第16回 検閲のルール

【「曾祖母は、誰かを不快にしてやろうと思っていたわけではありませんし、そうした表現を残す必要があるとも思いません。私の望みは、読者がアガサ・クリスティの物語を永遠に楽しめるようにすることだけです」】


 銃器が簡単には手に入らない国、こんな愚鈍で傲慢極まりない発言を憚らない人物が住む国から遠く離れた国に住んでいることに心より感謝します。人間、頭に血が上ると何をするかわからないのだから、引き金一つで人命を奪えるような武器は、できるだけ遠くにあるほうがいいと思います。


 ペンギンにはまだ出版社としての矜持があるが、クリスティーの曾孫はただ有名作家の家系に生まれただけの俗物なので、そんなものは持ち合わせていない、と。


 聖書の次に売れているという世界一のベストセラー作家(小説家としてはトップということです)アガサ・クリスティーの版権、つまり著作を守る者としての自覚が足りないとしか思えません。絶望。


 それでも、無力な一読者にできることをわたしは引き続きしていきます。つまり、Mirror Crack’d原文を読み進めながら、検閲の痕跡を探す。それには、もうすこし検閲修正の具体例があるといいですね。もしかしたら、Mirror Crack’dの修正箇所に言及した記事があるかも。


 こういうのはやっぱり、英語の記事の方が詳しいのではないでしょうか。最初にすっぱ抜いたのは英国の新聞なわけですし。翻訳でクリスティーを読む人々にこの検閲が波及するのはまだ先のことでしょう(一生波及しないことを切に願います。検閲に合わせた新訳など必要ありません)。


 ネット検索で、前回参照した日本語の記事より前の日付ですが、より詳細な具体例を含む英語の記事を発見しました。2023年3月27日付のINDEPENDENT紙で、タイトルからしてもう鋭利な刃物で胸を抉ってくるような:


Agatha Christie books, including Poirot and Miss Marple mysteries, to be rewritten for modern sensitivities

(参照先:https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/news/agatha-christie-novels-poirot-rewritten-b2308494.html)


ぐはあっ(胸にナイフの柄が突き立った状態で吐血)。ポワロとミス・マープルのファンの多くがこれを見ただけで憤死してもおかしくないでしょう。でも内容も確認しますよ、当然:


Christie’s Poirot and Miss Marple mysteries have undergone edits such that original passages have either been reworked or removed in new editions published by HarperCollins, as reported by The Telegraph.


According to the publication, these new editions were either already released in 2020 or are set to be released. Insiders have said these editions used the services of sensitivity readers.


出たよ、sensitivity readers。ダールの記事にもありましたね。こやつらが仕事してる感を出すためにどうでもいいような記述まで含め大量に手を加えた疑惑さえ浮かんできます。この胡散臭いsensitivity readersとやら。


 どの記事も元ネタはThe Telegraphなので内容は似通っているのですが、このINDEPENDENTの記事にはInsidersという言葉があります。


 えっ、内通者? 密告者かな? 具体的にどういう意味なのか非常に気になります。内部情報を提供したHarperCollinsの怒れる社員かな? 義憤に駆られた正義の告発者だったとしたら、いくら感謝してもしきれません。 


 Telegraph紙は先のPenguin/Puffinの記事もすっぱ抜いたと思われるのですが、それも内部(Insiders)からのタレコミがあったからでしょうか。それとも、秘密裏に行われていた――普通の読者はCopyrightページなど見ないでしょうし、Mirror Crack’dのそれに関していえば、「検閲修正」の事実には明確に触れられていません――検閲という唾棄すべき行為を独自で嗅ぎつけたTelegraph紙が、内部の人間を買収して情報を得た? 


 いずれにせよ、いい仕事してますね! 


 これぞジャーナリズムって感じ。でも残念ながら会員登録しないとTelegraphのオリジナル記事(2023年3月25日付)は読めないので、引き続きINDEPENDENT紙の後追い記事を見ていきましょう。

 より具体的な検閲修正の例:


The edits include amendments made to the inner monologue of characters such as Miss Jane Marple or Hercule Poirot.


あー、ミス・マープルの独白部分の修正って、わたしがMirror Crack’dの8ページ目で遭遇したのがまさしくそれでは……。ポワロ作品に対する修正ももちろん許せませんが、ここはミス・マープルものを重点的に見てみましょう:


In a new edition of the Miss Marple novel A Caribbean Mystery (1964), the narrator praises a West Indian hotel worker’s “lovely white teeth”. This has now been cut, along with similar references to “beautiful teeth”.


The same book also no longer describes a female character with “a torse of black marble such as a sculptor would have enjoyed”.


A passage in which a character fails to see a Black woman in the bushes at night has also been removed.


んー……やっぱり、黒人に気を使っているというよりは、黒人という記述をなくすことにより白人が南国の島民を使役して搾取する構図をぼかしているだけのように見えます。とにかく肌色が黒いことへの言及を避ける(美しく白い歯という褒め言葉以外の何でもない表現も、肌の色によって白さが際立っていることが示唆されるのがまずいという判断なのでしょう)って、長らく搾取してきた側の都合を優先させただけの話で、Politically Correctですらありません。


The Independent has contacted Agatha Christie Ltd, a company run by the writer’s great-grandson James Prichard understood to handle licensing for her literary and films rights, and HarperCollins for comment.


この記事(3月27日付)はクリスティーの曾孫が代表を務めるAgatha Christie LtdとHarperCollinsからのコメント待ち状態で終っています。そしてその待望のコメントが、日本語の記事(5月18日付)に掲載されていた曾孫会長による文学作品の価値やその存在意義というものを舐めくさったあれだったんですね。


 ふむ。


 検閲修正の件、Mirror Crack’dには言及していませんでしたが、だからといってsensitivity readersロクデナシどもがこの作品に手を出していないという証拠にはなりません。出版社もクリスティーの曾孫氏の会社も、2020年リリースの電子書籍に既に検閲修正を行っていたにもかかわらず、その事実を隠蔽、あるいは特に読者に知らせる必要はないのだという信じられない姿勢で最近まで積極的に語らずにきたのです。

 既に修正が施されているという2020年リリースの電子書籍だって、どの作品の、どの箇所を、どのように修正したのかを網羅したリストはありません。記事にされていないだけで、他にどんなおぞましい行為に手を染めているか、わかったものではない。


 だから、わたしが所有しているKindle版のMirrior Crack’dは、表紙デザインを一新しただけのVersion: 2022-05-04みたいな顔をしているけど、その実態は検閲修正版ではないかという疑いが拭えないのも、あの不誠実な連中ならそんなことをしていてもなんら不思議はないと思えるからです。彼等の倫理観は、極貧のチャーリー一家が啜っていたスープより薄そうですからね。


 ええい腹立たしい。さてどうしてくれよう。


 そうでした。疑惑が正しいかどうか確認するべく、Mirror Crack’dを読み進めながら、他にも検閲修正されたと思われる箇所がないか探したのでした。ただ、修正が単純に、不都合な語を削除する、一文まるごと削除する(この極悪人め!)というようなものだった場合、それを見抜くのはほぼ困難です。


 でもまあ、やってみました。


 読み進めながら気になる所をハイライトして(Kindle便利!)どんどん読み進め、既に読了しています。今読んでいる何割ぐらいがアガサ自身の言葉なのかなあ、9割5分? それとも8割以下? なんてことはできるだけ考えないようにしていれば、やっぱりアガサ・クリスティーを原語で読むというのは至福の時間でした。だから、なおさら許せないんですけどね!


 次回は、その結果を見ていくとしましょう。

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