第6回 古き良き時代の英国に思いをはせる

 粛々とMirror Crack’dの読書は続きます。7月16日現在73%(207ページ)。関係者への事情聴取を続けるChief-Inspector Craddock。Miss Marpleの助言に従い最有力と思われる容疑者にたどり着きますが……。

 暑くて長風呂がしにくいので、夜寝る前にも読むようになりました。先が気になるんですよね。ドラマを観たから犯人はわかっているのに。

 ドラマはしかし、大胆な翻案により犯人が原作とは違う、なんてこともあるわけで。だから、自分が思っている犯人とは違っている可能性もゼロではない、そんな期待も薄く抱きつつ読んでいます。


 推理小説の結末(犯人)をばらすのは重罪だと思うので、このエッセイでは、原作はもちろん、ドラマ版の結末にも触れません。できれば原作(原書でも翻訳書でも)やドラマに興味を持ってもらいたいですし、これから実際に読んだり鑑賞したりするかもしれない人の楽しみを奪うわけにはいきません。


 なので、なるべくストーリーの核心には触れず、かつ作品に関連した話題をば。


 小説の時代設定は、物語内に常に明確に年月日が提示されているわけではあませんが、1962年に出版されたMirror Crack’dの場合は、戦後が舞台であることははっきりしています。以下は、Chapter 1のはじまりに健康上の理由で自分では庭仕事ができなくなってしまったミス・マープルが新たに雇うことになった庭師の仕事っぷりを始め、物事が昔のようにはいかなくなったことへの不満を上げ連ねた後に続く彼女の心情の描写です:


You could blame the war (both the wars) or the younger generation, or women going out to work, or the atom bomb, or just the Government—but what one really meant was the simple fact that one was growing old. Miss Marple, who was a very sensible lady, knew that quite well.


 戦争や政府、女性の社会進出のような時代の移り変わりなんかに責任のすべてを押し付けるのではなく、自分自身が老いたということが根底にあるのだと自覚しているミス・マープル、さすがですね。

 先にわたしは不用意に「戦後」という言葉を使い、それは日本国が参加した戦争を一度も経験したことのない自分にとっては疑いようもなく第二次世界大戦の後、つまり1945年以降を差す言葉ですが、世界規模の戦争はこれまでに少なくとも二回あったことを、ミス・マープルの何気ない言葉(both the wars)で気付かされます。


 あっ。歴史の授業中に舟を漕いでいたような落ちこぼれだったわたしと違い、しっかり学んだ人からすれば「そんなことあたり前じゃないか」かもしれませんね。ええまあ、英語以外の授業も大体寝ていました。今では後悔していますが。


 ミス・マープルがThe Murder at the Vicarageで長編デビューを果たした1930年というのは、最初の世界規模の戦争が1918年に終わりを告げてから12年後、つまり「戦後」であり、そして1939年に二度目の大戦が始まる9年前の「戦前」でもあります。ドラマを観る限り、牧歌的雰囲気を漂わせるセント・メアリ・ミードから先の戦争の影は感じ取れません。でもそれは、戦後(二回目のことです)から何十年も経ってから生まれ、敗戦国としての貧しさを経験したことのない自分が鈍感だからかもしれません。

 19世紀後半生まれのミス・マープルは、確実に第一次世界大戦も経験しています。彼女の長年の友で以前は大きなお屋敷に住んでいたMrs. Bantryの夫はColonel Bantry、(元)軍人です。Mirror Crack’dではMrs. Bantryは未亡人、夫は数年前に亡くなっている設定ですが、第二次大戦中は存命だったはずです。


 Mirror Crack’dが第二次世界大戦後に設定されているといっても、1945年以降のいつなのかははっきりしません。ミス・マープルものは近未来を描くSFではありませんから、本の出版年1962年までの17年ほどの間のどこかであることは間違いありません。


 戦後のイギリスってどんなだったのでしょう?


 激しい空爆に晒されたロンドンのような大都市と、田舎のセント・メアリ・ミード(架空の村ですけどね)とではかなり事情が異なるでしょう。アガサ・クリスティーが自らの死をも覚悟して、遺作用にとSleeping Murderを戦時中にしたためたのは、当時クリスティーがロンドン在住だったから。空爆はもちろんロンドン以外の都市にも及びました。瓦礫の山と化した都市部を立て直すには相当の資材と時間が必要だったことは容易に想像できます。


 Mirror Crack’dの時代、のどかなセント・メアリ・ミードにも土地開発の波が押し寄せThe Developmentと呼ばれる新興住宅地に新しい住民が流入したり、昔ながらのお手伝いさん(メイド)を見つけることが困難になるなど、ミス・マープルに時代の流れを痛感させる出来事が多発しています:


How different it had been in the past ... Faithful Florence, for instance, that grenadier of a parlourmaid—and there had been Amy and Clara and Alice, those ‘nice little maids’—arriving from St Faith’s Orphanage, to be ‘trained’, and then going on to better-paid jobs elsewhere. [...] It was odd that nowadays it should be the educated girls who went in for all the domestic chores. Students from abroad, girls au pair, university students in the vacation, young married women like Cherry Baker, who lived in spurious Closes on new building developments.


 おっと、grenadier of a parlourmaidというのは、メイドの優秀さを兵士に例える表現でしょうか。和訳書でどのように訳されているのか気になります(でも和訳書を開くのはもう少し後にします)。どうやら、鈍感な自分に今まで見えていなかった戦争の影が、少し見えるようになってきたみたいです。

 以前は孤児院から派遣されてきた少女たちがミス・マープルの家で修業を積んでからさらに条件のよい(高賃金の)雇い主の元へと巣立っていったものなのに、今では家政婦になるのは教養ある女性たちである、と。

 メイドになる少女がいなくなったのは、決して孤児院で育つ子供たちの数が激減したからではないでしょう。第二次大戦後の世界なら、むしろその数は増えていそうなものなのに、親のない少女たち、Mirror Crack’dの時代では、一体どんな仕事についているのでしょうか。大量生産されるようになった食品の製造工場? そうかもしれません。スーパーマーケットができ、出来あいの食品が溢れていることを嘆く隣人の意見にミス・マープルも同意しているようです:


‘Packets of things one’s never even heard of,’ exclaimed Miss Hartnell. ‘All these great packets of breakfast cereal instead of cooking a child a proper breakfast of bacon and eggs. And you’re expected to take a basket yourself and go round looking for things—it takes a quarter of an hour sometimes to find all one wants—and usually made up in inconvenient sizes, too much or too little. And then a long queue waiting to pay as you go out. Most tiring. Of course it’s all very well for the people from the Development—’


 自分でカゴを持つことを嘆いて(you’re expected to take a basket yourself)いるのがちょっと面白いですね。少なくとも、かつては若いメイドの一人や二人雇っているのが当たり前だったブルジョワの老婦人たちは、食料品の買い出しなどはメイドに任せきりだったのでしょうか。それとも、お店(大型店ではなく個人経営の)に電話一本かけて注文すれば宅配してもらえた?

 しかし、これを見る限り食料品が不足しているような状況とは思えませんね。むしろ、安価なインスタント食品が溢れかえっているような。


 戦勝国だというのに、イギリスって戦後しばらくは食料品も配給制で汲々としていたはずなんですよね。その頃を描いた本が家にあったな、と思い出しました。たしか、積読の山のどこかに眠っているはずです。



=====

今回の原文引用はChapter 1の3~7ページからです。Chapter 1は老いを痛感するミス・マープルの心情が長々と語られる、ちょっともどかしさを感じる章ですが、世話役の目を盗んで一人で外出するChapter 2から一気に物語が動いていきます。

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