Episode05:スノウフレーク

 柔らかで瑞々しい白肌の感触。初めての痛みを、感慨で塗り替える紅眼ロゼリアの融けるような淡い輝き。

 じわりと這い上る背徳、ユーリィはそれがかつて雨花ユィホァが感じていたもののひとつであることを改めて理解した。年若い相手を性愛に陥れるという罪悪。男であれ女であれ、そこに相違はなかったはずだとユーリィは思う。最後までやり通せたことでシュエを傷つけることがなかったのが救いだと自身に言い聞かせた。

 最中の彼女はとても幸福そうに身体の下で初めての意識に夢中に見えた。

 この記憶が彼女にとって一縷の希望にならなければいい。どうかそれ以上の幸いが彼女を導いてくれるように、ユーリィは強く、願ってその赤毛の旋毛へ唇を落とした。



 再び独りきりになった部屋は予想以上に寒々と、広く見える。約束の日、グリモワで待つ紫蓮ヅィリェンの元へトランクひとつ増えた雪の荷物を手に彼女を連れ、別れはあっさりと過ぎた。

 ユーリィは仕事でくたびれた身体を寝台へ投げ、何も考えずに目を閉ざした。

 浅い眠りの中で、艶やかな黒髪が肌を滑り百合と木蓮の合わさった懐かしい匂いの夢を見る。目覚めた時、ユーリィの瞳からはひと筋の涙が頬を伝っていた。


「……紫蓮のやつ」


 人肌の恋しさ、その温かさ。心にだれかを住まわせることの心地良さ、裏腹の喪失の恐ろしさ。すべてを紫蓮が思い出させてくれた。

 忌々しさに眉を寄せて、気分直しの紅茶を自分で淹れた。

 もう、淹れてくれるだれかは側にいない。

 雨花を喪ってもう何者も自分を心の内へは入れないし、その必要性もないのだと高を括っていた。雪を手放すその瞬間までそのことに微塵も疑問はなく、自身を揺さぶるものはないのだと感じていたはずだった。

 ユーリィは気付けば深いため息を吐き出していた。

 たかが少女のひとり、その考えすらも見透かされていたのは間違いないだろう。

 おしゃべりのいない部屋は静けさで満ち、それは日を重ねるにつれて増して強く感じられるようになる。

 より一層労働に重きを置いてパスピエやリジィ、他者と接していられる時間を大切にした。人と接している時間は無用な考えごとも、人恋しさも忘れていられる。

 そうして仕事を終えた足で家路を通り過ぎて南下し、ユーリィは紅眼の街へ足を運んだ。

 通称、【薔薇庭ローズガーデン】と呼ばれるそこは水蓮市の中でも比較的安価な紅眼の色街でローカルな観光地である。

 ユーリィ自身も学生同士で童貞を捨てに教師の目を盗んで訪れた、懐かしい場所でもあった。

 しかしそれも十年近く昔の話、久々に訪れた【薔薇庭】はユーリィの視点が変わったためか、それだけでないのか当時より色褪せて見えた。

 怪しいネオンは健在するも、紅眼を纏う男で溢れていた当時からすれば寂れ、老舗を除いては紅眼をキャストに扱うラウンジが殆どに変わっているようだった。

 色を目当てにすることに少し気が引けていたユーリィにとっては好都合である。適当な店を日毎に渡り歩き、たくさんの紅眼と出逢い、とりとめもない会話で時間を費やし寝に帰る日々が続いた。

 ある日紫蓮がいつものように訪れた夜、彼は天板の上に見覚えのある物を置き、ユーリィへ差し出した。

 小鈴をあしらった銀のブレスレット。

 ハッとして顔を上げたユーリィに、紫蓮が小さく笑う。


「出先に他所の飼い主の首輪を付けてはやれんだろう。……なにより、これは雨花の遺品で君の大事な形見じゃないか」

「……そうだな」


 うっかりしていた、零しながら伸ばした指が少し震えた。雪がどんな様子でこれを紫蓮へ渡したのか、はたまた奪われたのかを考えてしまう。


「雪はどうしてる、元気にしているのか?」

「息災だよ。主に教育係を付けていた話は通してある、雨花のように文を寄越す日もくるだろうさ」


 なにかにつけて、紫蓮が雨花の名を出すのが気に掛かっていた。見るに、雨花と年頃は近く見える。ユーリィを揶揄うためも多分にあるだろうが、それだけとも思えなかった。

 いつものように同じ酒を出し、彼が紫煙を燻らせ始めた頃に、意を決してユーリィは口を開いた。


「雨花とは生前からの付き合いなのか?」

「俺が親父の妓楼を継いだのが二十七の時だ。今から十年も前の話さ、雨花はとうに妓楼を去っていた。けれど、以前も話した通り、折々に手紙を送って来るからどういう女なのかは知ってる」


 紫蓮はようやく来たか、という態で言葉を返した。雨花について訊ねられること、話せることを嬉々として隠さない。


「懺悔のような手紙だったよ。自分は妓楼へも家主にも恩義を尽くせず、どうしてこんなことをしているのか、と。……葬儀で初めて目にしたけどあれはいい女だったな。アラン・ウリンソンも惜しい人を亡くしたとぼやいていたよ。どうして来なかった?」


 アラン・ウリンソン。紛れもない実父であるのに、やはりユーリィにとってはその名前も存在も受け入れ難い物のままでいる。

 精神憔悴状態で病院にいたというのが紫蓮の問いに対する事実であるが、この男がそういうことを訊ねているのでないことは分かる。

 

「残されたものが、それを受け入れるための儀式だろあれは。……今だってまだ、俺は受け入れられないままだ。それに、俺にその資格があるとも思えない」


 手元のブレスレットの銀を撫で、ユーリィは視線を落としたまま呟いた。

 そう、その死を受け入れたくないのだ。あの日、腕の中で既に冷え切っていた雨花の身体も、すべては自分が見た悪い夢なのだと思いたい。心が頑なに拒んでいた。

 紫蓮は沈黙を守り、それ以上何かを言葉にはしなかった。ユーリィは彼が雨花に繋がる何かを伝えてくれるのではと淡い期待を抱いていたが、とうとうそんなことはなかった。




 紫蓮の言う通り、雪からの手紙が届いたのは翌年のことだ。実子のように可愛がられて毎日を過ごしていること、新しい兄ができたこと。文面からは健やかな幸福を感じられる。紅茶を片手にそれらを読み終えたユーリィは、窓の外緩やかに舞うような花雪ホァシュエを見て小さく息を吐く。

 本当のことは雪にしか分からない。

 綴られた幸福が長く続くことを、確かに存在しているのだということを信じるより他ない。

 そこでより一層雨花の、彼女の懺悔の深さを痛感せざるを得ない。

 やり切れない思いは、深雪のように降り積もって行くばかりだった。

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