Episode03:やわらかな蕾*

 ユーリィは、雨花ユイホァを喪ってすぐの頃は飲めもしない酒を浴びるように空けて気を失うことを繰り返していた。以来、店に立つようになってからは逆に口にすることを避けていた。

 それぐらい久し振りの酒を口にした。

 通りのグッズマーケットで昼のうちに買ったものを、仕事を終え店を出たところで開けた。美味いとは微塵も感じないまま、半ばまで減らしてから帰宅する。

 居間にシュエの姿はなく、いつも通り既に床に入っているのが分かる。酒瓶をテーブルへ置いて、一度だけ深く呼吸した。早いか遅いかの違いだ、と言った紫蓮ヅィリェンの言葉も間違いではないとユーリィは自分に言い聞かせた。

 寝室の扉を開けても、雪が起きる気配はない。

 朝と打って変わる状況に罪悪感がないと言えば嘘だったが、もう後戻りはしないと決めていた。

 襟詰めの服を脱いで、シーツの中へ身体を滑り込ませる。うずくまるように背を向けた小さな体躯を引き寄せてその髪を優しく払い、首筋へ唇を落とした。

 気付いた雪がユーリィの方へ寝返りを打つ。


「……おかえりなさい」


 ただいまの代わりに、ユーリィはその唇をゆっくりと塞ぐ。反応を確かめるように緩慢に動いたが、雪が拒まずに首へ腕を回すのを見て躊躇うのを止めた。

 まだ膨らみも小さく、華奢なばかりの身体をなぞるように触れて抱く感想は自然と雨花との比較になってしまう。熟れた花のように艶やかだったその身体に比べれば、あまりに幼く色香のないそれはユーリィに罪悪感を感じるなという方が難しい。

 アルコオルに任せた衝動も、都合良くは働かない。いくら触れても本当の意味では熱を持たない身体に、皮肉な笑みを浮かべた。

 探り探りの雪を誘導して、熱を口に含ませてユーリィは目を閉ざし、雨花を抱いた感覚へ意識を移そうと試みていた。

 背徳と裏腹に持て余した女性おんなさがに揺らめいた百合の香の女、その人を。

 ユーリィには幸福な記憶だったはずが、気がつけば刀身は再びと沈黙して、それきり持ち直すことはなかった。雪が不安気な紅眼を持ち上げるのに対し、力なく笑うしかない。


「お前のせいじゃない」


 彼女の気まずさは己の気まずさでもある。ユーリィは再び雪を寝台へ組み伏せて、慰めるようにキスを降らせた。

 最後に触れた、雨花の凍るように冷たい身体が幸福な記憶を切り裂いて行く。

 ユーリィにとって幸福と言えたその記憶が、雨花にとってそうであったとは言い難い。ユーリィは年々、そう感じられるようになっていた。

 時間が経てば経つほどに思いは鮮明になる。

 彼女を死に追いやったのは自分なのだと。

 しょんぼりと眉を下げる雪を腕の中へ抱き込んで、逃避するようにその温かさに意識を投げた。

 雪の経験のためとそれから何度か同じように試したが、気持ちのいい結果には繋がらなかった。その度に雪は肩を落とす。

 ユーリィはアプローチを変えることにした。まず、雪には手を使うことを禁じる。明確に拘束するような真似はせずに、自分の理性で耐えるように仕向け、身体の敏感な箇所の刺激に意識を集中させるように促した。

 新雪さながら触れられることにすら慣れていない雪にその方法は有効的だった。

 肌を舐り、肉に沈む手指の感覚に初めこそ恐々としていた花が蜜を零すようになるまでそんなに時間は掛からなかった。

 ユーリィ自身も花が熟れるように雪の表情が女を湛える様子を楽しむ余裕が生まれていた。雪という女性おんなさがに、本当の意味で関心を持てるようになって行った。

 夜毎、ユーリィが雪の首筋へ口付けを落とすのを合図に儀式は始まった。じっくりと時間を掛け、肌が指を滑る、ただそれだけにも身を震わせるまでに育て上げる。

 後ろ手にシーツを力一杯握り締めて眉を寄せる紅眼ロゼリアは、いつか見たように艶やかな色を帯びて燐光するようになる。

 紅眼は強い感情、特に色欲に対して反応してその虹彩を変える。ユーリィはそれを目の当たりにすることが好きだった。

 渇いた唇を舐めたところで、自分の体の変化に気づく。久しい熱の昂ぶり。唇の端で微笑って、雪の中から指を引き抜いた。

 その日、ユーリィは久方振りに他人を使って精を吐き出した。

 口腔の白濁をゆっくりと飲み下した雪は、嬉しそうに目を細めて微笑う。その赤毛を撫でてやると名残惜しそうに落ち着いた熱に舌を這わせる姿に、ユーリィはようやく務めを終えられた気分だった。




 契約の満期までひと月を切った。

 その頃になると雪は盛んにユーリィに本番を強請る素振りを見せるようになっていたが、ユーリィがそれに応えることはなかった。


「色惚けさせすぎたかも知れない」

「……そらご覧、俺の目論通りだろう」

「仕方ないだろ。パスピエまで買収されてちゃ真面目に仕事にするしかなかっただけだ」


 愚痴を零すこと自体少なからず気に食わなかったが、紫蓮を前に契約分の仕事をしていることを示したくもあった。

 楽しそうにグラスを掲げた紫蓮はブランデーを煽る。


「熟れ育った雪に会うのが楽しみだ。実は初めから買い手が付いていてね、妓楼に出す前に西水蓮の屋敷へ送り出すことになる」


 初めての事実にユーリィは思わず手を止めた。それはあまりに淡々とした口振りで、情報を嚙み砕くのに時間が掛かった。ポンと初めに出された着手金や月賦の裏付けとなる話だ。


「羽振りのよさはそのせいか。喜んでいい話なんだろうな、それは」

「不特定多数を相手に媚びを売る生活を思えば、幸福だろうさ。花の盛りは有限だ、妓楼で骨を埋める花も少なくはない」

「あんな子どもを初めから身請けるような金持ち、鼻持ちならない性悪だったりするんじゃないのか。趣味が悪過ぎる」

「需要があったのは事実さ。すっかり情が移っているな。……ここからは俺の独り言だ、聞き流してくれていい。初めての相手は好いた人にしてやるのが義理ってものだよ」

「……言ってろ」


 価値を下げるから本番は避けるように、とは契約文書の限りである。一度ぐらいのそれはわかりやしないとばかり、紫蓮はさらりと零してそれ以上口を開かず、上機嫌に酒を楽しんだ。

 ユーリィは複雑な心境だった。

 すっかりいつの間にか、雪は妓楼で成人になるまで育つのだと思い込んでいた。雨花がいつか話したように、先輩女娼に付き、そこの上客に身請けられて幸福になるのだろうと理想を思い描いていたのだ。

 少なくとも、そういう夢を抱いて毎日を過ごすのだと信じて疑わなかっただけに、この事実は残酷で厳しかった。

 雪がその事実を知っているのかどうかを確かめる勇気はない。しかし、紫蓮のそそのかしとも取れる独り言と、雪の最近の態度を前に決断を迫られていた。

 

「アタシも、好いた人が初めてだったらよかったのにな。男にとっては初めてなんて通過儀礼かもしんないけどさァ」


 看板を下ろした後の店でぽつりとリジィがため息交じりに呟いた。


「雪は俺に懐くしかなかっただけだよ。……紅眼でもないのに、リジィは相手を選べなかったのか?」


 ユーリィのやや無神経な言葉にリジィはウェーブの綺麗なブロンドを耳に掛け直して、孔雀緑を緩ませる。


「酷い言い草ね。前にも言ったでしょう、紅眼だけの商いじゃないわよ。水蓮ここじゃ物珍しいでしょうけど。人の数だけ生き方があるものよ」


 紅く染めた爪先でユーリィの鼻を弾いて、リジィは慣れた様子でユーリィを諭した。

 水蓮の外を知らないユーリィにとって、紅眼以外の女娼が存在することを考える頭が端から存在しなかった。彼女はこのグリモワで客をもてなしながら時折その客に連れられて店を出て戻らないことがある。それがどういう意味を持つのかなんとなく察しこそすれ、彼女が好き好んでしていることだと思い込んでいた。

 店の灯を消し帰路の中、ユーリィは自分の浅はかさを悔いた。

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