第10話 来訪

「あ…一疋屋いちびきやのゼリー…!」

ある日、午後から出勤した水惟が飲み物を取り出そうと事務所の冷蔵庫を開けて言った。

一疋屋は老舗の高級フルーツ店で、パッケージデザインも色鮮やかでかわいいためフルーツゼリーやジュースなどが手土産としてとても人気がある。

「さすが水惟ちゃん、すぐ気づいた。あとでおやつに食べようね。」

蛍がくすくすと笑いながら言った。

「これどうしたんですか?」

「ん…?んー…」

蛍がなぜか答えにくそうにしている。

「…?」

「それね、蒼士くんのお土産なの。」

「え…」

「今ミーティングルームで洸と話してるよ。」

「………」

一疋屋のフルーツゼリーは昔から水惟の大好物だ。

(…べつに…普通にギフトの定番だし…)


(…って、そんなことより…いるんだ、今…なんで?)

水惟がリバースデザインで働いて4年、蒼士がこの事務所に来るのは初めてのことだ。


「水惟、ちょっと話いいか?」

水惟がパソコンに向かっていると、ミーティングルームから洸が顔を出した。

「え…はぃ…」

ミーティングルームに誰がいるのか知っている水惟は、渋々という表情で部屋に向かった。その様子を啓介はまた興味津々の表情で見ていた。


「こんにちは。」

蒼士が言った。

「…こんにちは…いらっしゃいませ」

明るいとは言えない表情で水惟が言った。

「お話ってなんでしょうか…」

「まぁ座って。」

洸が水惟に着席を促すと、水惟は勧められた蒼士の向かいの席に無表情で着席した。

「今水惟が担当してるjärviの件、追加で依頼があった。」

「järviのロゴも刷新することになったから、少し急ぎになってしまうけど水惟にお願いしたい。ロゴはカフェの看板から、コースターとかメニューとか、ギャラリーのカードなんかにも使用する予定になってる。もちろんポスターにも。」

蒼士が言った。

「ロゴ…」

「湖上さんがぜひ水惟にお願いしたいって言ってくれてるんだ。」

蒼士はいつもの落ち着いた口調だが、嬉しそうに言った。

「前に言ってただろ?カフェとかホテルのトータルデザインをしてみたいって。それに近い仕事だと思うけど…」

「…え、前?それってかなり前じゃないですか…?なんで…」

5年ほど前に何気なく言った記憶がある。

「覚えてるよ。俺は水惟のデザインのファンだから、カフェもホテルも見てみたい。」

蒼士が笑顔で言うので、水惟の心臓が思わずキュ、と音を立てた。


——— 深端も辞めてほしい


4年前の言葉がすぐに蒼士の言葉を打ち消し、水惟はまた表情を無くす。

(ファンなんて…嘘つき…)


「…わかりました、デザインは頑張ります。詳細はまた分かり次第教えてください。じゃあ、これで」

水惟は立ち上がって部屋を出る素振りを見せた。

「あ水惟、しばらく打ち合わせがある時は蒼士に来てもらうから。水惟もなんか用事あったら言って。」

(…なんで?今まで来なかったのに…)

「………」

水惟は無言でお辞儀をして部屋を出た。


(ちがう…今までが変だったんだ。洸さんと親しくて、大きい仕事をくれるクライアントなのに4年間一回も来てないなんて…。私が洸さんに気を遣わせてたんだ。)

ミーティングルームのドアに背を向けて立ち尽くす水惟の心臓が、今度はズキ…っと鈍く軋んだ。


今回の仕事で、水惟と蒼士と、その周りの人間の時間が4年振りに元の場所で動き始めた。

水惟はそんなことを感じていた。

(それ自体は良い事だけど…)


5年前の記憶が蘇る。


***


「水惟は美味しいもの食べてる時が一番幸せそうだよね。」

デートの途中、カフェでケーキを食べる水惟に蒼士が微笑んで言う。

「だってケーキってすごくない?こんなに小さいのにキレイで美味しくて。それにお店もかわいいし!」

水惟が目をキラキラさせて興奮気味に言う。

「いつかカフェのトータルのデザインとかやってみたいんだ。内装のイメージとロゴとメニューと…」

「ついてる。」

蒼士が水惟の口元についたケーキのカケラを親指で掬うように取り、ペロッと口にした。水惟は照れくさそうに赤面する。

「水惟ならできるよ、きっと。俺も見たい。」

「あとね、ホテルとかもやってみたいの。アメニティとか絶対楽しいと思うんだ〜」


***


(…あんな、何気なく言ったようなこと…なんで覚えてるのよ…)

水惟の胸がまた騒つく。

ミーティングルームのドアの外で俯いて考えていた水惟はどこからか視線を感じて顔を上げた。

「わ!?」

驚く水惟の側には含みのある表情の啓介が立っていた。

「女の表情かおしてるじゃん。やっぱさぁ…」

水惟は首をぶんぶん横に振った。

「ないから!」

ドアの向こうに聞こえない、大声のような囁き声で否定した。

「本当かなぁ?」

「もー!アッシーって…」

———ガチャ…

水惟と啓介が言い合っていると、ミーティングルームのドアが開いた。

「あ…」

部屋から出てきた蒼士と目が合う。今の水惟は啓介と戯れあっているような体勢だ。

蒼士は二人を見てもとくに反応やコメントはしなかった。

(………)

「じゃあ今日はこれで。」

蒼士が洸に挨拶をした。

「おー、またいつでも来てくれよ。」

蒼士は洸に会釈をすると、水惟の方を見た。

「…水惟も、また。近いうちにロゴの件で連絡する。」

「……はぃ…」

微妙に気まずい空気が流れる。

(やっぱり元夫婦で仕事なんて…おかしいよ…)


「水惟ちゃん、休憩しない?」

蒼士が帰ってしばらくすると蛍が言った。

「………」

「ゼリーに罪は無いと思うけどな〜?」

水惟の眉間のシワを見た蛍が言った。

「今ならフルーツも選べるよ?私はオレンジにしようかな。水惟ちゃんはどれがいい?」

「………さくらんぼ…」

水惟がどことなく不服そうな表情で答えると、蛍はクスクスと笑った。

「俺洋梨ー♪」

啓介が水惟の後ろから顔を出してにっこり笑って言った。

「あら、啓介くんも一緒に休憩?珍しいね。」

「………」

水惟は啓介がまた余計なことを言うんだろうと予想してジトッとした目で見た。

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