第39話


「うん。その通り。混乱してる」


 シーは、スマホをしまった手を額に当て目を伏せる。脈が速くなって来たのか、気を落ち着かせるように大きく息を吐いた。こいつでもやっぱり怖いものってあるんだなと、妙に落ち着きを覚える。このまま、帰ろうって言い出さないだろうか。


 シーは額から手を離すと表面上は毅然とした態度を取り戻し、上流方向を指す。


「有り得ない事が起きてるって事は、うぐいす旅館には何かあるのかもしれない。今日一日、何か起きると必ずその原因を匂わせる情報が現れた。軽音部の幽霊とか、おきつね様とか」


「つまりこのままじゃ、お前もとんでもない目に遭うかもしれないって分かった訳だ」


「それはユウも同じ」


 今度は俺が息を吐くと、シーの手から枝を取り、上流方向へ歩き出す。


「もしうぐいす旅館に着いて中を探索出来ても、俺が危ないって判断したら引きってでも帰るからな。旅館を見落とさないよう、辺りをよく見てろ」


「分かった」


 川に落ちないよう、枝で念入りに下生えを掻き分けて進んだ。頼りが地図アプリから懐中電灯の明かり一つになって、歩を進めるたびに、不安が入道雲のようにもくもく湧き立って来る。


 川に沿って歩けば迷わないというシーの考えは正しい。山中で迷子になった際の最適解だとも思う。そう分かっているのに、どんどん悪い方へ進んでいる気がしてならない。


 半年や一年そこらで変化するとは考えられない自然による地形が、地図上とは全く異なる姿をしているのは何故なんだろう。そもそも有名な心霊スポットならそれなりに人が踏み入った痕跡があって当然だろうに、どうしてここまで何も見つからないんだろう。つまり地図アプリはもっと前から、おかしな経路を俺達に示していたんだろうか。何の為に。一体誰が。いやそもそも、完璧なツールなんて無い。単なるバグだろう。それ以外に現実味のある説明は無い。ここで考える事を止めないと、足が竦んで動かなくなる気がする。


 あのコンビニでの受け入れ難い出来事が、勝手に想起されて瞼に焼き付く。


 散々雑草や木々に阻まれながらのろのろ歩いてるのに、心臓の鼓動が加速して来る。


 無数に立ち尽くし行く手を阻んで来る木々の影から、誰かがこちらを覗いているような気がして来た。


「ユウ! ユウ! どこ行くの!」


 シーにシャツの裾を掴まれ、驚いて立ち止まった。振り返ると、困惑したシーが俺を見上げている。


「何だ? どうした?」


 シーは信じられないと言わんばかりに目を見開いた。


「何って。聞こえなかったの? さっきから何回も呼んでる。あっちに建物がある」


 シーは懐中電灯を自身の背後へ向ける。照らされるままにそちらを見ると、木々の隙間から、鋭い傾斜に食い込むように高い脚で支えられる建物が覗いていた。かなり前に通り過ぎてしまっていたらしく姿は小さく見えるのに、うに打ち捨てられた気配を濃く漂わせていた。


 ……あんなものあったか? 見落としただけ? 注意して枝で道を切り開きながら、懐中電灯で周囲も照らしてのに。シーだって今までずっと黙っていた筈だ。事前に地図アプリで経路を調べた際も、この山にうぐいす旅館以外の建物は表示されていない。他の宿は撤退して、唯一残っているのがうぐいす旅館なんだから。


 だがシーは本当に戸惑っているし、絶句している俺に尋ねる。


「……本当に気付いてなかった? あの建物だって通り過ぎる前から気付いてて、ずっと呼びかけてたんだけれど」


「い、いや、悪い。聞こえてなかった……」


 額に汗を滲ませているシーは口を結ぶと、暫く考えるように黙ってから言った。


「帰ってる? まだそんなに駅から離れてないし、今から引き返せばすぐ橋の下に出られると思う」


「馬鹿。こんな所に女を一人で置いてく男があるか」


「でも、顔色が悪い。私真後ろにいたのに、何回呼んでも全然気付いてなかったし」


「平気だって。ちょっとボーっとしてただけだよ」


「こんなに気味の悪い場所を歩いてるのに?」


 的確でしか無い問いに何も言えなくなり、つい語気を強めて言い返してしまった後ろめたさが肥大する。そうだ。この山はおかしい。そうさっきまで頭の中でぐるぐる考えてたのに。


 俺もおかしくなるんだろうか。守谷や足立、井ノ元達のように。



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