第15回 ハーパーコリンズ、お前もか

 Penguinが自らの愚かさと過ちを認め大慌てで火消しを行ってから約一ヶ月後。さらにわたしを不幸のどん底に陥れるニュースがありました。最初に報じられたのは2023年3月25日のようですが、わたしがそれを知ったのは3月28日付のCNNニュース(日本語)の記事。確か、4月に入ってから、高名な日本人翻訳者がSNSで引用しているのが目に留まって。 

 記事の見出しは:


アガサ・クリスティーの探偵小説を改訂、不快な可能性のある表現削除

(参照先:https://www.cnn.co.jp/style/arts/35201796.html)


いやいやいやいやいや、ロアルド・ダールの一件で騒動になったばかりのこのタイミングでこの発表、ありえなくないですか?

 内容を見てみましょう(引用箇所は【】内です):


【英紙テレグラフによると、出版社のハーパー・コリンズはエルキュール・ポアロやミス・マープルが登場する一部の探偵ミステリーの新たなデジタル版で、一部の文章を編集したり完全に削除したりする対応を取った。】


ほう、元記事はまた英紙テレグラフなんですね。The Telegraph、あいつやるやつだぜ。「一部の探偵ミステリーの新たなデジタル版で……対応を取った。」とあるから、その「対応」が反映されるのは、これからリリースされる「新たなデジタル版」からってことですよね?


【対象となる書籍は1920年から76年(クリスティーの没年)にかけて出版されたもので】


いやそれクリスティーの創作期間をすべてカバーしてるじゃないですか。つまり対象は全作品てこと?

 具体的にどんな修正がされたのかというと:


【語り手の内的独白に変更が加えられているケースもある。例えば、デビュー作「スタイルズ荘の怪事件」でポアロが他の登場人物を「もちろんユダヤ人だ」と形容するくだりは、新版では削除されている。】


 ミス・マープルものに関する言及もあります:


【また短編集「Miss Marple's Final Cases and Two Other Stories(原題)」の改訂版では、全編にわたって「native」の単語が「local」に置き換えられているという。


使用人を「黒人」「にやりと笑った」と形容する一節も変更になり、新版では単に「うなずいた」と表現され、人種への言及はなくなっている。】


これらは修正の一部の例にすぎず、当然これ以外にもちょこちょこ変えられているのでしょう。最悪、ダールみたいに数百? ダールの場合は、児童書17冊分を併せて数百だったから、もしかしてアガサクリスティー作家生活56年分だと、とんでもない量になる? 悪夢です。


 でも最悪の悪夢はこの一節でしょうか:


【テレグラフ紙によれば、ハーパー・コリンズは2020年に新版の一部を発売しており、今後さらに多くの版が公開される予定。】


あああああああ! もうリリースされてるやつもある。隠蔽? 何しれっと3年も経ってから報告しているのか、ハーパー・コリンズめえええ!

 ダールの検閲版の騒動を知って、事前に読者に警告することもなくクリスティーの検閲版をリリースしていたことをヤバいと思って事後報告することにしたのでしょうか。それともこれは、ダールの件を一番最初に記事にした英紙テレグラフが、再度特ダネをすっぱ抜いたのでしょうか。


 いずれにせよ、ハーパー・コリンズ、お前は絶対に許さない。


 このニュースを知った4月時点、わたしはサルマン・ラシュディのJoseph Antonと格闘中でした。ラシュディ自身も聖人君子からは程遠く、自由を渇望するあまり、警護のMI5職員に反対されてもブックフェスへのサプライズ登場を強行したり、うんと年下の若い女性と交際を始めたり(女性は長らく警察の警護の対象外!)、他者の命を危険にさらすような行動をとることに腹が立って本(電子書籍ですが)を放り出し、でも、彼は想像を絶するストレスの中に置かれているのだし、何より騒動から20年も経過してからめった刺しにされるほどのことはしていないと思い直してまた本を手に取り、潜伏生活を支え彼と結婚、子を産んだ妻を裏切って浮気する件に呆れてまた本を放り出し……でも糞野郎だからといって命を狙われていい訳じゃない当時の奥さんに尻でも蹴られてたらいい気味だと思うけど(そんな記述はありません)、と本をまた手に取る、ということを繰り返していました。そういう自分自身についてのマイナス面も書いているということで、公平ではあるのですが。


 Joseph Antonを放棄している3月に入手して読んだのがミス・マープルの伝記The Life and Times of Miss Jane Marpleでした。これによってマープルものを読みたい熱が最高潮に達し、手始めに何を読むかも早々と決めたのですが、その前に、Joseph Antonに時間がかかり過ぎだと反省しました。既に7ヶ月は過ぎているのに、やっと半分地点で全然終わりが見えない。

 だから、自分に活を入れるためにも、これを読み終わらない限り次の英語の本は買わないと誓いを立てました。


 Kindle版の欠点は、大ボリュームの本だと、読書量を示す%がほとんど動かず、一生読み終わらないかのような不安な気持になることです。例えば紙で1000ページの本(KingのItはこのくらいです)があったとして、1%は10ページです。ものにもよりますが、洋書で10ページ読むのはなかなか大変です。入浴中の3、40分では毎日読み続けても、一日1%増えるかどうか。これはかなりきついです。


 しかし、ミス・マープル熱の後押しもあり、Joseph Antonの後半部分は割と早く読めました。前半部分に漂う鎮痛で緊迫した感じが薄れていきハリウッド・セレブとの交流のような軽薄な楽しさで盛り上がり、2001年の9月11日の急転直下を経て、彼のMemoirは2002年で幕を閉じます。


 Joseph Antonを読了し、次の英語の本、The Mirror Crack’d from Side to Sideの電子書籍版を、Amazonで入手したのが6月の終わりでした。

 本エッセイ『第10回 アガサ・クリスティー検閲疑惑を検証する②』に書いた通り、本を購入する際には、当然クリスティー作品の検閲のニュースのことが頭をよぎりました。

 Amazon.co.jpサイトの商品の登録情報を確認したところ、次のようになっていました:


出版社 ‏ : ‎ HarperCollins; Masterpiece Ed版 (2010/10/14)

発売日 ‏ : ‎ 2010/10/14


HarperCollins。不吉な名前です(この時点では、件のニュース記事はうろ覚えになっていました)。でも、2010年版てあるじゃないですか。あの日本語の記事によれば、注意しなければならないのは比較的最近の版、あるいはこれから発売される新しい版だったはずで、2010年版ならほぼ間違いなく大丈夫っしょ、と半ば自分に言い聞かせるようにして、購入ボタンを押しました。


 今となっては、Copyrightページを試し読みで確認しなかったのは迂闊としかいえません。


 そしてウキウキとMirror Crack’dを読み始めてわずか8ページ目に、どう考えても21世紀的にPolitical Correctnessに配慮しまくりの検閲修正が入ったとしか思えない表現にぶち当たって、ショックのあまり機能停止に陥り、Mirror Crack’dはもちろん、他の本さえ読むことができなくなってしまいました。これも『第10回』に書いた通りです。


 こんな裏切りってあるでしょうか。

 

 英語を一生懸命勉強すれば、アガサ・クリスティーを原書で読める、そう思って頑張ったのに。

 でも、ただ泣いていても仕方がないだろうと(泣いてませんけどね。泣きたい気持ちでしたが、泣いていません)。


 それで三日目に復活したわたしは、検閲修正の確たる証拠を押さえもしないで勝手に絶望しているとしたら馬鹿みたいだ、と考えました。真っ先にとった行動は、第10回に記したように、邦訳の該当箇所との比較でした。


 結果として疑いは強まりましたが、100%の確信には至りません。もっと確実な証拠が必要。


 とりあえずは、クリスティー作品の検閲修正に関するより詳しい情報がないか、他の記事を探してみること。もしかしたら、わたしがJoseph Antonと格闘している間に悔い改めたHarperCollinsがPenguinのような対応策を講じているかもしれません。その場合はすべて自分の勘違いだったということで、己の英語力の低さを呪えば済みます(この最悪の状況で一番マシと思える結末はこれでしょうか)。

 さらに、同時進行でMirror Crack’dの読書も再開しました。いったん読み始めたものを途中で放棄するというのは、あまりしたくありません。最後まで読んでみなければその本の良し悪しはわかりませんから。

 また、読み進めながら、他にも差別表現を修正したような痕跡があるかどうか確認することも目標にしました。


 一方、ネット検索では、上記の記事に加え、もう一つ日本語の記事が見つかりました。ニューヨーク・タイムズ2023年5月18日付です。これも会員にならないと全文は読めないのですが、無料で公開されている部分にも興味深い箇所がありました(参照先:https://courrier.jp/news/archives/326113/):


【「配慮」か「検閲」か

名作文学の「差別用語」はどこまで削除されるべきか? アガサ・クリスティ作品も修正しなければ絶版に…】


まずタイトルからして議論を促す感じでいいですね。内容も見てみましょう:


【「ミステリーの女王」と称されるアガサ・クリスティーの作品では、「東洋人(Oriental)」「ジプシー(Gypsy)」といった語句が削除され、イアン・フレミングの『007』シリーズの最新の改訂版では、人種や性に基づく差別表現が修正された。】


あれ、イアン・フレミングなんて新しいビッグ・ネームが出てきましたよ。いつの間に。ステルス検閲しすぎでは。でもスパイものは詳しくないのでこちらはスルーします(カーチェイスが長すぎるのでボンド映画も苦手です)。続きを見ましょう:


【出版から数十年が経過した小説にささやかな変更が加えられる例はこれまでにもあったが、あまり問題視されてこなかった。だが近年は、現代人が不快に思うような語句を画一的に削除する場合が多く、名作文学へのこうした修正が批判の対象になっている。】


「ささやか」だったらいいってもんでもないけどな。作家が生きている間に本人の承諾を得た変更なら別ですが。

 この記事で特に興味深いのは以下の部分でしょうか。クリスティーのの意見:


【クリスティの曾孫で、彼女の版権管理会社の会長でもあるジェームズ・プリチャードはこう語る。


「曾祖母は、誰かを不快にしてやろうと思っていたわけではありませんし、そうした表現を残す必要があるとも思いません。私の望みは、読者がアガサ・クリスティの物語を永遠に楽しめるようにすることだけです」】


あーあーあー偉大な曾祖母の遺産のお陰で悠々自適に暮らしていられる曾孫が何か言ってるぅ。「誰かを不快にしてやろうと思って」はいなかったっていうことには同意だけど、差別意識はあったはずですよ。たとえ無意識的にでも。だって、アガサは大英帝国スゲーっていう時代を経験してきた人だから。日本人だって第二次世界大戦で負けるまではアジア諸国を植民地にして大日本帝国スゲーって多くの者が思っていたのだから。アジアの劣った連中を優れた日本人が統治してやるんだとか本気で考えていた。膨大な権力を手に入れた人間は、そういう過ちに陥りやすいの。というより、そういう誤った考えを持つ人間が侵略戦争なんか起こすのだと考えるべきでしょうか。


 結局きれいごとを言っても、お金なんじゃないんですかね、曾孫氏が最も大事にしたいのは:


【人種差別的な語句が随所に見られるオリジナル作品を放置すれば、映画化などによって得られた新しい読者から敬遠され、原作者への評価や他の作品の価値が損なわれる恐れがある。


だが、テキストの改変はリスクを伴う。原作者の死後に本文に手を入れる行為は創作の自律性に対する冒涜であり、場合によっては検閲に等しいと批評家たちは警告する。】


このあと引用されるのが、我らが【文学の表現の自由を守ることを目的とした国際団体「PENアメリカ」のスザンヌ・ノッセル】氏です。日本語になるとなんか新鮮ですね。残念ながら、この先を読むには会員登録が必要です。でも十分興味深い記事でした。


 いやとんでもないことをのたまってますよ、曾孫会長。


 なんだかもう、批判を受けて慌てて非修正版ダールを出版することにしたペンギンさんは、過ちを犯したけど商売人としてはまっとうなのかな、と思えてきました。はい。



=====

悪の総本山 HarperCollins の日本語表記について。

HarperCollinsは、二つの会社が合併してできたもので、英名ではHarperとCollinsの間にスペースがなく、その日本法人のハーパーコリンズ・ジャパンのHPでは、中黒(・)を打たない「ハーパーコリンズ」が正式名のようです。

なので、この第15回のタイトル『第15回 アガサ・クリスティー検閲疑惑を検証する⑦:ハーパーコリンズ、お前もか』の「ハーパーコリンズ」は日本法人の表記に倣い中黒なし、本文中は引用した記事の表記に倣って中黒ありの「ハーパー・コリンズ」にしています。


翻訳をする場合、この種の固有名詞の確認を怠ってはいけないと思います。

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