時計の針が止まる時

第38話 怯えた目

***


「最近出張行かないね。」

家でソファに座ってタブレットを見ている蒼士に水惟が言った。

「家にいると邪魔?」

蒼士は冗談めかして笑って言った。蒼士にとってはあくまでも冗談でしかなかった。

「え!?違うよ、そんなんじゃない…」

水惟は不安そうな表情かおをして、ソファの背もたれ越しに蒼士に抱きついた。

「邪魔なんて思ってない…家にいてくれたら嬉しいよ…」

「わかってるよ。ただの冗談。」

蒼士も困ったように笑って水惟の頭を撫でた。

このところ、水惟は以前より蒼士に甘えるようになった—それはどこか親の機嫌を損ねないように必死になる子どものような、不安や怯えを感じるものだった。


——— 結婚なんてしない方が良かった


(水惟は多分、あの言葉をずっと気にしてる…)


(否定してたけど、あれは—)


本人も気づいていない水惟の本音なのかもしれない、と蒼士は感じていた。


***


ある日出社した水惟に氷見がパンフレットのデザインラフを渡した。

「ここの色、もう少し明るくしてもらえる?」

このパンフレットの氷見からの色の修正指示はもう3回目だ。

「はい…」

修正指示を受け取った水惟はそれをじっとみつめて戸惑っていた。

「どうかした?」

「この色…そんなに変ですか…?」

「え?」

「私にはそんなに暗く見えなくて…正直、このままでも良いように思えます。」

「水惟…それ、本気で言ってるの…?」

「え…」

水惟の全くピンときていないような表情で、ふざけているわけでも嘘をついているわけでもないことがわかった。


今度は氷見が蒼士を小会議室に呼び出していた。

「余計なお世話かもしれないけど…水惟はしばらく会社を休ませた方がいいかもしれない。」

「それは…コンペの件で、ですか?」

蒼士が聞くと、氷見は首を横に振った。

「これ見て。」

氷見はタブレットを差し出した。

「これ、ここ最近の水惟のデザインなんだけど…」

氷見はスワイプして次々にデザインを見せていく。

「………」

無言で見ていた蒼士の表情が曇る。

「深山くんならわかるでしょ?」

「…色…」

蒼士が口にした言葉に、氷見が頷く。

「水惟のデザインって、色がきれいなのが魅力の一つだったのに…ここ最近のものは、意図してないだろうなってところで色が暗く濁ってたり、おかしなバランスで色が入ってたり…前はこんなこと無かったのに。よく見ると文字もところどころバランスが悪くてデザイン的に気持ち悪いし…」

「最近ていうのは?」

「思い返すと噂が広まり始めた頃から不安定になり始めてたなって感じだけど、ここまで変わってしまったのはコンペの後からだね。」

「そうですか…」

蒼士は氷見にわからないように拳にグッと力を込めた。

「休めなんて言われたら、それ自体にショックを受けるかもしれないし…本人の意思を尊重して欲しいとは思うんだけど、ちょっと心配なんだよね。」


その日、蒼士は久しぶりに洸と二人でいつものバーにいた。

「そうか…氷見ちゃんからときどき聞いてはいたけど、そんな状況かー思ったより荒れてんなぁ…乾は気ぃ強いタイプだからなー…」

洸がウィスキーのグラスを片手に苦笑いで言った。

「氷見さんが言ってることは正しいんだ。乾さんがしたことなんてこの業界ではよくあることで、水惟自身が文句言うなりしなくちゃいけない…」

「しないよなー水惟は。そういうところが良くも悪くも深端っぽくないもんな。水惟らしいっつーか…」

「水惟らしい、か…」

蒼士は結婚してからこれまでのことを思い返してみた。

(水惟らしい水惟…)


水惟の性格は真面目で一生懸命、クールそうに見えて好きな食べ物や好きな物の前では表情がわかりやすく明るくなるような素直さがある。

他人を傷つけるようなことは言わないし、自己主張の強いタイプではないが、聞いてみればどんなことにも自分なりの意見は必ず持っている。嫌いなことを態度には出さないが、物事の好き嫌いは案外ハッキリしている。


(他人と話すのは嫌いじゃないけど、初対面の人間には緊張してしまう…)


(デザインした作品を通して褒められるのは喜ぶけど、自分自身が人前に出て目立つことは嫌がる…)


(なのに結婚してからは…)


水惟の苦手な会食やパーティーに連れ出し、水惟にとっては初対面の人間と話す機会が多い。仕事でもデザインした物よりも深山の名前で水惟自身が、それもごく表面的な部分が注目されるようになってしまった。


「最近、水惟が心から笑ってるような笑顔って見てないかもしれない…」

蒼士は零すようにつぶやいた。

「つーか、蒼士っていつ連絡しても海外だ九州だ北海道だ…っていつ水惟に会ってんだって感じだけどな。」

「だから最近は出張の予定も減らしたんだけど…」

寧ろそれが水惟に気を遣わせてしまっているような気さえする。

蒼士は小さく悩ましげな溜息をいた。

「氷見ちゃんの言う通り、しばらく仕事休ませるってのもアリだと思うぞ?」

洸の言葉に蒼士は頷いた。

「でも、今の水惟に仕事休めって言うのは…傷つけそうで正直怖い…」

怯えたような水惟の目を思い浮かべた。


蒼士から伝えるまでもなく、水惟が休職することになったのはそれから数日後のことだった。

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