Episode02:花の一生

 期限は一年、健康を損なうことなく身の回りの世話のできるように、また、女としての在り方を養うように。

 長々とかしこまって作られた文書に書かれた内容を搔い摘むとそういうことだった。

 文書の最後に承諾の一筆を入れる欄があったのを、ユーリィはもちろん署名しなかった。折を見て突き返そうという考えがあったのもあるが、一方的なこれを契約と呼べる訳がない、書いたら負けだと感じたからだ。

 紫蓮ヅィリェンが次に店を訪れるのは恐らく月を跨ぐだろうか。それまでシュエと暮らすのはやむなしだろう、と自分を言いくるめた。

 雪は陶器のように白い肌をした痩せっぽちで背も低く、癖っ毛の赤毛を肩で揺らしていた。紅眼ロゼリアが妓楼で名乗る紅名こうめいは基本的に眼の色や花の名を冠して雇い主が付けることが殆どだ。珍しい名付けではあったが、それがまっさらな何の跡もない新雪から付けられたものであることは分かる。

 当面の問題は、この部屋に寝台がひとつしかないことだった。雨花ユイホァと暮らすはずだったそれがシングルサイズでないことが仇になるとは思いもしない。


「一緒じゃいけませんか?」

「…………、訊いた俺が馬鹿だった」


 何の邪もない顔で雪が首をかっくらと傾げたところでユーリィは心の中で何かが崩れるのを感じた。恐らくは紫蓮から同衾するのは当たり前だろうと教えられているのは確かで、雪はユーリィの勤務中に寝台へ潜り込み眠っているものだから彼もそれを起こしてまで放り出すことができなかった。

 目の前で獅子を纏った猫、等と言われたことに腹を立てていたが結局のところ横暴に振舞うことができないのも事実で、人買いの人を見る目の確かさを裏付けるようであり、その皮肉さに心は濁った。

 七日七晩、ユーリィは猫を飼うように雪と接した。猫と違うのは、言葉が通じ世話を焼く前に焼かれていたことか。家事の手際に卒がない。当たり前のように帰る家に人が居て、食事をもてなされる生活は確かに雨花が居た頃に近い安堵感があった。


「お前、何で売られた? 今時、シークレストから純種の紅眼なんて攫えないだろう」


 午後を過ぎて雪がキッチンに立つ音で目を覚ましたユーリィは何気なく訊ねる。雪は芋の皮を剥きながら振り返り、表情を明るくさせた。初めて関心を向けて貰えたことへの喜びだ。


「雑種ですよ、もちろん。でも、あたしの兄弟たちはみんな紅眼なンです。姉がひとりと、弟がひとり。うちは貧しかったから、みんな大きくなったら水蓮の妓楼に入るはずです」

「当たり前のように言うな。……弟にまで男娼させようってのか、酷い親だな」


 あまりに雪が明け透けに明るく言うものだから、ユーリィは眉を寄せた。紅眼とヘリオトロオプ人のハーフを雑種と称することにも嫌気が差した。それは彼女への嫌悪というより、同じ紅眼のハーフであるユーリィが幼少期に受けた扱いをフラッシュバックさせたせいだ。

 雪は気にする様子もなく続ける。


「そういうものですよ、最初からそう言われて育ったからあたし達は意外となンとも思ってない」

「夢を持たない紅眼、……ね。後一年は親元に居られたろうに姉貴共々さっさと手放したって話か」

「ここでの暮らしはいい下積みです、あたしにとっては」


 紅眼のハーフでありながら紅眼を持たないユーリィは、それでもウリンソンという高名のお陰で良くも悪くもいい暮らしにありついた紅眼と周囲に疎まれて来た出自がある。その経験が心を捻じ曲げ、影を色濃くさせていた。

 厭味や皮肉を投げてもまるで動じる様子のない雪を見て、ユーリィは肩を竦める。確かに、女娼として生きて行くには申し分ない強かさを持ってはいる。

 若さ故なのか、性分であるのか。曇りのないそれが硝子のように脆く壊れるものではないように、ユーリィは気付けば祈っていた。ややもして、そんな自分に呆れもする。

 らしくもない。

 結局二週間の後に紫蓮を再びグリモワで迎えた際、ユーリィは文句を付ける気概を失くしていた。


「いい子にしているみたいだね。まあ、分かり切ったことだが」

「アンタを信用しちゃあいないけどな。自分を見るようで無碍にできないだけだ」

「おや、君はあんなに純粋じゃないだろう」

「……ごもっとも」


 紫蓮にグラスへ酒を注いで差し出す心持ちは至って平静だった。雪と居る暮らしが馴染み始め、心には予想以上に余裕が生まれていた。人とある暮らしを、疎ましく思いながらその存在に癒されていたのは確かだった。

 当時三十路近くの紫蓮との付き合いはそこから先細く長く続くことになる。時に悪辣に振舞い、振舞われながら商売という一線のあるせいか、腐れ縁か後にユーリィは彼を悪友と呼んだ。




 パスピエから支払われる給料は倍額に近くなった。紫蓮から支払われたという雪の養育費だというそれは、紫蓮の言葉通りパスピエがそこに一枚噛み、上前を頂いていることを裏付けていた。


「お前が荒れなくて済むならこんな旨い話はない」


 結果論だ、とユーリィは思ったが亡き母・マリアが残した財産をすべて放棄した今、手持ちの金が増えることを喜ばない手はない。一方、女娼がその身で稼ぎ上げる額が如何ほどのものであるのか、また、それを身請けするのにどれだけの富が必要なのかを垣間見た気になり肝が冷えもした。ウリンソンへの軽蔑は深まる。

 予想よりずっと時間の流れは早かった。気付く頃には半年が過ぎている。

 当たり前のようにひとつの布団で眠ることにも慣れたが、この頃の雪は少し様子が違っていた。起き抜けにユーリイの身体の自然現象に自ら触れて、唇を寄せるのを寸でのところで止めることが続いた。


「馬鹿、紫蓮が何と言おうが、俺はそんなことさせるために預かってるんじゃない」

「そしたらあたし、このまま半人前だよ」

「……だから嫌なんだよ。紫蓮のやらしい顔が浮かぶぜ」


 お飾りのデスクへ放ったままの契約文書の文言を思い出す。当然のように事細かに何をすべきで何を避けるべきなのかを書かれたそれに眩暈がして、ユーリィは読むのを諦めていた。

 しかし、期限は残る半年でしっかりと金銭を受け取っている手前誤魔化し続けることができなくなっていた。半年後には雪は妓楼で客を取り、男を性的な意味でもてなすことになるのは避けようがない事実だ。

 

「あたしをちゃんと女にして、ユーリィ」


 そんな言葉は惚れた男に言うべきだろう、喉元までせり上がった言葉は嚙み砕いてしまう他ない。彼女には、紅眼にはそんな幸福は約束されていない。厳しい現実が、自分のものではないのに突き刺さる。まるで、割れた硝子の上を歩くような心地に、ユーリィは雪の瞳から目を逸らす。


『わたし達にそんな幸福はあり得ないのよ』


 雨花の悲痛な声が聴こえた気がした。

 彼女が生前に客を取っていたのかどうかまでは聞き出せなかったが、マリアと連れ立って身請けられたことをこの上なく幸いであったということだけは懇々と口にしていた。

 ウリンソン財閥の妾として身請けされたマリアと、その執事としての雨花の生き様が幸福であったというのはその子であるユーリィには受け入れ難い話ではあったが雪を前にして考えると答えはまた違って来る。

 寝台へ腰掛けたまま、ユーリィは盛大に息を吐いた。


「朝からそんな気にはなれる訳ないだろ。……そういうことだ」


 そう、苦々しく口にするのが精一杯だった。

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