第4話 水惟と蒼士

水惟と蒼士が結婚していたのは、水惟の深端時代の1年ほどの短い期間だった。


(あの人と結婚してた頃のことってあんまり良い思い出が無いんだよね…ってゆーか、思い出自体があんまり無い…)


(知り合ったのは、たしか営業の研修で…一年半か…二年?付き合って…25歳で結婚…)


蒼士と再会した日、家に帰ると水惟は少しだけ当時を振り返った。

深端に入社してしばらくした頃には蒼士に好意を寄せていたことを覚えている。

(なんでだっけ?顔がかっこいいから?優しいから?年上で頼れるって思ったから?)

蒼士が担当するいくつかの案件に洸や他の先輩のアシスタントなどで参加するうちに親しくなり、付き合うことになった。

当時のことを思い出して、少しだけ水惟の胸がキュ…と軋む。

付き合っている頃は蒼士の立場もあり社内には秘密の関係だったが、秘密にしていると多忙な生活ではどうしてもすれ違いが多いため、蒼士の強い希望で結婚することになった。


そこから先のことを思い出そうとすると、なんとなく不安な気持ちになり頭痛もするので水惟は考えるのをやめた。


はっきりしているのは、蒼士の方から別れを切り出されたということだ。


その頃の水惟は仕事でもあまり上手くいっていなかった。


水惟は気持ちを落ち着けるため、スカートをギュッと掴む。


——— 水惟のことはもう好きじゃない


(お金持ちのお坊ちゃんの気まぐれに付き合わされただけなんだ…)


——— 水惟


辛い気持ちが込み上げるのに、4年振りに呼ばれた名前が胸をくすぐる。

(思い出したくないのに…なんで…)

気づくと水惟の頬を温かいものが伝っていた。


(なんで…?)



数日後

リバースデザイン

「いいじゃん。この3方向で提案書作って深端に提出して。」

水惟が提出したコンセプト案を見て、洸が言った。

järviの広告デザインを始める前にまずはコンセプトの方向性をいくつか示し、どれが良いかクライアントに選んでもらい次にラフを仕上げていく。

水惟は企画書のPDFを作成すると、メールで蒼士と冴子に送信した。

パソコンの画面に表示された【深山 蒼士】の名前にも微かに動揺してしまう。

(…早く慣れなくちゃ…)


その日の夕方、蒼士から返信があった。


【お送りいただいた企画書、わかりやすく方向性の違う提案がされていてとても良いと思います。どの案でいくかはクライアントを含めて話し合いたいので、先方にプレゼンしていただけますか】


水惟が了承の返信をすると、蒼士からすぐにスケジュール確認のメールが届いた。


***


(やっぱり今日も洸さんに同行してもらうべきだったのかな…)

車の後部座席で、窓の外に流れる景色を眺めながら水惟は後悔していた。

järviへプレゼンに訪れるため、水惟は蒼士の運転する車に揺られている。

(…いや、それはダメでしょ…)

プレゼン前の緊張感と、蒼士と二人きりの車内で水惟は息が詰まってしまいそうだった。

「メールにも書いたけど、先方にも事前に資料は送ってあるから。細かい前置きとかはしなくて大丈夫だと思うよ。」

「…はい」

声をかけた蒼士に、水惟は愛想無く答える。

「水惟、緊張してる?」

「………藤村です」

水惟はますます無愛想に言った。

「夕日広告賞、見たよ。」

蒼士が急に話題を変えたので水惟は怪訝な顔をしたが、もちろん運転席の蒼士には見えていない。


夕日広告賞とは、新聞社が主催する年1回の広告コンクールで、その年に発表された企業広告を表彰する『企業参加部門』と、協賛企業の広告を学生からプロまで広く公募する『一般公募部門』がある。歴史と権威のあるコンクールなので、広告代理店はもちろん、美術系の学生からデザイン事務所などのプロのデザイナーといった多くのデザイン関係者が注目している。

その夕日広告賞の公募部門で今年、リバースデザインは水惟をADとして制作した作品で賞をとった。


「コピーが活きてて良い広告だったな。イラストがすごく水惟らしかった。」

「…名前で呼ばないでください…」

「夕日広告賞の—」

言葉を無視して話を進める蒼士に、水惟は小さく溜息をいた。

「ADの名前、藤村 水惟じゃなくてSUIだったよな。」

「………」

「だからADとしての名前は“スイ”だろ?」

「…あれは…」

水惟は言葉を詰まらせた。

「……おかげさまで2回も名字が変わりましたから、名字を名乗るのはやめました。」

ツンとした口調で言った。

「…まぁ…だから、水惟は水惟だよ。みんなが水惟って呼んでるのに俺だけ名字で呼んでたら、逆にいろいろ詮索されるよ。」

(………)

———…はぁ…

水惟は許可も拒否もせずに溜息をいた。「好きにすれば?」という呆れを込めた意思表示だった。

蒼士は参ったように眉を下げて笑った。


(本当にどういうつもり?もう二度と会いたくなかったし、関わりたくなかったのに…)


——— イラストがすごく水惟らしかった


昔はよくデザインの感想を言われたような気がする…と、水惟の記憶が蘇る。



——— 良いデザインだね


(…やめてよ)


——— 俺これ好き


(…思い出したくなんかない…)


昔は水惟のデザインを見た蒼士が笑顔になるのが好きだった。


(頭 痛い…)

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