第40話 蒼士の愁い

結局水惟はしばらく休職することになった。


「ただいま。」

「おかえり。ご飯できてるよ。お風呂も沸いてる。」

水惟が笑顔で迎える。

「………」

蒼士は塵ひとつ無いんじゃないかというくらいピカピカの室内を見て、水惟にわからないように溜息をいた。

水惟が休職して3週間、毎日手の込んだ朝食で送り出され、帰宅すれば何品もある夕食と暖かい風呂が用意されている。シャツのアイロンもかけられ、靴もピカピカに磨かれ、室内はいつもきれいに掃除されている。

(水惟も食事は前ほどではないけど食べるようにはなった…けど…)

「水惟、休職中なんだからのんびりしててもいいんだよ?」

蒼士の言葉に水惟は首を横に振った。

「…せめて家事はちゃんとやらなきゃ…」

“休職している自分には存在価値がない”とでも言っているようだった。


蒼士が気になっているのは、水惟の私室のデスクに置かれたノートパソコンと、付箋だらけのデザイン関連の本だった。

食事の片付けが終わると、水惟は部屋に籠もるように過ごしていた。


———コンコン…

蒼士がドアをノックして部屋に入る。

「水惟、もう11時だよ。そろそろ寝た方がいいんじゃない?」

「もう少しだけ…」

そう言って振り返った水惟の肩越しに見えるパソコンの画面には、蒼士でもわかるくらいまとまりのないデザインレイアウトが表示されている。

「水惟、約束しただろ?無理しないって。」

「それは会社に行くときの約束だし…」

「違うってわかってるだろ?水惟がまた倒れたりしないようにって約束したんだから、家でも無理したらダメだよ。」

「でも…」

水惟は俯いた。

「休職中なんだから休んでいいんだよ。」

水惟は寝室に行くため、納得のいかない様子で渋々椅子から立ち上がった。

「…休職って…」

水惟がポツリと言った。

「休職っていつまで?いつになったら復帰できるの?」

蒼士の顔を見上げてまた不安げな顔で聞いた。

「…水惟がちゃんと休んで、またデザインができるようになるまでだよ。」

「でも、休んでたらもっと忘れてわからなくなっちゃう…」

水惟の眉が八の字を描き目が潤む。蒼士はまた、落ち着かせるように抱きしめて頭を撫でた。

「…会社に行けないなら、デザインの学校とか行っちゃダメ…?お金は自分で出すから…」

「水惟…」

(なんでこんなに…追い詰められてるみたいに…)

「ダメだよ。休職はしっかり休む時間だから。」

「でも…それじゃあ蒼士に…」

水惟がポロっと溢すように言った。

「俺?俺に何?」

水惟はハッとした。

「なんでもない!もう寝るね。」

水惟は急いで寝室に移動し、ベッドに潜り込んだ。

(………)


水惟は会社やデザインの学校に行くのは諦めたようだったが、それからも毎日遅くまで自室でデザインのリハビリのようなことを続けていた。そんな水惟を見て、蒼士にはある思いが芽生えていた。


——— でも…それじゃあ蒼士に…


(水惟を追い詰めてるのは…)



蒼士は会社から洸に電話をかけた。

「洸さん、今少しお時間良いですか—」



数日後の夜

「水惟、話があるんだけど。」

いつも通り自室でパソコンに向かっていた水惟を蒼士がリビングに呼び出した。

二人はソファの角を挟むように座った。いつもなら隣に座るはずの蒼士がそうしたことに水惟は違和感を覚え、何か大事な話が始まるのだと理解した。

「「………」」

しばらく重苦しい沈黙が続いた後、蒼士が咳払いをして話し始めた。

「水惟、今から話すことを最後までちゃんと聞いて欲しい。」

「…はい。」

蒼士が水惟のを見据えると、水惟も戸惑いながらも蒼士の瞳を見て応えた。


「単刀直入に言うけど—」

「………」


「俺と離婚して欲しい。」


「  」

水惟は頭が真っ白になり、沈黙とも言えない間を作った。

「え……?リコン?…」


「……別れるってこと…?」

想像通りの水惟の質問に、蒼士は頷いた。

「申し訳ないけどこれ以上一緒にいられない。」

「え、なんで…なんで…?急…に…」

昨日どころか、つい先ほどの夕食まではいつも通りの仲の良い夫婦だった。

水惟は蒼士の方を見たまま、困惑した表情を見せると目を伏せた。

「もしかして…」


「急…じゃ、ない…?」


「いつから?…私が倒れて迷惑かけたとき?」


「私が…デザインできなくなって休み始めたとき?」


「それとも……あのとき?あんなこと…言っちゃった…」


——— 結婚なんてしない方が良かった


水惟の質問に、蒼士は少し考えた。

「全部違うし、全部…そうかもしれない。」

「…どういう意味…」

「言っておくけど、水惟が倒れたことが迷惑だなんて思ってないよ。」

「………」

「水惟は自分が前みたいにデザインが出来なくなってることに…俺に対して罪悪感を抱いてるみたいだけど、それも感じる必要がない。失望なんてしてない。」

「…でも…」

「むしろ…倒れたことも、デザイン出来なくなってることも、あの言葉も…全部…心配してる。俺が水惟を追い詰めてしまったんじゃないかって—」

蒼士が言い終わる前に、水惟は首をぶんぶん横に振った。

「そんなことない!悪いのは全部私だもん!蒼士は悪くない!」

(………)

「だから…だから、別れるなんて言わないで!」

気づくと水惟は蒼士の服の袖を掴み、大粒の涙を溢していた。

「ごめん。今これ以上、夫婦でいるのは無理なんだ。」

「なんで…?悪いところがあるなら直すから…」

蒼士は首を横に振った。

「水惟には悪いところなんて無いよ。」

「ならなんで!?やだ!どうして!?ずっと一緒にいるって言ったじゃない…!」

「………」

「やだ!蒼士!やだぁ…」

水惟は子どものように泣きじゃくっている。


「それともう一つ—」

下を向いて泣いている水惟を悲痛な顔で見ながら蒼士が続けた。


「深端も辞めてほしい」

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