第3話 4年振りの名前

「水惟〜!久しぶり!元気そうじゃない、安心したわ。」

「冴子さん、お久しぶりです。」

会議室にはもう一人、津田 冴子つだ さえこという女性がいた。冴子は4年振りに会う水惟を嬉しそうにギュッと抱きしめた。

「ウブちゃんも〜久しぶり〜」

「その呼び方やめろよ…俺は言うほどひさびさでもねーし。」

年齢は38歳。深端でマーケティングプランナーをしている。

水惟が勤務していた頃は年上の頼れるお姉さんという感じで、洸にとっては仕事上の悪友という感じの、二人にはとても馴染みの深い人物だ。

冴子は生川のことを「洸ちゃん」「ウッさん」「生川氏」などその時々で適当に呼ぶ。

長いワンレンの髪にはゆるくパーマがかかっていて、服装は昔からモノトーンで統一しているのは今も変わらないようだ。


「今回のカフェ&ギャラリーjärviヤルヴィのリニューアルオープンプロジェクト、ADアートディレクターはリバースデザインの藤村さん、マーケティングは津田さんを中心としたチーム、プロジェクトの統括は私深山が担当します。」

蒼士が言った。

「基本的にはデザインのコンセプトからまずは藤村さんにお任せします。津田さんとも打ち合わせて進行してください。」

「…はい」

「藤村さん以外にデザイナーが必要な場合はリバースから出してもらって、カメラマンが必要な場合は深端うちから出します。ライティングはどうしますか?」

「うちにライターもいるからコピーも考えるよ。それに俺もサポートするから。」

洸が答えた。

それからプロジェクトの概要が説明され、その日のミーティングは終了した。


「ちょっと藤村さんに話があるんですけど、いいですか?」

「え…」

蒼士が言うと、洸と冴子は退室した。

(何…)



「久しぶり。水惟。」

蒼士が落ち着いた声で言った。

「………」

水惟は蒼士に名前を呼ばれたことに戸惑いを覚えた。二人だけの室内はどうしても息苦しい。

「前に会った時より元気そうだな。少しふっくらした?」

蒼士はなぜか安心したように言う。

(前に会った時…)

それは4年前だ。

「髪も染めたんだ、黒い頃より水惟らしいな。」

水惟には蒼士の言葉の一つ一つがよくわからない。

「あの…」

「ん?」

「なんなんですか?名前で呼んで…それに…元気そうなんて…あなたに言われるのは不愉快です。」

水惟は眉間にシワを寄せて言った。

「………」

蒼士は水惟の顔をまじまじと見て、何かを考えているようだ。

「…水惟、もしかして—」

「名前で呼ばないでください。あくまでも仕事で来てるんです。それに、私達はもう…他人ですから。」

水惟の鼓動が少し早くなる。

「す…いや、藤村さん…もしかして4年前のこと覚えてない…?」

水惟には蒼士が何を言っているのかすぐには飲み込めなかった。

蒼士の言葉を頭の中で繰り返すと、怒りが込み上げた。

「…忘れるわけないじゃない…」


「4年前は夫婦でしたけど最低な別れ方でしたよね。だからもう、思い出したくないんです。仕事はちゃんとやりますから、名前で呼んだり…余計なことはやめて下さい。」

水惟の目は怒りを孕んで潤んでいる。


蒼士は考えるようにしばらく間を置いた。

「……そっか……そうだな、俺が悪かった。」

残念そうに言った。

「過去のいざこざは今回の仕事には持ち込まないようにしようって言いたかったんだ。いろいろ辛い思いをさせてしまったのはわかってるから、不快なことは遠慮なく言ってくれ。」

そう言って、蒼士は握手の手を出した。

「…和解の意味ですか?だったらそれが不快です。」

「ごめん。どちらかというと“あらためてよろしく”って意味だけど、気持ちだけにしとく。」

蒼士は手を引っ込めると、どこか申し訳なさそうな表情をした。

蒼士の表情に水惟の心臓が複雑な音を奏でる。

(いまさらこの人の表情にどうして反応するの…?苛立つだけでしょ…)

水惟は咄嗟に4年前のことを思い出してしまい、泣きそうになった。

「…すみません。よく考えたらそちらがお客様なのに失礼でした。先ほども言いましたけど、仕事はちゃんとやりますので。今日はこれで失礼します。」

感情を押し殺したように俯いて言うと、そのままペコリと頭を下げて水惟は部屋を出て行った。


「………」

———はぁっ…

部屋に残された蒼士は悲しげに大きな溜息をいた。




——— 水惟、かわいい

——— 大好きだよ、水惟



——— 結婚なんてしない方が良かった



——— 水惟のことはもう好きじゃない



(………)


(あんな別れ方して、どうしてあんな風に普通にできるの?)

水惟のむねはどうしようもなく騒ついてしまっている。


「ごめんな、蒼士が担当だって言わなくて。」

帰り道、洸が言った。

水惟は首を横に振った。

「同じ業界で、しかもこんなに距離の近い会社で働いてたら…仕事で関わるのなんて必然みたいなものだから。その時期が来たってだけです。ちゃんとやれます。」


——— 少しふっくらした?


「……洸さん、私って太ってます?」

「え?どうした急に。どっちかって言ったら痩せてるよ。」


4年振りに会った蒼士は高級そうなスーツを違和感なく着こなし、表情も自信に満ち溢れていた。

(………)

あれからそれなりの時間が経ったんだ、と水惟は実感した。

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