第22回 8月9日:カズオ・イシグロと原爆

 現在Connie Willis短編集を再読中ですが、本日は2023年8月9日ということで、カズオ・イシグロにちょっと寄り道してみたいと思います。


 まず声を大にして言いたいのは、イシグロの英語は、とても読みやすいということです。アガサ・クリスティーの英語の読みやすさを満点の10とした場合、イシグロは11あるいは12ぐらい。Connie Willisは、文章自体は難しくありませんが、意図的に読者が戸惑うような書き方をしている様子が窺え(とくに冒頭部分)、8か7といったところでしょうか。


 イシグロは長崎に生まれますが、5歳の時に海洋学者の父親の仕事の都合で一家で渡英します。当初は数年の予定だった英国滞在が延び延びになって、20歳を迎えたイシグロは英国への帰化を決意します。日本は二重国籍を認めていないから、どちらか選ばざるを得ず、渡英後は一度も日本に帰ることなく英国で育ったイシグロに、英国人として生きる以外の選択肢はなかったように思います。


 だから彼はイギリス人です。ノーベル文学賞を受賞した途端に都合よく日本人扱いするのは厚かましいってもんですよ。


 といっても、彼が日本、長崎で生まれ、5歳までは暮らしていたことは確かです。幼い彼はあっという間に異国の言語を覚え、それでも家庭内でだけは日本語を話しながら育ったそうですが、母語は完全に英語でしょう。自宅だけが日本語圏という環境で、彼の日本語能力がどのように成長したのか非常に興味がありますが、彼が公の場で日本語を話すことをはないはずです。


 日本語を話すモデルが両親、特に一緒にいる時間の長いお母さんの影響が強いでしょうから、女言葉になってしまう、とか。まあ、勝手な推測ですけど。海に関する話題なら学者のお父さんから半ば強制的に聞かされていてやたら詳しい、とかね。


 イシグロは1954年生まれ、一家の渡英は1960年、当然YouTubeなんかない時代です。英国にいながら日本の情報を入手するのが非常に困難な時代でした。

 そんなイシグロの長編デビュー作は、戦後の長崎を主な舞台としたA Pale View of Hillsです。邦題は『女たちの遠い夏』から改題され、より原題に近い『遠い山なみの光』というタイトルになっています。


 いまちょっとAmazonを覗いてみたら、邦訳のKindle版がめっちゃお安くて385円(2023年8月9日現在)なんですけど……うっそー、またセールでしょうか?

 どうせならこの機会に買ってしまうというのも手ですが、ここはやはり英語で読んでみましょうとおすすめするエッセイなので、原書のA Pale View of Hillsをお勧めしたいのですが、え、訳書より高いじゃないですか原書のKindle版は1,080円。どういうこと??


 イシグロのように、元から国際的に人気があったのにノーベル文学賞まで受賞してしまうと、Kindle版ですらなかなか値が下がらないようです。Pale Viewは1982年の作品なのに。え、40年前……!?


 もちろん、原書と訳書、両方手に入れるというのもアリです。自分はイシグロ作品はすべて原語で読んで、和訳も読んだのは『日の名残り』だけです。この機会にイシグロの和訳も集めようかなあ~この前のセールで『充たされざる者(The Unconsoled)』買っちゃったしねえ。


 それはさておき。とりあえず原書で読むという趣旨に沿ってすすめます。

 このイシグロのデビュー作、A Pale View of Hillsは、イギリス在住の老いた日本人女性エツコが、長崎で暮らしていた若かりし頃を思い出すという小説です。メインは戦後の長崎時代であり、その描写はまるで、日本の小説からの英訳を読んでいるかのような不思議な効果をもたらします。


 5歳から英国で暮らし始め、家族の中でいち早く英語を身に着けてしまったカズオ君なので、小説を書く際にまずは日本語で書いてそれを英訳したとは思えないのですが、彼は黒沢や小津安二郎映画の大ファンということもあり、もしかしたら長崎のパートは日本語で台詞を考えたりしたかもしれません。


 1954年生まれのイシグロはもちろん戦争を経験していません。しかし、母親は被爆者であることをインタヴューで語っています。しかし、若き日のイシグロの母は、病院に担ぎ込まれて長らく入院していたために、最悪の地獄を目撃せずに済んだのだと言います。ですから、イシグロ自身は、両親の経験としても、原爆について直接は知らないことになります。


 それでも、イシグロよりさらに何十年も経ってから、広島でも長崎でもない地に生まれたわたしがそうであるように、日本人である以上、原爆から完全に逃れて生きるということはほぼ不可能です。

 

 A Pale View of Hillsにおいて主人公エツコが語る戦後の長崎には、「原爆(atomic bombまたはnuclear bomb)」という言葉は、ただの一度も登場しません。それでいて、よりシンプルに bomb という語で稀に言及される時、それが原爆を指しているのは明白で、淡々とした語りの中に、それが人々にもたらした甚大な苦悩を描いて見せる。イシグロはそんな技法を用いています。


 イシグロ作品に登場するのは、信頼できない語り手と呼ばれる主人公です。このデビュー作においてもそれは顕著で、長崎時代に知り合った女友達についてエツコが語るのを聞いていると、はたしてそれが本当に友人のことなのか、もしやエツコ自身についてのことをその友人に投影させて語っているのではあるまいか、などと次第に疑惑が募っていきます。

 アガサ・クリスティーの大ファンだというイシグロは、ささいな日常の積み重ねから大事件が湧き上がってくるというクリスティーの手法を踏襲していると自ら語っています。あちこちに巧みにちりばめられたclue(事件を解く鍵)を丁寧に拾い集めていくと、それまで見えていた景色が一転して見える。しかし、それすらも正解なのかわからなくなってしまう。そんな不思議な世界をイシグロ作品は一貫して与えてくれます。


 表面的にはどれだけ静かに見えようとも、穏やかな水面の下ではもがき苦しんでいる。


 イシグロ作品――確か『日の名残り』だったと思いますが――をそんな風に評したのは、かのサルマン・ラシュディです(ええ、あのラシュディです)。それはこのPale Viewですでに顕在です。

 そこに描かれる長崎は一見穏やかですが、戦時中は正しいとされていた価値観が転覆し、政府の言いなりに戦争を支持していた大人たちは立場が一転してしまっています。若き日のエツコの義理の父もそのような人間です。エツコは、夫よりもこの義父に対して同情的ですが、信じていたものが一夜にして、あの敗戦という一日であっさりひっくり返ってしまったことによる人々の混乱も、Pale Viewには描かれています。


 原爆による悲惨な被害をむごたらしい描写によって示さなかったのは、イシグロ自身がそれを経験していないからでしょう。しかし、資料を調べたうえで、物語に挿入することは可能だったのに、敢えてそれをしない選択をしたことに自分は敬意を表したいと思います。

 イシグロ作品の登場人物は、決して苦しいとか悲しいとか口にしません。あたかも自分自身に言い聞かせるかのように、なんでもないことであるかのように偽るのです。それでも、その苦しみや悲しみは、ひしひしと伝わってくるような趣向になっています。


 静かに、しかし確実に戦争というものの重さを噛みしめることができるのがA Pale View of Hillsです。

 ちなみに、イシグロの第二作目An Artist of the Floating World(『浮世の画家』)も、戦後に価値観が一変した日本が舞台で、老いた画家が、戦時中に政府に協力的だった己の行いを振り返るものです。初期のイシグロはなぜか老人ばかり主人公にしているんですよね。

 三作目のRemains of the Day(『日の名残り』)は、やはり主人公は老いた執事ですが、舞台がイギリスに変わり、「あまりにイギリス的」と評されますが、これも、戦後に大英帝国の権威が傾いた英国の斜陽を描いています。


 イシグロが描くのは、根っからの悪党ではない、ごく普通の人間です。むしろ善人であると言える人々が、戦時中のプロパガンダに踊らされた自らの行動を、老いてもなお悔やむことになる。それは、明日の自分をみているかのようで、そら恐ろしく感じられます。


 最後に、なぜイシグロ家の英国滞在が延び延びになって結局 permanent になったのかについて。

 一家が渡英した理由は、海洋学者だったイシグロの父が当時のイギリス政府から招聘されたからでした。なんだかすんごい学者さんだったんですねえ。でそのお父さん、日本よりイギリスの方が居心地がいいと判断し、それにお母さんも同意したのだそうです。「日本人って変だよねえ」と折に触れ二人仲良く年をとっても話していたそうで。

 その気持ち、なんとなくわかります。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る