第2話 深山 蒼士

——— やだ!どうして!?ずっと一緒にいるって言ったじゃない…!

——— やだ!蒼士そうし!やだぁ…


水惟はハッとして目を覚ました。

(………)

悪夢にうなされていたような気がするが、夢の内容が思い出せない。

頬を触ると微かに涙の跡がある。

(…どうせあの頃の夢…)

水惟には悪夢の心当たりがあった。

寝起きではっきりしない頭を目覚めさせるべく、シャワーを浴びることにした。

(深端に行く日だからって嫌な夢見ちゃうなんて…我ながら繊細…)

水惟はシャワーを浴びながら溜息をいた。

(もう4年も経ってるって、自分で言ったくせに)


「洸さんの付き添いなんて無くたって大丈夫ですよ?もう30歳さんじゅうだし。」

電車内のドアの側に立ち、水惟は不満げに言った。

「そうもいかないだろ。今日はプロジェクトのキックオフでもあるし、一応事務所の代表が顔出さないと。」

「まあそれはそうですけどー」

「今日の様子で大丈夫そうだったら次回からは水惟一人に任せるからさ。」

洸は参ったな、という顔をした。

「いつも思うけど、洸さんてお父さんみたい。」

水惟は「ふっ」と笑った。

「勘弁してくれよ。まだ42歳だよ?30歳の娘がいてたまるかよ。」

今度は洸が不満そうな顔をした。

灯里あかりちゃんが生まれて、良いパパになってるってことじゃないですか。」

水惟は笑って言った。

「まあ、水惟のことは妹とか親戚の子とか、そんな感じの保護者目線ではあるよ。」

「ほらやっぱり。」


(洸さんとほたるさんの優しさと面倒見の良さには本当に助けられた。)

水惟は心の中でつぶやいた。

蛍は洸の妻で同じ事務所の経理事務を担当している。リバースに転職してから、水惟はこの夫婦に何かと世話になってきた。


二人は電車を降りてオフィス街に降り立った。

「懐かしい?」

周りを見回す水惟に洸が聞いた。

「………ん…うん…少し」

大小さまざまな広告代理店や印刷会社が立ち並ぶこの街は、仕事で用事が無い限りはまず訪れることがない。

深端からの案件で頻繁に訪れている洸に対して、水惟がこの街を訪れるのは深端退職以来4年振りだ。

今回の打ち合わせは日曜日を指定されたため、水惟が通っていた平日とは人の数は比べものにならないくらい少ない。


——— 今日はご飯食べて帰ろうか


水惟の脳裏に男性の声がぎる。

(………)

水惟は何かを振り払うように、首を横に振った。

「大丈夫か?」

洸が心配そうな苦笑いで言う。

「全然大丈夫!行こ。」


深端グラフィックス本社

周りのオフィスビルと比べても圧倒的に大きくて存在感がある。

(4年前までは毎日通ってたのに…)

久しぶりに前に立つと威圧的な建物だ。

事前にメールでもらっていた入館用のQRコードをゲートにかざして、二人は深端本社に足を踏み入れた。

「………」

水惟はビルに入ってから一言も発しないで目的の部屋を目指して歩いている。

日曜なので誰ともすれ違わないのも、言葉を発しない理由の一つだ。

「本当に大丈夫か?無理しなくていいからな。」

「……大丈夫…4年ぶりだから変な感じがしてるだけ…」


目的の部屋に着いた。ドアプレートには【会議室A】と書かれている。

「ところで、なんで打ち合わせが日曜なんですか?」

「先方の営業担当の都合。」

「そういえば今回の営業担当って…」

「誰でしたっけ?」と水惟が聞こうとしたタイミングで洸がドアを開けた。

———ガチャ…

「失礼しまーす。」

洸から先に入室した。

「失礼します。」

洸に続いて入室した水惟は、部屋の中にいた人物の顔を見て頭が真っ白になった。

スラッと背が高く、ふんわりと軽い黒髪のアップバングに切長の瞳で鼻筋の通った端正な顔立ちの男性。

(………)

「洸さん…」

水惟が不安げな小声で洸を読んだ。

「………」

洸は背中を向けたまま何も言わなかった。

(…そうだよ、一人でも大丈夫って言ったじゃない。)

「洸さん、ご無沙汰してます。」

部屋の中にいた男性が言った。

「おう、ちょっと久しぶりだな。営業部長になったって聞いたぞ。」

「ああ、そっか。名刺が変わってから会うの初めてですね。あらためて名刺をお渡ししてもいいですか?」

そう言って、男性は洸に名刺を渡した。

「…藤村さんもいいですか?リバースデザインに行かれてからお会いするのは初めてなので、できれば名刺交換させていただきたいのですが。」

男性に話しかけられ、水惟の息が少し苦しくなった。心臓も落ち着かない音を立てている。

「…はい」


「…今回担当させていただくリバースデザインの藤村です。よろしくお願いします。」

「深端グラフィックス営業部の深山 蒼士みやま そうしです。あらためてよろしくお願いします。」

「頂戴します…」

“久しぶりの再会”の挨拶が不自然に抜け落ちたやり取りの後、名刺を受け取る水惟の手は微かに震えていた。


【株式会社 深端グラフィックス 第一営業部長】

【深山 蒼士】


(営業部長…営業のトップ…)


「偉くなったんだな〜蒼士!まだ34歳だろ?異例の昇進なんじゃないか?」

洸が名刺を見ながら言った。

「いや、そんなことないですよ。洸さんこそ社長じゃないですか。」

「小さい会社でも社長は社長だからな。責任重大だよ。」

洸と蒼士は今もお互いに名前で呼び合う仲のようだ。


そんな二人の会話を、水惟は冷めた感情で聞いていた。

(“深山”が深端でスピード出世するのは当たり前じゃない。創業者一族なんだから。)


深端グラフィックスをはじめ、いくつかの子会社を経営する深端ホールディングスは現在蒼士の祖父が代表を務め、そう遠くない将来、現在は深端グラフィックスの社長を務めている蒼士の父へと交代する予定だ。

深端ホールディングスの経営者一族が深山家なのだ。


“深山”

それは4年前まで水惟が名乗っていた名字でもある。

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