第38話


 道を間違えただろうか? 道も何もそんなものは最初から無かったし、まだ地図アプリは前進しろと指示して来る。林に入った所為か、虫の声がどんどん大きくなって来た。


 焦りが身振りに出ていたのだろうか、シーが俺の考えを見透かしたように言う。


「夏だから植物が成長して、道が見えなくなってるのかもしれない」


「成る程な。確かにこうも草ボーボーじゃあ、一週間前に井ノ元達が踏みならした痕跡も無いってもん」


 「だ」と言おうとして、踏み出したばかりの右足から地面の感覚が消えた。途端シーが息を呑んだのが聞こえて、落下を始めたばかりの俺を縫い留めるように腕を掴んで後ろへ踏ん張る。俺も慌てて身体を後ろへ引っ込めていて、バランスを失い派手に尻餅を着いた。


「いって!?」


 俺に巻き込まれまいと後退していたシーは、咄嗟に身を乗り出し懐中電灯で前を照らす。円形の光に切り取られた闇は下生えしか示さない。シーは俺から枝を取ると、下生えを掻き分けてみた。数歩先、丁度ちょうど俺がバランスを崩した辺りで地面が抉られたように消え、はっきりとした水流の音が聞こえて来る。俺も周囲を照らしてみると、水流がきらきらと光を反射した。


「川だ」


「川岸にぶつかったから、地面がなくなったんだね。虫の声が大きいから、川に近付いてるって気付けなかった」


 シーは原因が分かって安心したように言うと、懐中電灯を握る手へ枝を渡し、空いた手を俺へ差し出す。


 俺はシーの手を掴むと立ち上がった。


「そんな事書いてなかったけどな。道間違えたか?」


 ズボンのポケットからスマホを取り出し確認するも、現在地付近に川は流れていない。地図上ではもっと進んだ先にあるし、うぐいす旅館もその川を渡った先にある。ただ山を示す緑一色の風景に、俺の現在地を示すピンがぽつりと立っているだけだ。


 シーも自身のスマホで確認してみる。


「んっ、電波消えた」


「えっ?」


「何か急に」


 シーはスマホを俺へ向けた。画面には俺と同じ会社の地図アプリが立ち上げられていて、検索ボックスには俺と同じくうぐいす旅館と入力している。だが画面上端を見ると電波がゼロになっており、アプリもグルっている。スワイプしてリロードさせてみたが、改善しない所か画面が真っ白になって固まった。


「あれ? 道路から離れる直前まで普通に動いてたよな?」


 自分のスマホを見てみる。


 シーはスマホを引っ込めて近付いて来ると、俺のスマホを覗き込もうと爪先立ちになった。


「うん。ユウのスマホは? 動く?」


「動いてるよ。俺の方が旧型なんだけどな……」


 返事をしてから改めてスマホを見ると、画面が真っ暗になっている。


「ん?」


 スリープにしてしまっただろうか? サイドボタンを押してみる。画面は点いたが電波が消えていた。地図アプリもグルって動かない。


 山に入れば電波なんて届かなくなるものだ。だが突然ぱったりと途切れると言うより、徐々に電波状況を示すアイコンがグレーに消灯していくのが普通だろう。まるで機内モードにしたみたいに、前触れも無く切れるなんて見た事無い。


 背中にじっとりと汗が滲んだ。川岸にいるので暑さは感じていない。


 シーも俺と同じ異様さを感じ取ったようで、互いのグルッたスマホを見て固まる。俺達の沈黙に、川の音すら掻き消していた虫の声が際立った。


 みっちりと立ち尽くしている木々や雑草が、じっと俺達を見下ろしている。風が吹いていないから、背の高い群衆に取り囲まれているような気分になった。


 喉が急速に渇いて来る。いや、駅から歩き出した時点で、もう渇いていただろうか。


「……地図も無しに山ん中歩く気か?」


 尋ねた声が掠れていた。


 シーはすぐには答えない。じっと考え込む顔で口を結んでいる。数秒そのままでいると、おもむろに答えた。


「確かうぐいす旅館の側には、川が流れてた。川沿いに歩いて行けばその内着くだろうし、帰りも川に沿って行けば迷わない。駅からここに歩いて来るまで、一本橋を渡って来たでしょ? あそこの真下に出る筈」


 何でそう冷静でいられるんだか。


 俺は恐怖心を抑え、肩を竦めておどけた。


「急に電波が切れる以前に、地図には無い川が流れてたのはどう思う? この地図アプリの情報って一年とか半年ごとに更新されるらしいし、そもそも川とか自然による地形って、そんな短期間で変わるとは思えねえが」



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