第3回 あれば便利なBackground Knowledge:カクヨムの片隅でミス・マープル愛を叫ぶ

 本エッセイのあらすじ欄に「実際に洋書を読み進めながら」と書いた割に、いまだMirror Crack’dの冒頭数行で停滞しておりますが、実際の読書は43%(Kindleでは全体量の何%を読んだかが表示されます)まで進み、これは紙の本(ペーパーバック)だと全291ページ中の119ページに相当。大女優宅でのパーティーの最中にゲストの一人が死亡、毒殺と判明、警部が屋敷の人々の事情聴取を始め、アシスタント、女優の主治医、女優の夫ときて次は秘書の番というところで、Chapter 11に突入します。


 この本を入手したのは6月30日なので、7月10日現在の読書期間は10日ほど、電子書籍はもっぱら入浴中に読み、洋書を読むスピードはあまり速くない自分としては、これはなかなかの進捗具合です。電子書籍用のデバイスに防水機能を搭載した方がいいと考えた人、読書家だったんでしょうねえ。どんなに長風呂しても本が波々(~)にならないって素晴らしい!


 アガサ・クリスティーは元々かなりリーダビリティが高い作家だと思います。つまり、さくさく読み進められる。21世紀になっても読み継がれている理由の一つがそれでしょう。翻訳書を読み漁っていた頃は、疲れすぎて頭が働かないような時に好んでクリスティーを読んでいました。


 頭が働かないなら本なんか読まなきゃいいじゃん、という考えは活字中毒者にはありません。


 今はもう四六時中本を読むほどの体力がなくなってしまっていますが、それでも本が読みたいのに集中できず苛々することはあって、そんな時に最適なのがクリスティーだと思っています。

 そうはいっても、ミス・マープルものは「地味すぎる」と長らく敬遠していたため、このMirror Crack’dは和訳書すら読んだことのない初読です。しかも、英語で読んでいるのに、ちょっとさくさく進みすぎじゃないか。読み始めた当初からそんな風に当惑しながらここまで来ました。前回述べたように、この作品の時代背景やミス・マープルの体調のことなど、即座になんでも理解できるような気がするのです。これはちょっと怖い……。


 もちろん、BBCドラマ版の「鏡は横にひび割れて」は何度か視聴していて、それがbackground knowledge(基礎知識)として働いているということはあると思いますが、ドラマは尺やら予算やらの制限があって、原作から変更されている部分も多いのです。


 たとえば、ドラマではミス・マープルの体の具合(といっても病気のためというよりは単純に老いたから、という理由である印象を受けます)を気遣う優しい甥が費用を負担して、世話役の女性が自宅に送り込まれているという説明が、ごく簡単に提供されます。それでも、初登場シーンでのミス・マープルは自慢の庭でガーデニングの真っ最中、切り取ったバラの花の香りを楽しんだりして、見た目はかなり元気そうです。

 しかし、原書では、Chapter 1の出だしで見たように、ミス・マープルはガーデニングを禁止され庭が荒れてしまっています。それからかなり長々と、それが健康上の理由による医師からの禁止命令であり、新たに雇い入れた庭師がちっとも彼女の要望に応えてくれないことなどが説明されます。得意の編み物で網目を飛ばしてしまったり、付き添いなしの外出が禁止されているのに一人で出かけて行って転倒してしまったりと、かなりよぼよぼした感じで、大丈夫なんだろうかと心配になるレベルです。


 そうそう、この世話役の女性に内緒で一人で出かけて行って転んでしまう、という原作の設定が、ドラマでは教会での活動を終えた後、帰宅途中で靴のヒールが取れてしまうという演出に変更されています。やはりめっちゃ元気なのでは? ドラマだと、ミス・マープルを心配する甥や世話人がただの心配性のお節介に見えてしまいますが、原作では、周囲の忠告をきかない頑固老人と化したミス・マープルにこちらがハラハラさせられてしまうのです。


 ああ、原作を読んでいるお陰で、脚本家や監督がどのようなアレンジを加えてドラマ化したのかチェックする楽しみも増えました!


 それはさておき。原書があまりにもするする読めることに違和感を覚えていたのでした。それで思い出しました。Mirror Crack’dに取り掛かる前に、ミス・マープルの伝記を読んでいたじゃないかと。


 Mirror Crack'dを入手する数ヶ月前、わたしはある古本屋さんのSNSで『ミス・マープルの愛すべき生涯』という本があることを知りました。ミス。マープルを敬愛するアン・ハートという著者によるミス・マープルの伝記、あるいはミス・マープル・ガイドブックとでも言うべき書籍です。装丁もいいですね(ミス・マープルと思しき表紙のご婦人がちょっと犯罪者ぽく見えなくもないですが)。


書影はこちらから↓

https://twitter.com/1ichinichi1/status/1641361172296515584

古本屋一日さんのツイートより


 アマゾンの動画配信サービス・プライムビデオでBBC版のドラマを観始めたのが数年前、すっかりマープル・ファンになっていたわたしは、この伝記をぜひとも読みたいと考えました。しかし、既に絶版のこの本、近所の図書館にはなく、古書の価格は、4千円を超えていました(送料別)。


 高い……


 でもきっと、すぐに売れてしまうのだろうなあと指をくわえてチラ見していたら、案の定、ほどなく「在庫なし(=売り切れ)」に。どのみち自分には手が出せない値段だったので、誰か他の人の手に渡ったと知ってホッとしました。泣いてません。いつまでも売れ残っていたら悲しいです。いくつかの古本販売サイトを調べてみましたが、値段が5千円未満というのはむしろ良心的価格だったようです。他の出品者のものは8千円近かったりして。


 4千円が出せない人間に8千円は無理でしょ……


 とはいえ、本が欲しくないわけではありません。めちゃくちゃ欲しいです。それで、翻訳書が高額ならば、原書はどうだ、と考えました。著者名から察するに原書は英語の可能性が高そうですからね。

 Amazonで検索したら、著者アン・ハートはAnne Hart、『ミス・マープルの愛すべき生涯』の原題はThe Life and Times of Miss Jane Marpleであると簡単に判明しました。1985年(38年前!)に出版された原書も絶版でしたが、こちらの古本は送料も含めて千円ほどで入手可能なことがわかりました。


 即買いです。

(書影は近況ノートでご覧いただけます:https://kakuyomu.jp/users/shunday_oa/news/16817330660126973507


 この本は、一週間もかからず読了しました。161ページの薄い本ですので楽ちんでした。ドラマで得た知識や、ドラマによってかきたてられたミス・マープルに対する興味がずいぶん後押ししてくれたと思います。いくら薄い本でも、数年前のミス・マープルに興味がなかった頃の自分なら読了するのに苦戦したかもしれません。


 小説の登場人物の「伝記」はどうやって書くのか。それはもうミス・マープルものの既存短編・長編すべてを丹念に読み込み、そこに書かれていること、地の文や各人物の台詞から得られる情報を抜き取ってつなぎ合わせるという、大変根気の要る仕事になります。愛ですね、愛。


 この本はミス・マープル愛に満ちている!


 エルキュール・ポワロの産みの親アガサ・クリスティーが生み出したもう一人の世界的に有名な名探偵ジェーン・マープルは、生年月日不明、それ故実年齢不明、経歴、家族構成なんかにも謎が多い、なかなかミステリアスな人物なんです。ただそれは、作者の意図でそうなったというよりは、特に重要だと思わなかったのでわざわざ描かなかっただけで、結果的にそうなったみたいです。


 ミス・マープルという人物、1930年出版の長編The Murder at the Vicarageでデビューを果たした時点でもう既に老婦人で、年齢は外見からの推定で65~70歳。その後何十年にもわたって合計12の長編と20の短編に登場することになるのですが、時代の移り変わりは作品内で感じられるものの、ミス。マープル自身はずっと65~70歳に留まっているみたいなんです。最後の長編Nemesis*の出版が1971年。つまり、伝記の著者Anne Hartによれば、ミス・マープルが最後のケースを解決した時点で彼女は:


[O]ne is forced to conclude that Miss Marple was still going strong, albeit tottery, at anywhere from the age of one hundred and six to one hundred and eleven.

(The Life and Times of Miss Jane Marple, 35頁)


 イギリス版サザエさん……?


 まあ、こんなに息の長いシリーズになるとは思っていなかったのでしょうね。なんでこんな老人設定にしてしまったのか、とクリスティー自身が愚痴っていたそうですが、あなたそれ、ポワロの時にも言ってましたよ!(ポワロも初登場時点で引退した元警察官、老人です)。



=====

*最後に「出版」されたのはSleeping Murder(1976年)ですが、クリスティーがこれを書いたのは第二次世界大戦中、自分が爆撃で命を落とした場合に出版されるようようにと書かれたそう。幸い生き延びたので、クリスティーの死後にミス・マープル最終の事件として発売されましたが、作品の時代設定は明らかに1930年代なので、Anne Hartによるミス・マープルの年齢試算ではNemesisが出版された1971年をミス・マープルのキャリアの最終年としています。

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