第4話 ぼんやりした子ども

 耕太郎の顔はのっぺりとしていて口数も少なかったから、傍から見れば、ただぼんやりしているようにしか見えない。


 かつて祖父が酒で赤らんだ顔を近づけて言った。


「耕はトロいなあ。」


 祖父は酒の肴に一つ孫をからかってやろうと思ったのだろう。しかし、当の耕太郎は何一つ答えるでもなく、もじもじしているだけだった。

 祖父はその三十年ほど昔、日中戦争のさなか大陸に出兵した元軍人で、煮え切らない孫の態度がどうにも気に入らなかった。


「やっぱりトロいな。」


 今度は呆れたようにつぶやいて、苦々しい顔でまた猪口を口に運んだ。そもそも耕太郎にしてみれば、言葉の意味が分からないのだから返答のしようがない。だが、あえて聞き返そうとしなかったのはそこに潜む悪意を敏感に感じ取っていたからだ。その底意地の悪い祖父の表情が瞼の裏から消えることはしばらくなかった。


 だが、祖父の指摘がまったく的外れだったとも言い難い。事実、右と左の区別がつくようになったのは、耕太郎が中学に上がってしばらく経ってからのことだった。

 小学校へ上がる前、


「お箸を持つ方が右で、お茶碗が左。」


 そう教えてくれたのは祖母だった。それほど重要なこととは思えなかったが、「ふーん」とその場は収まった。ところが、運の悪いことに近くに住む遊び仲間の一人が左利きだった。不服そうな顔でそのことを祖母に訴えたが、言葉が拙いものだからうまく伝わらない。祖母は祖母で、今度は


「鉛筆を持つ方が右で、ノートを押さえるのが左」と教えたが、何の解決にもならなかった。そんなやり取りを何回か繰り返すうちに、


(人それぞれちがうことなら、そんなものは覚える価値がない。)


 そう一人で決めつけてしまったのだ。



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