Episode01:雪
初恋の人、
成年前の彼を雇った水蓮の老舗酒場『グリモワ』の店主パスピエを師匠と呼び慕い、看板娘のリジィと打ち解けるまでには相当の時間が掛かったのは確かだった。振り返った時に、まず思い出すのはそのふたりと
一年という短い時間をどういう訳か一緒に暮らした幼い紅眼の雪。その出逢いはユーリィが二十歳を過ぎた頃だったはずだ。
「……というわけだ、どうだ君?」
「は?」
グラスを磨いていたユーリィは、唐突な話の振りに胡乱な眼差しを隠そうともせずに上げる。視線は、愉悦をたっぷりと含んだ男の青味の強い孔雀緑にぶつかる。
紅眼を扱うに相応しい、由緒正しいヘリオトロオプ人特有の虹彩は物珍しくもなかったが、この男のそれはどうしてかひどく蠱惑的で、ユーリィもついと目を逸らす。
白銀にまで脱色した髪色と相まって、男女共に狂わせるとは嘘か真か。あまり関わるべき人間ではないと本能的に思いながら、ユーリィは今し方の話をわざと無視した。
客前に取る態度ではない。後々パスピエから叱責を受けることを面倒に感じながら再びグラスを磨くことに集中する。
「君は、ウリンソンのところの庶子だろう。俺のところの娼をふたりも身請けした」
ウリンソン。国でも名の知れた財閥の名前である。その名を聞いた瞬間、血が沸騰しそうな感覚を覚え、ユーリィは奥歯をぎり、と噛んだ。
その様子を見て更に可笑しそうに男は続ける。視界の端にリジィも、パスピエも別客をあしらいながらではあるものの、こちらの様子を窺うのが見えた。
「雨花は妓楼を出た後も律儀に連絡を寄越す、いい女だった。葬儀には俺も寄せてもらったよ。……好いてたんだってな」
「言いたいことはそれだけか?」
ウリンソン財閥の妾腹の息子として特異な出自を持つユーリィにとって、それに連なる話、特にお抱えの執事であり彼の初恋の人である雨花の話は禁忌だ。癒えない傷口を遠慮なく指でなぞるような男の言葉に、拳を振り上げないだけマシだった。例えそれが何年経とうとも。
男は声なく笑って、指を組む。
ユーリィは意識的に顔を上げずに言葉を待った。
「忘れろとは言わない。ただ、そうやって何年過ごすつもりなんだ、君は? 若いうちに遊んでおけよ、女なんていくらでも居るだろう」
「紫蓮、あまり揶揄わないでやってよ、妓楼の子ならあたしが預かったげる」
「君じゃだめなんだよ、リジィ。俺には綿密な計画があるのさ」
「だからって何も……」
くだらない。衝撃的にグラスを床に叩きつけたいのは山々だったが、リジィが声を挟んだことでどうにかなけなしの理性を保った。視線を落とし、ふたりのやり取りを聞きながら静かに深呼吸を繰り返す。
そこへ、紫蓮と呼ばれた男の手が伸び、磨いたグラスを奪い去った。自然と視線を合わせてしまう。
「一年でいい。月賦も出す。多少の条件は付けさせてもらうが――問題ないだろう。今の君には他の人間と暮らすのが必要なのさ」
「……言ってろ、アンタの商売に興味はない」
「商売じゃない、娯楽さ」
「尚更だ、付き合う理由なんてない」
そこでリジィが紫蓮の肩を掴み、もう、と割って入りしな垂れ掛かる。グラスを天板へ戻した紫蓮は一度だけ、ユーリィに目配せを送ったがそれきり、満足したように話題を変え、リジィと睦まじくし始めたのでユーリィは業務へ戻ることができた。
始まりはたったそれだけのことだった。返事は済んでいた。
まさか翌朝、猛吹雪の中雨花と住むはずだった独りには広すぎるその部屋へ、紫蓮が少女連れで訪れて来るなどユーリィは予想もしなかった。
もはや
寝ぼけ眼を擦り、紫蓮の憎らしい笑みを見た瞬間はその扉を閉ざそうと思ったのだが、横へ並んだ少女が震えていたのがいけなかったのだとユーリィは思い直す。
らしくもない、温かい茶を用意しながら沸々と煮える怒りを、カップを出す時までにはどうにか遣り込める。
「飲んだら出てってくれ」
「もちろん、そのつもりだ。
「はじめまして、雪です。今日からおせわに……」
「返事はしただろ。いい加減にしろよ、クソ男」
鈴のように可愛らしい声を、遣り込めたはずの怒りが声となって掻き消した。遠く聴こえる強風の音に床下を走る湯管が暖まってカン、カンと鳴る音が水を差すように響き、残るのはユーリィの盛大な溜息だった。
声を荒げるつもりではなかったが、案の定目の前の少女はぎゅっと目を瞑って縮こまっている。
紫蓮はすべてが予定調和とでも言うように微笑って、カップを口に運んでから唇を開いた。
「どうしようか、雪。行くところがないね?」
「……あたし、どうなるんですか」
「どうしようね、うちの妓楼は十四からしか取らない決まりだ。……歳を誤魔化して客を取るかい?」
いっそ演技めいて紫蓮が口にするのを、隣に座る雪はおどおどと視線を泳がせて、無意識にかその紅眼をユーリィへ向けて来る。いやらしいやり方だ、とユーリィは眉を寄せつつ視線を逸らすのが精一杯だった。
無論、少女が悪い訳ではない。昨晩の会話の凡そはユーリィの耳に入らなかったが状況を見るに、妓楼へ迎えた子の扱いにあぐねて預かり先にされ掛かっているのだと理解できる。
沈黙がしばらくと続いた。ユーリィはふたりの眼差しがこちらへ向いていることに気付きながら窓の外、依然として勢いの止まない雪に視線を投げていた。
先に動いたのは紫蓮だ。
タン、と乾いた音と共に紙幣の束が置かれている。帯の解けていないそれは、ユーリィが稼ぐには半年分はあろうか。
動揺を悟られないように、カップを啜りながら再び視線を窓へ逸らす。
「タダでやれとは言っていないよ、これは手付金だ。不自由なく一年、面倒を見てくれればいい。その後はうちの管理下だ。食うなとも言わない、……できれば止して欲しいがね、価値は下がるが早いか遅いかの違いだ。執事抱え育ちの君には家事手伝いが増えることは悪い話じゃないはずだが」
「俺を選ぶ理由にはならないだろ。第一、ガキの面倒なんて見られるかよ」
「子どもで居られる時間は終わったんだよ、分からないかな。寝食の世話をさせて、客を取るための素養を養う。まずは男に慣れてもらわないといけないからな」
辛辣な物言いを、つらつらとまるで花を愛でているとでも言うようにこの男はする。雨花がかつて、自身に語った妓楼での言葉を思い出しながら、ユーリィは紫蓮をねめつけた。
彼女の言葉は哀しいほどに美しく、その暮らしは虚飾されたものだったと思いながら。
「娼上がりを知っているからそんなことをさせようって言うのか」
「つまりはそういうことだ。彼女も身請けされるような女性に育つかも知れないよ。パスピエには話を付けてある。君が幻影に囚われ続けることを思えば、それもよかろうとね」
「……馬鹿げてる」
にわかに裏切られたような気分になったが、それも紫蓮の虚言かも知れないと思え、ユーリィは内心困惑した。この目の前の男にそんな心を悟らせてはなるまいと拳を握り締める。
「あたし頑張りますから、ここへ置かせてください」
これまでの会話の何処までを理解しているのだろうか。口を閉ざしていた雪が身を乗り出した。懸命の眼差しがこっちを見ろとばかり注がれて、思わず視線が揺らぐ。
「大丈夫だよ、雪。彼は獅子を纏った猫だ、面倒見のいい、ね。……それでは言葉通り俺は出て行くとするよ。何かあったら連絡をくれるといい。もっとも、店にはまたすぐ顔を出すが」
紫蓮はあっさりと席を立ち、外套を着直してもう背を向けている。立ち上がったが、ユーリィは声を出すのが精一杯だった。
「待てよ、引き受けるなんて言ってない」
「雪、契約書はしっかり見せるんだよ」
「はい、
振り返りもせず紫蓮が扉を潜り抜けて消える。行って止めろ、と頭では叫んだがユーリィの足はまるで縫い付けられたように動けなかった。
残されたのは、訳の分からない金と、無垢な少女ひとり。
雪は斜め掛けの鞄からごそごそと丸めた紙を取り出して、うやうやしく差し出す。
「これから、よろしくお願いします」
ユーリィは気の抜けたようにどっかと腰を下ろした。無垢、を取り消す。彼女も充分に強かだ。多大な溜息を吐きながら、片手に契約書とやらを受け取って、目を走らせた。
言い掛かりを付けて返してやる、そう意気込んだが読み終える頃にはすべてが面倒くさくなっていた。
雪は声を掛ける間もなく茶の始末を始めており、易々と追い出せるような隙を見せなかったのだ。
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