、こどもだ」

「そりゃ子どもだよ……俺、まだ十七歳」

 だんだんとはっきりしてくる呟きへ、仕方がないなあという思いとともに言葉を返しながら、てくてくと道を進む。角を曲がれば、電柱のそばに慧ちゃんとあっちゃんが並んで、俺たちの方を向いていた。きっと、姿が見えなくなったから、待っていてくれたんだろう。そんな予想を裏付けるように、慧ちゃんと目が合ったかと思うと、慧ちゃんはあっちゃんへ何か声をかけて、俺たちへ背を向けて、歩き始める。あっちゃんもすぐにそれへ続いて、歩き始めた。

 それへ追いつきたいなと思うけれども、薄明さんのさっきの言葉が走り出そうとする俺の足を留める。野暮だな。あの二人へ、追いつこうとすることも、その中に含まれるんだろうかと、考えてしまった。

「……薄明さんはもう大人だから、野暮は出来ないの?」

「ん? んー……出来れば、したくない」

「っていうか、野暮ってなあに?」

「説明するのは難しいけど……そうだなあ……」

 薄明さんはそう言いながら何か考え始めた様子で、俺の手を離して、てくてくと、少し歩調を早める。すぐに俺の横へ並んだ薄明さんを見ると、いつもは曲げている背中をしゃんと伸ばして、顎へ手をやって低い声で唸っていた。好き放題に伸びっぱなしのほとんどオレンジに近い茶色の髪は、項の辺り、輪ゴムで一つにまとめられている。前髪は、自分でやったんだろうか、長さも太さもバラバラに、他よりやや短く切り揃えられて、左右へ分けて顔の横へ流されていた。その下は、青と白色のストライプの長袖のワイシャツを、袖をまくり上げて着ていて、ベージュのチノパンの下は、どこで買ってきたのやら、まさに海に行くのにはふさわしい、派手な蛍光黄緑色のビーチサンダルを履いていた。荷物は、チノパンのポケットに突っ込まれている、財布が一つきり。いつものことながら、実に身軽な人だった。

「馬に蹴られて死んじまえ、みたいな」

「それもあんまり説明になってないよ」

「人の恋路を邪魔する奴は、って頭につけるか」

「そう、なのかなあ」

「違うのか?」

 薄明さんの言葉に首を傾げながら、俺は前を歩いている二人の背中をじっと見つめる。慧ちゃんとあっちゃんと、二人が歩いているのは、果たして、薄明さんが言ったような「恋路」というようなものなんだろうか。

 そんなこと、あの二人にしか分からない。分からないけれど、考えたり、気にしたりするぐらいはしても良いと思う。慧ちゃんは俺にとって大事な一番の兄なのだし、あっちゃんは大事な隣人だ。大事な二人の関係がどうあるのかを、考えるぐらいはしてもいいだろう。手出しはしてはいけない気が、しているから。もしかして、これが野暮という感覚なのだろうか。すとんと腑に落ちたような気がして、息を吐く。

「……分かんない。そもそも、恋が分かんないもん」

「なんだ、やっぱりそらは子どもだなあ」

「じゃあ薄明さんは、どっちも分かるっていうの?」

「うん。っていうか、恋が分かれば野暮もわかんじゃねえかなって。で、恋の方は分かりやすい」

 真っ直ぐだった薄明さんの背中が、いつものように猫背に戻っていく。そうして、両手をチノパンのポケットに突っ込んで、すり足のようにして足を前へと進めながら、道に転がっている小石をこつんと蹴り飛ばした。道の端の塀へとぶつかって、すぐに止まる。

「相手を見ると動悸がして、瞳孔が開いて、一緒に居ないときでも相手のことばかり考えて、居ても立っても居られなくなる。そんな状態が恋だろ。で、誰か他人のそんな状態を改善しようとすることが、野暮だ」

「……ふうん」

 薄明さんが一続きにいった言葉を、反復する。相手を見ると動悸がして——これは、外から見るだけだと分からない——、瞳孔が開いて——すごく注意しないと、やっぱり分からない——、一緒に居ないときでも相手のことばかり考えて居ても立っても居られなくなる——それもやっぱり、見ているだけじゃ分からない——。それを改善しようとする——見ていて分からないことをどうやって改善しようと動けるんだろう、というのは不思議だけれども、ああ、さっき自分が踏みとどまったときの感覚と合わせて、何となく、野暮という言葉の指す内容は分かった気がした。

「つまり、酔ってる人は気持ちよく酔わせとけってこと?」

「そー、そー」

 頷く薄明さんは、どうやらもう、思考をどこか別のところへ飛ばしてしまっているようだった。返事の声がとても素っ気ない。横を見てみると、薄明さんの目は確かに前を向いているのに、どこか、ずっと遠くを見ているようにも思われた。

「慧ちゃんとあっちゃんは、酔ってるのかなあ」

「どうだかな。こればっかりは、聞いてみないとな」

「そうだね」

 気のないままも、ちゃんと俺の質問に答えを返してくれる薄明さんの声へ俺もきちんと頷きながら、前へ、前へと足を進める。あまりに道の端を歩きすぎている薄明さんの手を引いて、道の真ん中へと寄った。もう見えてきた、駅前の小さな商店街の入り口の手前で、慧ちゃんとあっちゃんが並んで立って、こちらを向きながら、何か言葉を交わしているようだった。立っている二人の間の距離が、いつの間にか、随分と縮まっているように思われて、仕方がないのだった。


 電車の窓の外、見上げた先には、腹が立つくらいに青い空が広がっている。建物で隠れた地平線からもくもくと立ち上っている入道雲は、けれども、雨を呼ぶような色はしていない。白色がどんどんと積み重なって、縦にも横にも広がって行っている。

「良い天気だね」

 隣に座ったあっちゃんが、俺と同じように自分の後ろ、窓の外の空を眺めながらそう言う。普段掛けている黒い縁の眼鏡を、今日は外している。度は入っていない、ただの飾りだと言っていたから、今日は邪魔だったんだろう。

 夏も盛り、八月だけれども、あっちゃんの着ているのは長袖の服だった。首元のつまった、紺色と白の色々な太さの縞模様の上衣と、白い綿のズボンをはいている。胸元はストンと落ちていて、腰まわりの輪郭は見えなかった。

「心配はしてなかったけど、晴れて良かった」

「折角の海だから?」

「うん。本当は、夜まで居られたら良いんだけど」

 あっちゃんはそう言ってから、口元を押さえて、大きな欠伸をする。それから、眼鏡を上げるような手の動きの後、人差し指の背で目元をぐい、ぐいと拭った。まだ日は高いから、普段なら、あっちゃんは眠っている時間なのだ。それなのに一緒に海へ来てくれるのは、やっぱり、慧ちゃんが誘ったからなのだろうか。

「海辺は、明かりが少ないから。星が綺麗に見える」

「そうなんだ。うちの周りよりも?」

「うん。あの辺りも、確かに明かりは少ないんだけど、それでも、住宅地だからね。ああ、でも、海にも灯台とかあるか」

「後は、漁師さんのお船とか?」

「ああ、漁り火だね。まあ、あれは確かに眩しいけど、沿岸からは遠いところにいるから、大体」

 がたん、と電車が揺れる。大きなカーブにさしかかったのだった。自分のからだがあっちゃんにぐっと押しつけられる。一瞬で、全身に鳥肌が立つのが分かった。思わず息が止まる。ゆっくり、息を吐き出しながら、やっぱり、慣れていても駄目なんだなあと苦笑するしかなかった。あっちゃんは、俺の方を見ないまま、じっと窓の外を見つめているようだった。

 けれど、よくよく見ていたら、あっちゃんが見つめているのは窓の外ではないんじゃないか、という気がしてきた。さっきの話ならば、あっちゃんが見ているのは空であるのがとても自然だと思うのだけれど、空を見ているにしては、随分と低いところをあっちゃんの視線はさまよっているのだ。

 じゃあ、わざわざ後ろを向いてまで、何を見つめているのだろう。鳥肌が落ち着き始めて、肩の力が抜けるのと一緒に身体を前へ戻す。溜息をついてから、向かいの長椅子に座る慧ちゃんと薄明さんの方を見る。二人は、何かを熱心に話し込んでいるようだった。椅子の端と端、という位置だから、残念ながら、その内容までは聞こえてこないけれども。

 慧ちゃんは楽しそうだし、薄明さんも元気そうだし良かった。二人の様子に一安心してから、ふいと視線を横にずらせば、ガラスに映った自分自身と目が合った。

 あ、と思わず声が漏れる。けれども、隣に座るあっちゃんは、横目でうかがった様子だと、俺の声へ気付いた様子はない。それにほっとしながら、もう一度前を向いた。

 あっちゃんが見ているものが、分かった気がした。あっちゃんが俺と逆の方へ身体を向けながら、ガラスを見ていれば、きっと、ガラスに映った慧ちゃんと薄明さんが見えるのだ。ガラスの外側の、本当に外にある景色を透かしながら、喋っている二人の様子が、そこへ見えるのだ。

 きっと、あっちゃんはまっすぐにそれを見ている。海で星を見られないことを残念に思ったりしながら、遠くの海原にただよう明かりを思い浮かべたりしながら、きっと、ガラスに映る二人を、じっと見つめている。

「……あっちゃん、慧ちゃんと薄明さんの隣、行く? さっきの駅で大分人降りたよ?」

 俺が尋ねると、あっちゃんはううん、と小さい声と一緒に、首を横へと振った。

「二人とも、楽しそうだ。僕が行って邪魔するのは忍びない」

 あっちゃんはそう言って、ガラスから目を逸らした。一瞬だけ、慧ちゃんと薄明さんの方へ視線を留めた後、目を伏せながら正面を向いて、椅子へ腰かけ直す。二人しか腰かけていない長椅子の左隣が、小さく沈んだのが分かった。

「それに、後もう二駅だしね」

「……そっか、そうだね」

 あっちゃんが口元に笑みを浮かべながらそう言ったのに、頷きを返して、俺は扉の上の路線図を見上げる。さっき電車が出た駅は確かに、目的地の駅よりも二つ手前に、その名前を連ねていた。海までは本当に、もうあと少し、だった。


 思った通り、海には人が多かった。

 気分が悪くなりそうなのを我慢して、慧ちゃんが人混みの中を縫いながら進むのについていけば、その中でも、やや人が少ない、岩場の近くへと辿り着く。慧ちゃんはそこへ肩にかけてきた鞄を下ろして、鞄の中から青色のビニールシートを取りだした。

「手伝います」

 そう言って、あっちゃんが一番に慧ちゃんへ近付く。俺は、さっき来る道すがらとは逆、薄明さんに手を引かれながら、あっちゃんと慧ちゃんの様子を後ろから眺めていた。そうして、立っているだけなのに、くらくらと目眩がしてきそうで、しっかり足を踏ん張りながら、薄明さんの手を強く握る。

「お前、だいぶしんどそうだなあ」

「人、多い、嫌……」

「まあ、そりゃあ俺も嫌だけど」

 薄明さんが、額の汗を手の甲でぐいと拭う。自分の顔にも、背中にも、薄明さんと同じように汗が伝っていて、拭くか拭うかしないといい加減、肌の上も気持ちが悪いのだけれど、その為に指先を動かすことが、億劫だった。身体の内側、喉の奥からこみあげてくる吐き気を、じっと耐えているのが今の俺の仕事だった。

 やっぱり、人が大勢いるところは駄目なのが、自分のようだった。最近は、近所の散歩もだいぶ楽になったし、学校でも教室で過ごすことも出来ているから、もしかしたら、と思ったけれども、無理だったのは自分の今の様子を見ていれば明らかだった。何もしていないのにこみ上げてくる吐き気と、ぞわぞわと治まらない肌の上の感じは、環境と自分がとことん噛み合っていないことを示している。

「空、ここ」

 あっちゃんの声が俺をそう呼ぶので、顔をあげると、青いビニールシートが砂浜の上へ引かれて、その四隅に、鞄や靴やらが置かれていた。その隅っこへ、あっちゃんと慧ちゃんが座り込んでいる。二人とも、何故だか足を崩さずに、正座をしていた。

 薄明さんが俺を引っ張りながら、そのビニールシートの方へ近付いていく。ざりざりと砂浜の砂を靴の裏で擦りながら、俺は、前へと進んだ。ビニールシートの手前で薄明さんと共に立ち止まり、スニーカーを脱ぐ。靴下越しに踏んだビニールシートは、まだ少しひんやりと冷たかった。その上へ、腰を下ろす。すぐに、薄明さんが手を解いてくれたので、両手で口元を押さえて、背中を丸めた。

 強くなる吐き気を、奥歯を食いしばって飲み込む。きつく目をつむって、徐々に引いていくのを待っていれば、確かに、ひどい吐き気はどこかへ消えていった。それを確かめて、落ち着いて深い呼吸を繰り返してから、顔をあげる。見えるものが少し滲んでいるけれども、間近のあっちゃんの心配そうな表情は、すぐに読み取ることが出来た。

「大丈夫?」

「うん、もう多分……この上、落ち着くね」

「そう。四人だとちょっと狭いかもしれないけど」

「俺は、良いよ」

 ちょっとぐらい狭くったって、慧ちゃんやあっちゃんや薄明さんと肩がぶつかりそうになったって、別に構わなかった。三人だから構わなかった。だから笑いながら、あっちゃんへ返事をしたのだけど、あっちゃんの表情はまだ心配そうなまま、動かない。俺はそんなにひどい顔色をしているのかなあと、両手で頬を押さえて流れそうになる涙を手で拭う。もう一度深呼吸をして、にいっと、意識して笑顔をつくって見せた。

「 もう、大丈夫。ほら、あっちゃんもここ、座りなよ」

「……そうだね」

 あっちゃんが頷いて、俺の隣へ座り直す。その表情から、まだ心配の様子は消えないけれども、それよりもずっと柔らかな笑みの方が勝っていた。ビニールシートが、四人分の体重を載せて、砂浜へと沈みこむ。薄いプラスチック越しに触れた砂は、日焼けしてるせいか、それでもまだ十分に熱かった。

 この砂を素足で踏む人達は、火傷をしてしまわないんだろうか。低い目線そのままに周囲を見ていると、そのまま海へ入っていくつもりなのだろう、水着から伸びる裸足のまま、砂を踏んで歩く人達が大勢いる。とても平気そうに、思い切って砂を踏んでいく。その無頓着さが不思議なような、羨ましいような、空恐ろしいような気持ちになった。

「まぶしいな……」

「じゃあなんで海にきたんすか」

「さっき、電車でも言ったろう。夏といえば海だから」

 慧ちゃんと薄明さんがうすらぼんやりした会話をしている。まったく、いやはや、噛み合っていない。

 夏といえば海、なんてまるで当然みたいなことを慧ちゃんは言うけれど、それに実際が伴っていないのは、火を見るよりも明らかだ。水着に着替えようともしなければ、水に入れるように短いズボンへ履き替えたりもしていないし、スラックスの上へ着ているのは、いつもと同じワイシャツだった。まったく、どうして俺たちを連れて海に来ようと思ったのか、見当がつかない。

 同じように考えているのか、薄明さんも眉毛をぐっと寄せて、目をじっと細めて、不可解そうに唇をとがらせている。目はもう冴えてきたんだろうか、と思っていたら、その表情がふいに緩んで、大きく口をあけてあくびをするのだから、おかしかった。思わず小さく笑い声をあげれば、薄明さんが咎めるように俺を見る。けれどもすぐに、折り曲げた中指の背で目元を拭うのだから、また、おかしさがこみ上げてくるのだった。

「いいあくびだね、薄明。来る道で目が覚めたんじゃないかと思ってたけど」

「うるせーよー。お前こそ、そろそろ眠くなる頃じゃねーの。いつもの仮眠の時間だろ、そろそろ」

「ああ……そうか」

 亜子さんが左手を掲げて、手首の内側の、腕時計の文字盤えお見る。丁度影になった文字盤は、俺からもすぐに見ることが出来た。長針と短針が丁度、「12」の文字の上で重なろうとしている。正午になろうとするところだった。

「でも、うん、眠くはないよ」

「そうだな、目がしゃっきりしてる」

「しゃっきりってなんだよ。僕はレタスじゃないぞ」

「確かに、どっちかっつーとトマトとかナスとか」

「旬だな」

「……そうなの?」

 薄明さんが俺の方を向いて、そう尋ねてくるので、俺は一度首を縦へ振る。ナスもトマトも、それからキュウリやなんかも、夏の旬の野菜だ。スーパーでは値段が安くなるし、そこらの畑やらには、たわわに実が生っているのを見ることが出来るだろう。そこまで広さがいる野菜たちでもないから、プランターで育てるのも容易で、家庭菜園なんかでもよく作られるはずだった。

 今のアパートでは無理だけど、昔「家」で生活していたときには、庭の片隅へ、畑のようにしている場所があった。那智先生が主に世話をしていて、俺たちも水やりや雑草とりを手伝ったものだった。トマトが赤く色づいて、キュウリのイボが固くなる頃、食べ頃になった頃には、那智先生が俺たちへ、野菜の収穫をさせてくれた。もぎたての生ぬるいトマトをかじる、歯の隙間から、青い甘酸っぱさが口いっぱいに広がっていく。流石に、ナスはそのままかじったことはないけれど、薄明さんは何をもって、あっちゃんをトマトだとかナスだとか、形容したのだろう。

「とりあえず、人が引くまで、ここに居るか」

 慧ちゃんがそう宣言した。俺と、あっちゃんと、薄明さんと、三人で顔を見合わせる。それへ、慧ちゃんは気付いていないように、ビニールシートの上のカバンから、カバーをかけた大きめの本を取り出して、それを、胡座をかいた膝の上へ開く。日光が反射するのが眩しいんだろうか、やや、顔をしかめて、栞を挟んだページをぱらぱらと探しているようだった。すぐに、はたと手を止める。指先で、ページの上をなぞって、そこへ書いてある文字列をたどっているようだった。

 慧ちゃんはそれ以上何も言いそうにないので、改めて、あっちゃんと薄明さんとの輪の中に、視線を戻す。どうしよう、どうしようか、と相談している風だった二人は、俺にも同じように視線をくれた。俺も、どうしようか、と考える気持ちで、二人へ目配せをする。

 人がひくまでって言ったって、まだ、こんなに太陽は高いのに。何をしてすごせって言うんだろう。ため息が出そうなのを飲み込んで、まぶしい空を、見上げる。


 ビニールシートへ寝転がったあっちゃんの指が、紺色の空の一カ所を指差す。あれが、デネブ。そう、言葉を添えて。

 あれが、ベガ。それから、アルタイル。同じように、一カ所ずつ、指を留めながら、三角形をつないでいく。その傍らへは、小さなきらめきを散りばめた、幅の広い帯がある。

「夏の大三角形。星座と言って良いのかは微妙だけれど、メジャーな観測対象だね」

「 ふうん。ベガが織姫様で、アルタイルが彦星様だっけ」

「そうだね。ベガはこと座、アルタイルはわし座。そしてデネブが、白鳥座。白鳥座の首の根本には、ブラックホールがあるんだよ」

「ブラックホール」

「うん。だからそのうちあの三角形も見られなくなるだろうね」

「そのうちって、どのぐらい?」

「一万年ぐらいかな」

「そんなに」

「あっという間だよ」

 あっちゃんが体を起こしてそう言った。一万年があっという間だなんて、あっちゃんの時間の感覚はどうなっているんだろう。そう不思議に思っていたら、小さく、あっちゃんが笑う。

「宇宙が出来てからの百億年に比べれば、あっという間」

 それって比べる相手がおかしくなあい? そう聞きたかったけれども、あっちゃんがとても楽しそうだったから、口を閉じて、首を傾げて、曖昧に微笑んでおく。ゆっくり見上げた空には、さっきの三つだけ、川のようなきらめきの帯だけでなくて、数え切れない、星がかかっている。あっちゃんがはじめ説明したとおり、家のまわりで見るのよりもずっとたくさんの星が空の上にきらめいていた。

 昼間あんなにたくさんいた人は、すっかりと引いてしまっている。遠くに、手持ちの花火で遊んでいる若い人の集まりがあるけれど、それ以外には、自分たち以外の人影はない。波の音がよく聞こえる。子守歌のようだった。

「空、亜子」

 名前を呼ぶ声へ顔を上げると、波打ち際の慧ちゃんが、こちらを見ている。まくり上げたシャツの袖から伸びる白い手が、俺たちを手招きしていた。あっちゃんと、目を合わせて首を傾げてから立ち上がる。裸足で踏む砂は、昼間と比べると随分と冷えてきていて、それでもまだ、太陽の熱を随分と蓄えている。人肌よりも少し温いぐらい。それなのに何で、この砂は大丈夫なんだろう、と思う。

 俺は人が怖くて、気持ちが悪いと思う。この、人気のない砂浜がひどく安らぐのは、きっとそのためだ。何もない、ただ寂しく広がっている世界に、ぽつねんと、自分と、自分が受け入れることが出来た少しの人が居ればいい。そう、思うのに。

 波打ち際の、砂の色が変わる手前のところへ慧ちゃんは立ち止まっている。スラックスの裾をまくり上げて、裸足で。その横で薄明さんは、湿った砂へ足を踏み入れて、寄せては引いていく波と、裸足で戯れているようだった。

 俺が慧ちゃんの横へ、あっちゃんが薄明さんの横へ並ぶ。ざざん、ざざんと、波の音だけがよく聞こえた。

「——海が、塩の味のする訳を」

 知ってるか。そう言いながら、慧ちゃんはあっちゃんの方を向いた。あっちゃんは、ええ、と頷いて、その場へしゃがむ。白い手をそっと、波の走る水面へ差し入れた。

「大気中の塩化水素が、岩石中の酸化物と中和反応を起こして出来た塩が、雨や風で削り取られて、海へ溶け込んだのが起源です」

「だ、そうだ。空、知ってたか?」

「ううん。はじめて聞いた」

 やっぱりあっちゃんは物知りだなあと思う。この広い海ははじめから塩の味がしていたのではないか、と漠然と思っていたけれど、そうではなかったらしい。最初の最初はこの海も、ただの巨大なプールだったのか。

 薄明さんにならって、そろりと、足を波打ち際へと踏み出す。白く細かに泡立った波が、皮膚をくすぐって引いて寄せて、引いて寄せる。水は冷たくて、さっきまで熱い砂を踏んでいたところにはちょうど、気持ちが良い。小さく足踏みをすれば、ちゃぷ、ちゃぷと水音が鳴った。

「昔は、あんなに泣いて嫌がったのになあ」

 そう慧ちゃんが言うものだから、思わず勢いよく、そちらを向いた。慧ちゃんが可笑しそうにしみじみと俺を見ていた。俺と目が合うと、すぐに足を前へと踏み出し、海水へと浸す。それからずっと、ずうっと遠くを見つめていた。

「俺が今のお前と同じぐらいだったかな。はじめて海につれてきたんだ」

「それは、覚えてるよ」

「啓介が水着になって、海に走って飛び込んでくのを、追いかけようとして、わんわん泣いてたんだ。そりゃあ大変だった」

 スラックスのポケットへ両手を突っ込み、慧ちゃんは遠くを眺めるまま、息の多い笑い声を漏らす。きっと、思い出し笑いだろう。泣きわめく俺の様子か、あるいは、海へ走って飛び込んでいったというちいちゃんの姿を思い出しているのだ。そんなに笑わなくてもいいじゃない、という不満の代わりに、俺も慧ちゃんと同じ方を見た。

 月もないのに、波打つ海原は確かにきらめいている。細い、鏡のような銀色が、波間へ現れては消えていく。ざあんざあんと、繰り返す波の音は、膨らませた風船のようだ。大きいのに、何も詰まっていない。遠くから聞こえる知らない笑い声は、いっそう遠い。

「そのとき、那智がお前に何て言ったかは覚えてるか」

「那智先生が?」

 すぐに聞き返せば、慧ちゃんは視線をこちらに寄越さないまま、すぐに頷く。俺はうーんと考えて、首を横へ振った。じっと考えれば、確かに、波に濡れて泣いていたことは思い出せるのだけど、そして、那智先生がすぐに駆け寄ってくれたことも、思い至るのだけど、なかなかどうして、那智先生の話した中身までは、思い出せない。

 そうか、とつぶやいて、慧ちゃんはようやく俺の方を向いた。柔らかい笑みを浮かべて、波の音を聞こうとするように首を傾げている。

「正確には、泣き止んだお前に、だけどな」

「……うん」

「お前が、うみのみずは、なみだとおんなじ味がする、なんて言い出したから」

 まったく覚えていない、けれども、自分が言ったというその言葉へ、僕は目を瞬かせる。慧ちゃんはいっそう笑みを深くして、言葉を続ける。

「那智が面白がって言ったんだ。そりゃあそうよ、海は魚の涙の水溜まりなんだから、って」

 ざあんと、ひときわ大きい波が寄せてきた。

まくり上げたズボンの裾へ水が跳ねるのが分かる。きっと四人とも同じようにズボンの裾が濡れてしまった。

 そのせいだろうか、何故だか胸がさびしくなった。息を吸って、吐いてみるけれども、肺の膨らんでへこむ感じがどうにも遠いのだ。遠くて、虚しくなる。

「覚えて、ないよ」

 虚しいままつぶやいた声は、やっぱり重たさのないまま、ふわふわとどこかへ飛んでいってしまいそうだ。よろめきながら、後ずさって、乾いた砂浜へしりもちをつく。自分の体が沈む先は、人肌の温かさだった。指の間を温かい砂はすり抜けてしまう。それがまたいっそう、虚しさをあおるのだ。

「魚は泣けないでしょ。涙腺ないし」

 薄明さんの声が言った。慧ちゃんがそれへおさえた笑い声をあげる。

「当然分かってて、那智は言ったんだよ。あの人はそういう人だったから」

 慧ちゃんは懐かしむように言葉をおいて、海から後ずさって、俺の隣へ腰を下ろす。ズボンの裾はやっぱり濡れてしまっていた。帰るまでに乾くだろうか、いや、無理かもしれない。いくら砂が温かいままでも、日はもう沈んでしまっている。明るい帰り道を手をつなぎながら歩いたあの頃とは違うのだ。慧ちゃんも、あっちゃんと薄明さんがいて、那智先生が居ないことも。それから、俺自身だって。

 俺は今、自分の涙の味なんか、わからない。そう、自信を持って言い切れる。人の温度が恐ろしい俺が、まるで人のように涙を流せるはずがない。それはもう、仕方がないことだった。どうしようもないことだった。

 背中を砂へつけて、仰向けに砂浜へ寝転がる。数え切れないほどの星がちかちかと、空へかかっている。

「あ、流れ星」

 そう言うあっちゃんの声が聞こえたけれど、俺にはそれを見つけることは出来なかった。

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