異邦の人

 ああ、風が違うんだ、と彼は気が付いた。それへ気が付いたら、他のことが枠に収まっていくのは早かった。彼の薄い靴底のスニーカーが踏む地面はつまらないほどになめらかで、道の端に植わった街路樹は杓子定規に剪定が加えられている。街並みを大きく形づくるビルはばらばらなのに画一的で、四角い窓硝子に青い空が映り込んでいる。

 一歩一歩を踏み出す人ごみの歩調すら、ひとつであるような気がした。彼が大きな歩幅でさっさと歩いていると、邪魔者を追い出そうとするような視線が彼に向けられた。さすがに人ごみの全員ではなかったけれども、人ごみが彼を追い出したがっているように、彼には感じられて仕方がなかった。

 ああそうだ、一緒なんだ、と彼はまたひとつ腑に落ちる。ばらばらを目指しているように見えて、根っこにはまったく同じものがある。ばらばらであることを礼讃しているように見せかけて、その実孤立させているだけだ。この場所では、多分、根っこから違うことは人から嫌悪を呼ぶだけなのだ、と今までの短い生の中で散々と実感してきたことに、ひとつの理由をつけることが出来て、彼の心は穏やかだった。自分をみる周りの奇異の視線をすら、微笑ましく見送ることが出来た。

 色が縦に並んだ信号機の、赤信号で立ち止まる。少し車が途切れた隙に飛びだす影はありえない。けれども、進行方向直角の色が横に並んだ信号機の、赤信号が灯れば一斉にみんな動き出す。その人並みが捌けてしまってから、彼は横断歩道の上に足を下ろす。一歩、二歩と踏みしめる滑らかなアスファルトに描かれた白い縞模様は、久方ぶりに見るものだった。あそこの人たちはこれでの遊び方を知らないんだろうか。いや、きっと知っているさ。彼は考えて、ひとりで納得して、大きな歩幅で横断歩道を渡る、渡る。だって遊びには、言葉なんて関係ないじゃないか。

 そのときふと、彼の胸にある一つの風景が去来した。それは、彼がまだほんの小さかった頃、下手をすれば今の半分ほどの身長しかなかった頃の風景だった。ここからはまだ遠い街、彼が育った街の四つ辻でのことだった。車が一台通り抜けるのがやっとの道幅しかないくせに、両側から車がやってきて譲り合いをしているような道路と道路が交わっている辻でのことだった。そこには横断歩道もなければ信号機も必要なかったので、辻の角には電信柱が無表情に突っ立っているだけだった。電信柱は斜向かい同士の角に立っていて、彼は、それを繋ぐように描かれた、横縞の道を眺めていた。自分と同じぐらいの背丈を、体つきをした子どもたちが、横縞の上を飛び跳ねている。きゃいきゃいと、言葉にならない声をあげながら、跳ねている。彼にはそれがとても楽しそうに見えたので、あの遊びに混ぜてもらいたいとそう思った。けれども、そのときの彼はといえば、今の彼からすると信じられないほどに言葉というものを持っていなかったので、彼に出来たのはただただじっと、じいっと、飛び跳ねる彼らのようすを見つめることぐらいだった。そのうち、飛び跳ねていたうちのひとりが彼へ声をかけた。一緒に遊ぼう、というようなことを彼は言われたのだ。出る言葉はないが入れることは得意であった彼は、言われた意味を理解して、にっこりと笑ってうなずいた。自分も混ぜてもらえるということがたまらなくうれしかった。彼はその二人に手を引かれて、横縞の道の端っこに立たされた。白い帯は、彼の歩幅よりもずっと広い間隔をとって描かれている。そうか、この上を飛び跳ねるんだよな、と彼は考えた。そうして、考えた通りにした。地面を踏みしめる足に力を込めて体を縮め、ぴょんと両脚でその場から跳んだ。彼の両足は黒いアスファルトを踏んでいた。はい、終わり! 彼の手を引いてきたはずのふたりは、今度は彼の背中をぐいぐいと押して、彼を道の上から追い出した。おまえばっかだなあ、いっかいめでしっぱいするなんて。彼らはそう言うのだったが、彼にはまったく意味が分からなかった。自分は何を失敗したのだろうと思った。自分は彼らと同じことをしたのに、と擁護を求めるまなざしを、今、口を開かなかった方に向ければ、冷たい視線が既に彼に向けられていた。まるで彼を除け者にしたがっているような、いっそ追い出しにかかりたがっているような風に見えた。彼は戸惑いながらも彼らを眺めていたが、一気にその戸惑いが恐怖に変わった。いつの間にか、二人の後ろにも子どもが増えている。その子どもたちはみんな同じ顔をしていた。そしてよく見ると、彼を引っ張ってきたふたりも、それと同じ顔をしていた。黒い髪に黒い目をして、白い額と赤い頬をもっていた。みんながみんな同じ顔の目を細めて、口元をきゅっと結んで、彼を見つめていた。それらが彼には恐ろしかった。恐ろしくてその場から駆け出した。見上げた空の赤い夕焼けすら恐ろしかった。そんな風景のことだった。

 浮かんで去っていく風景を見送りながら、彼は、ああ帰らないとと思った。その風景の後、彼は確かに夕焼けの中を走って自分のうちへ帰ったはずだった。そのために駆けだしたはずだ。けれどもどこへ帰れと言うんだろう。それはまことに難しい問題だった。少なくとも今の彼には、いくら証明の為のスペースを与えられても証明が書ききらないだろうと簡単に予想が出来るぐらい、難しい問題だった。少なくとも、彼があの夕日の中を走って帰った家はもうない。この世界のどこにも、もうありはしないのだ。他のすべてが嘘だったとしても、それだけは本当のことだった。死んだ人が生き返らないということと同じぐらいに本当のことだった。さあ俺はどこに帰るというんだろう。自分の胸に問いかけながら、彼は、その答えを既に浮かべている。今から向かうアパートの部屋の住所は、どこにメモを取ることもせずに、ただ彼の頭の中だけに留められているのだ。しかし、思い出そうとするそのアパートがあまりにぼやけて遠いために、彼は果たしてそこは本当に俺が帰る先なのだろうかと自分の記憶を疑った。疑った癖に、その一方で確信してささやく声があった。どうせおまえの帰る場所はそこなんだと、意地悪い口調でもっていうその声は、確かに彼自身のものだった。その口調にむっとしながらも、彼も声の言うことは否定は出来ないのである。ぼやけて遠いその景色の中に、彼が置いていったものが確かに、ぽつり、ぽつりと浮かびあがって見えるのだ。埃をかぶった黒い学生服がそれだった。捨てる時期を逸して取っておいたまんまの日焼けした教科書がそれだった。床に開いて置かれ、癖のついて表紙の丸まっている文庫本がそれだった。すべてが遠い記憶の中で、こちらへ手を伸ばすように、それだけがせまってくる小さな忘れものたちは、確かに彼をその部屋へと誘っている。それで彼は、ああやっぱりここだ、ここなんだと納得しかけるのだけれども、いいややっぱり、と自分で自分に反駁をするのだった。其処にはノスタルジーが一つもないじゃないか、と彼はまるで自分に向けて呟くのだ。

 ノスタルジーとは、帰るべき場所に感じる既視感をロマンチックに言い換えたものだ、と彼は考えている。だから、少しのノスタルジーも感じられないアパートの一冊は、やっぱり、帰る先にはちょっと思えないのである。ノスタルジーというのなら、彼はよっぽど、あちらで見た灰色の空を思うのだ。下手をすれば、雲一つない真っ赤な夕焼けよりも、延々長々と灰色が波打つ曇天の方に、彼はノスタルジーを感じ取るのだった。そのノスタルジーは、彼にはあとため息を吐かせた後に、それでもなお灰色の波間を見つめ続けさせる引力を持っていた。俺はこの灰色を知っている、知っているに違いないと彼を確信させるに至らしめるほどに強いものだった。それでいてその灰色の下から旅立たねばならないという日になったら、ほっと肩の力が抜けたものだった。親の目が外れるというのはこういうことなんだろうか、と彼はその感覚について考えたものだった。

 灰色の空の下ではいつも風が冷たかった。人はみんな、わずかに流れてくる晴れの光を求めて、通りに面したガラスを大きくしていた。どの店も軒先にテーブルを置き、椅子を並べて席をつくっていた。人はみんな、晴れ間を待ち望むように軒先の席に座っていた。ふたりが、直角の位置に並べた椅子に座って、温かい飲み物を傾けて、言葉を交わしていた。そうして軒先で交わされる囁きは、彼には聞こえなかった。聞こえなかったけれども、それが決して自分を嘲笑うような内容でないことには、確信があった。灰色の空の下を歩く人並みは、髪の色がバラバラだった。目の色もバラバラだった。歩くスピードもみながみな違っていて、彼が大きな歩幅で歩くのよりも、もっと速く歩く人もいた。交わされる言語は決して、一つではなかった。彼に分かるのは聞こえてくるうちの二つか三つだけれあったけれども、聞こえてくる知らない言語に耳を傾けることは苦痛ではなかった。むしろ聞いていると愉快にさえなった。この場所では、他の人に理解が出来ない言葉で語らうことが許されているんだと思うと、安心して頬が緩むのだった。

 きっと、違うということを受け容れているのだ、と彼は思う。灰色の空の下では、人は誰かと自分が決定的に違うことを、根本からして決定的に違うことを、はじめから当然のものとして理解しているに、違いないのだ、と。故にこそ、時に熾烈な戦争を招くのだとしても、日常を生きていく上でそれよりも、真に他者を尊重するための手段があるだろうか、と彼は思う。少なくとも彼が、たとえば子どもの頃に過ごしたかったのは赤い夕焼けと灰色の空とどちらの下だ、と問われれば、彼は灰色の空の下を答えただろう。子どもというのは無邪気に残酷なもので、自分たちと違うものへは容赦なく、嘲笑を浴びせ、追い出しにかかるものだ。はないちもんめだ、と彼は思い出す。単純な童歌の旋律と一緒に思い出すのは、要らない、といちばんはじめに列から追い出されて、拾ってももらえずに、広場の隅からそれを眺めているしかなかった自分の姿だった。

 駅へ着いた彼は、電車に乗るために切符を買う。財布を開いて困惑した。二種類の札が入っている。どちらが使えるんだったっけと思いながら両方を取り出して、頭の上の駅表示と同じ雰囲気の文字がある方を口に咥えながら、もう片方は財布へとしまい込む。自動券売機に口に咥えていた札を差し出せば、あっという間に呑み込まれていった。光るボタンから、何も考えずに「840」という文字を選んで押す。旅立つ日にも購入したはずの小さな切符を手に握って、彼は俺は今から帰るんだと言い聞かせるようにつぶやいた。

 そう、彼は帰るのだ。そこにノスタルジーがなかろうが、帰るべき場所の姿がぼやけていようが、彼は今から帰るのだ。なまぬるく熱と湿気を孕んだ風が吹くこの場所で、彼が暮らすべき場所へと帰るのだ。いくらノスタルジーを感じると言ったって、灰色の空の下で彼はただの旅人だった。異邦人だった。

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