Episode06:ミルキィウェイ

 時は経ち、シュエと離れて十年。グリモワで得た収入と雪の養育費に支払われた資金を元にユーリィは水蓮市を離れることを決意した。

 ヘリオトロオプの玄関街・グラーンの北端、ダウンタウンに店を構えたのだ。

 中央広場から伸びるテルミヤの河の並びにある煉瓦ビルの地下。ミルキィウェイと出した看板はガス灯に照らされる。

 【薔薇庭ローズガーデン】で様々な紅眼ロゼリアと交流を持ったユーリィはひとつの目標を新たにした。

 水蓮市外では適応されない紅眼の安全を買える店を構えるということ。そこへ至るに苦労は避けられなかったが、パスピエや紫蓮がそれを支援した。

 ダウンタウンを選んだ理由は水蓮市外であることも大きいが、【薔薇庭】で働く紅眼たちの多くがここに住んでいたからだった。

 必然的に、顔の利くようになったユーリィの店は紅眼たちが集まるようになる。

 店には娼館やラウンジで働く紅眼たちを初め、無所属で売春をする紅眼、そしてそれを買う男達で賑わいを見せた。

 無論、トラブルは付きもので客を放り出すに至ることも少なくはない。


「そんな端金であたし達買おうなんていい度胸してンじゃないのさ。一昨日来なよ」

「でけえ面しやがって、紅眼風情が!」

「吠え面掻いてんじゃないよ帰ンな!」


 ……もっとも、放り出すのは決まって紅眼の姉御肌だった。

 男を階段へ続く廊下へ蹴り出した彼女は、ふんと鼻を鳴らしてカウンターへ戻って来る。うねりの強い鳶色の髪にどんぐり眼の大きな強い芯を宿らせた双眸。ミルキィウェイ開店以来の常連である。


「……タチヤナ、お前夜道には気をつけた方がいいんじゃないか」

「なにさ、あんたがちゃんと客を捌いてくれないからあたしがやってるんでしょ。そうじゃなくても、フリーで働いてる紅眼の単価が値切られてンのよ最近は」


 タチヤナ・ナフカ。ユーリィが紅名を名乗らない紅眼を見るのはこれが初めてだった。紅名を名乗らないのは妓楼や娼館に属さないフリーの紅眼にはよくあることだと知ったのも彼女と出逢ってからである。


「俺が間に入るより先に、いつもお前が手を出すんだろ。俺にとっちゃどっちも客なんだからもう少し穏便に済ませたいんだよ」

「あんな男が常連になっちゃ困るからよ」


 ユーリィが諭してもタチヤナは姿勢を崩さない。しれっとグリューワインのマグを手にして涼しい顔だ。

 タチヤナがいつもこの調子で振舞うおかげで、紅眼たちは彼女を姐さんと呼び慕い、男たちもそれに倣うようになっていた。

 常連が幅を利かせているのは芳しいと言い難いが、それゆえに守られている健全さがあるのも事実で、ユーリィは今のところ見守る姿勢を持つしかなかった。

壁時計を一瞥して、じきに仕入れ先の配達がやってくる時間だと気づいたユーリィはミルクを鍋に入れて温め始めた。

 酒と煙草を始めとした仕入れは大広場沿いのグッズマーケットに頼っている。新規にも寛大に馬での配達もしてくれる良心的な店だった。

 程なく、時間通りに地下へ続く階段を下りる靴音が聴こえてくる。鼻頭を寒さに紅くした下がり眉の少年がマフラーに顔を埋めたまま顔を覗かせた。


「時間通りだな、イリス」

「お待ちどうさま、毎度どうも」


 ユーリィはすぐに上がる、と顎で指して温まった鍋の火を止め、イリスの背を追って地下を上がる。階段脇の倉庫へ頼んでいた酒樽と酒瓶、煙草の箱をふたりで詰めた。


「配達はいつも通りうちが最後なんだろ? 少しだけ飲んで行けよ」

「オレ、下戸だから」

「……そうだったか?」


 イリスは背丈だけならユーリィにも並ぶほどの上背であるが、十九歳と年若い。知っていてカマを掛けたものの、のんびりと温厚で真面目気質の彼には通じないのが物足りない。


「ホットミルクならいいだろ。紅眼にも顔を売っておいて悪いことはないと思うぜ」

「ウーン、まあ少しぐらいならいいけれど」

「奢ってやるから少しだけ付き合えよ」


 言うなり、イリスの首を抱き込んで縺れるように階段を下りたユーリィはカウンター席のひとつへ彼を座らせる。

 イリスはユーリィにとっては純真無垢な新しい玩具だった。酸いも甘いも知らないその姿が、ユーリィにとっては羨望の対象でもあり、また嫉妬を掻き立てる存在でもあってつい意地の悪いことを試したくなるのである。

 毎度の配達で店には何度も足を運んでいる割には緊張した面持ちで、イリスは席で小さくなりながらマフラーを外している。

 その前に湯気の立つ温かいミルクのマグを置く。


「この童貞チェリーボーイを可愛がってみたいやつはいるか?」


 ユーリィが店内を見回して声を上げると、なあになあに、と紅眼たちが集まって来る。イリスをあっと言う間に囲んで彼の頭を撫でたり頬を突いたりと好き放題始め、イリスは半分涙目になりながらユーリィに助けを求めるように視線を向けた。


「好きな女を選んでいいぜ、必要ならVIPルームも貸してやる」

「かぁわいい、顔真っ赤よ」

「おっさん共とは訳が違うわァ」

「……じょ、冗談でしょう、オレ困るよ…」

「姐さんは? 姐さんもイイと思わない?」


 やいのやいのと女達の喧噪に巻き込まれたイリスは視線を右往左往させてしどろもどろしている。そんな様子が楽しくて仕方がないとにんまりしているユーリィを、どうしようもない男を見る目で見据えているのがタチヤナだった。女達に加わろうという気配は見せない。


「アンタって、ホント性悪。自分だって同じようにチェリーしてたことがあるくせにさ」

「俺のチェリー話が聞きたいのか?」

「興味ないわよ。……その口振りじゃ、語るようなロマンの欠片もないんでしょ」

「女程初めてにこだわりもないんでね」


 やっぱり、とタチヤナの目が細くなる。

 ユーリィは笑って視線をイリスへ戻した。蜂蜜酒入りのホットミルクを緊張からかハイペースで飲み干したらしく、顔を真っ赤にしたまま頭をふら付かせている。

 ヘリオトロオプの成人は十八、違法には当たらない。ちょっとした悪戯だった。


「盛ったらろ」

「タダで出されるものに警戒しないお前の落ち度だよ、イーリスゥ。馬は歩いて引けよ」

「……覚えれろ」


 大した量は混ぜていない、と言えどそれはアルコオルに強いユーリィの言である。耐性がそれだけないのであろう、イリスはぐらつく身体を紅眼に支えられながら席を立ち、そのまま優しい女が彼と一緒に店を後にする。

 イリスが店を後にすると紅眼達は再び思い思いに散り、店は再びいつも通りになった。

 タチヤナも静かに酒を嗜みながら客の男と商談を進めている。

 そう、なんら変わりのない平穏な夜だった。

 店の灯を落としてユーリィが上がろうとする、それまでは。 

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