第7回 ちょっと脱線:英国の古書店と文通を

 戦後のイギリスの様子を知るための第一級の資料、とわたしが勝手に呼んでいる本があります。お堅い研究書の類ではありません。とても読みやすくて、面白いノンフィクションです。ヘレーン・ハンフ『チャリング・クロス街84番地』、家にあるのは江藤淳訳、中公文庫の増補版です。積読の山から発掘しました。

 積読していたぐらいなので、この翻訳書は未読なのですが、原書はずいぶん前に図書館から借りて読んでおります。洋書のある図書館、ありがたいです。せっかくなので、久しぶりに図書館から借りて来ました原書:Helene Hanff, 84, Charing Cross Road。初版は1970年、手元にあるのは1990年出版のPenguin Books版ペーパーバック。


 タイトルはロンドンにあった古書店の住所。ロンドンでは、通りを挟んだ片側は奇数番号、反対側は偶数番号という具合に一戸一戸にドア番号が割り振られています。だからCharing Cross Roadと名付けられた通りストリートの偶数番号が並ぶ側にある84番の建物という意味で、「街」とか「番地」と訳すのは正確ではないのですが、日本人に馴染みのある住所システムが敢えて翻訳時に採用されたのでしょう。


 わたし、映画化された『チャーリング・クロス街84番地』(Charing のカタカナ表記の揺らぎいい!)のDVDも持っているのに、原書は持ってないんですよねえ。大好きな本なので、いずれ買わねば……。今回はちょっと横着して、翻訳書(自前・未読)をちゃちゃっと繰りながら、原書(借り物・既読)から該当箇所を抜き取ることにしましょう。まだまだ英語で読むより日本語の方が断然速いので。


 以下、映画の補足情報も含めながら本の説明をします。これ、主演がアンソニー・ホプキンズとアン・バンクロフトで、原作をまったく損なわず、原作超リスペクトで映像化に成功した稀有な例で、おすすめです。


 著者にしてこの本の主人公の一人であるヘレーン・ハンフは英文学を愛するアメリカ人女性。終戦(二度目のです)からまだ数年なのに、食料品店に行けば物が溢れていて非常に景気がよいことがニューヨーク在住の彼女の生活から窺えます。唯一彼女が欲しても米国では入手困難なもの、それが英文学の本でした。ないことはないけど、手ごろな値段のものがない。理由は、「今時英文学なんて誰も読まないから」。この辺からも、かつては世界の覇者としてブイブイ言わせていた大英帝国の凋落が窺えます。時代はもう、アメリカの天下なんですね。

 ある日、新聞にロンドンの古書店の広告を見つけた彼女、その住所にあてて、手紙をしたためます。この手紙の日付は1949年10月5日です:


Marks & Co.

84, Charing Cross Road

London, W.C. 2

England


Gentlemen:

  Your ad in the Saturday Review of Literature says that you specialize in out-of-print books. The phrase "antiquarian book sellers" scares me somewhat, as I equate "antique" with expensive. I am a poor writer with an antiquarian taste in books and all the things I want are impossible to get over here except in very expensive rare editions, or in Barnes & Noble's grimy, marked-up schoolboy copies.

  I enclose a list of my most pressing problems. If you have clean secondhand copies of any of the books on the list, for no more than $5.00 each, will you consider this a purchase order and send them to me?


 ここから、約20年にも及ぶ英米間の書簡の往復が始まります。当時はインターネットもスマホもありませんから、航空便・エアメールでの時間のかかるやりとりで、しかもこの文面が示すように、買いです。ヘレーンのほうでclean secondhand copiesと指示しているものの、実際に送付されてくる本のコンディションについては相手の判断に任せるしかなく、古書店側も、相手が代金を支払ってくれるのかどうか確信を持てないまま外国に商品を送付することになります。まあ、おおらかな時代だったのですね。


 ここで言っているcopies(copy)というのは、イコール「本」だと思ってください。当時はコピー機なんてありません。印刷・出版され書店で売られている一冊一冊がcopy、すなわち「本」です。彼女が求めているのは「状態のよい古書」で、違法に複製されたいかがわしいブツを送ってもらう手筈を整えているわけではありません。今でもこの表現、普通に使うと思います。例えば:


I must get a copy of 84, Charing Cross Road by Helene Hanff sooner or later, because I love it!


 おや、でもこれだと紙の本を手に入れようとしている感じがします。Kindle版があるので、原書を買うならそっちにしようかと……でもこれはとても薄いから紙でもいいか……ところで電子書籍の場合でもcopyでいいのだろうか……いいような気がしますが、ちょっと自信ないです。言葉というのは常に変化していくものなので。


 本題に戻ります。 


 英国の書店宛に欲しい本のリストを送って、在庫があれば米国に送ってもらう。次の手紙に代金を忍ばせつつ、次の本の注文をする。そんな本来事務的な手紙のやりとりのなか、彼女は突然驚きの行動に出ます。 

 1949年12月8日付、ヘレーンの手紙からの抜粋です:


  Now then. Brian told me you are all rationed to 2 ounces of meat per family per week and one egg per person per month and I am simply appalled. He has a catalogue from a British firm here which flies food from Denmark to his mother, so I am sending a small Christmas present to Marks & Co. I hope there will be enough to go round, he says the Charing Cross Road bookshops are "all quite small."


 Brianはヘレーンの友人でNY在住の英国人です。彼からイギリスの食料事情を聞いたヘレーン、彼が英国に暮らす母親宛に食料品を送っていることを知り、同じサービスを利用して、ロンドンの古書店の人々宛に食料の差し入れを始めます。別に頼まれた訳でもないのに、一方的に。古書店側はあくまでも英国的な礼儀正しい対応に徹してきたので、ひもじい思いをしているなどと顧客宛の手紙に書くわけがありませんから、ちょっとどうかと思うお節介振りなのですが、2 ounces of meat per family per weekの「オンス」という単位がぴんとこなくても、one egg per person per monthは確かにひどいと感じます。これは、食料品店に商品が溢れているNYに暮らすヘレーンとしては、同情したくなるのもわからなくもないですね。


 終戦から4年後、米国と同じく戦勝国のはずの英国、なんでこんなに貧しいんでしょう。食料は配給制で卵や肉など滅多に食卓に乗らないような状態ですから、ヘレーンから届いた食料品の小包は、古書店の人々に熱狂的に迎えられます。この辺は映画を観た方がわかりやすいです。大きな段ボール箱から缶詰が取り出されるたびに古書店の人々の顔に浮かぶ笑顔!

 同じ時期でも、セント・メアリ・ミードのような田舎なら、食料事情はここまで悪くなかったかもしれませんが、古書店Marks & Co.はロンドンの中心地にありました。

 Charing Cross Road はかつては古書店がずらり建ち並ぶことで知られていたそうで、ヘレーンの知人Brianはその評判を知っていてたのでしょう。神田の古本屋街みたいなものでしょうか。



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引用元:

Helene Hanff. 84, Charing Cross Road. 1970. Penguin Books 1990

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