第41話 水惟の気持ち、蒼士の想い

——— 深端も辞めてほしい


一瞬、停止ボタンでも押されたかのように水惟の泣き声が止み、パッと蒼士の方を向いた。目からは涙が流れ続けている。


「なんで……そんなこと言うの…?」


「私が、デザイン…出来なくなったから…?」

「それも、肯定も否定もできない」

「なんで…ひどいよ…私が使えなくなったから…ぜんぶ…ぜんぶ取り上げるの…?」

水惟の顔から血の気が引き、また悲痛さを増す。

「水惟、そうじゃないよ。」

否定する蒼士に、水惟は取り乱したように首を横に振る。

「嘘!何が違うって言うの!?」

蒼士は水惟の両肩を掴むようにして支え、自分の方を向かせ、目を見据えた。


「最後まで聞いて欲しいって言っただろ?」


「…もう聞きたくない…」

水惟は顔を背けた。

「水惟」

「…私のこと…嫌いになったって言うんでしょ…?」

「…そうだな—」


「水惟のことはもう好きじゃない—」


水惟は顔を背けたまま、苦しそうな表情をした。


「—って言えた方が優しいのかもしれないな。」


「え……」

水惟がまた戸惑いを隠さない顔で蒼士の方を見た。

「水惟のことが好きだから、正直…今の苦しんでる水惟を見てるのが辛い。」

「………」

「水惟が苦しんでる原因は深端と…俺だから。」

水惟はまた首を横に振った。

「違うよ!悪いのは—」

「水惟は悪くない。俺が今 側にいるから、水惟が深端で辛い立場になってるし、俺が側にいるから、苦手な場所にばっかり連れ出して緊張させてるんだ。」

「…ちがう!ちがうもん!」

「水惟だって本当はわかってるだろ?」

「…だもん…わかってたって離れたくない…ずっと一緒にいたいよ…大好きなのに…」

水惟はずっと拭うのも忘れて涙を流し続けている。


「一緒にいるために離婚するんだ」


「………なに?それ……意味がわかんないよ…」


「俺はもっとちゃんと水惟を守ってやれるように…水惟に頼ってもらえるような人間になるから。」

蒼士はまた、水惟を見据えた。

「5年、待って欲しい。」

「5年…?」

困惑する水惟に、蒼士は頷く。

「5年以内に…最低でも営業のトップにはなれるようにする。もちろん深山の名前だけじゃなくて、数字で成果を認められるような形で。」

「………」

「深端を少しずつでも水惟が働きやすい会社に変えられるようにして、水惟を迎えにいくから。そしたら、改めて夫婦としてやり直そう。」

水惟には蒼士の言っている話がどれくらい現実味があるのかわからなかった。

「だから水惟は5年間、俺や深端と距離を置いて…前みたいに笑えるようになって欲しい。」

水惟の目からはさらに涙が溢れ出てくる。

「そんなの…どうなるかわからない…5年で、蒼士に好きな人ができちゃうかもしれない…」

「絶対無いって約束する。」

「わ、わたし…だって…わからないよ…」

「…それは…すごく嫌だけど、水惟の気持ちを優先する。」

「…でもやっぱり5年間離れ離れなんて—」

蒼士はソファに座ったままで水惟を抱きしめた。

「俺はずっと水惟を想ってるから。信用してほしい。」

「………」

水惟は何も言わずに背中に回した手に力を込めた。


その日は水惟が蒼士と同じベッドで寝るのを拒否してソファで寝ようとしたので、蒼士が代わりにソファで寝た。水惟はベッドの中でもずっと泣き続けていた。


翌日

泣き疲れて深い眠りについていた水惟が昼過ぎに目を覚ましリビングに向かうと、テーブルの上には夫の欄に記入済みの離婚届が置いてあった。

昨夜の話が現実だったことを突きつけられ、水惟は気持ちのやり場に困ってしまった。

昨夜の蒼士は自分を好きだと言ってくれていたが、それが本心かどうかを確かめる術が無い。こんな風にあっさりと離婚届に判を押されると、本当は面倒になって別れたいと思ったのではないかと疑ってしまう。

信じたい気持ちと悲しい気持ちに挟まれ、水惟の目からはまた静かに涙が溢れた。

それでも、記入済みの離婚届を見てしまえば別れなければいけないと頭が理解してしまい、水惟も妻の欄に記入した。


帰宅した蒼士は水惟も記入した離婚届を見て、ホッとすると同時に切なそうな表情をした。

「話…いいですか…?」

ドアの音に反応して部屋から出てきた水惟が蒼士に言った。今回はダイニングテーブルに向かい合って座った。昨日までとは違う距離感を二人はそれぞれに感じていた。

「今後のこと…会社とか、引越しとか…そういう話をしたくて…」

「家は深山が所有してるマンションの好きなところを—」

水惟は首を横に振った。

「いらないです…深山の部屋に住んでたら、いつまで経っても思い出しちゃうから…」

「別に思い出したっていいだろ?5年間の話だ。」

「…それは…今、あなたが一方的に言ってるだけで、正直信じきれないから…ちゃんと自分で部屋を借りて自立します。」

「………」

「貯金はしばらく大丈夫なくらいはありますけど…最低限の慰謝料みたいなものはいただけたら助かります。」

「最低限なんて言わなくていい。毎月援助したっていいんだよ。」

水惟はまた首を振った。

「本当は別にいらないですけど…ちゃんと後腐れなく離婚した方がいいと思うので。」

「後腐れなくって…水惟、昨日の話覚えてる?」

蒼士は眉を顰めて、焦りも混ざったような表情かおで言った。

水惟はコクッと頷いた。

「さっきも言いましたけど…信じきれないんです。少なくとも…一度はここでキッパリ別れた方が…いぃ…とおもいます。」

水惟は小さく喉を鳴らして、涙を堪えた。

「退職届けも書きました。」

水惟はテーブルの上に白い封筒を差し出した。

「…明日からしばらくホテルに泊まって家と仕事を探します。」

「そんなのこの家から…」

水惟はまた首を振って拒否の意思を示した。

「会社にある荷物はこちらに送ってもらっていいですか?家が決まったら持って行くか処分するか決めるので。」

水惟は立ち上がって、自分の部屋に戻ろうとした。

「ちょっと待って水惟」

そう言って、蒼士は後ろ姿の水惟の手首を引っ張るように掴んだ。

「やめて!」

振り向いた水惟を強く抱きしめる。

「なんで?なんでそんなに信用してくれない!?」

水惟はまた、蒼士の胸の中で泣き出した。

「なんでって……」

「信じてくれなくても、絶対迎えに行くから。その時はもう一回信じて欲しい。」

「………」

「お願いだから…」

蒼士の絞り出すような声に水惟の全身がキュンと締め付けられる。


どうしても信じると言い切れない水惟は、無言で一度、小さく頷いた。

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