第9話 傷跡

 わたしがこの世界で目を覚ましてから、五日ほどが過ぎた。

 失った日記は、今もまだ見つかっていない。

 花瓶を落とした人物も分からないままだ。


 幸いというべきか――この間に命の危険を感じることはなかった。ジェイドとイザベラが静かに火花を散らすことはあれども、平和に、平穏に、日々が過ぎていく。

 イザベラと言えば、彼女が公妃になった際にかつての使用人は解雇された、というジェイドの言葉を裏付けるように、この屋敷に雇われているのは若い使用人ばかりだった。ユーニスの母と面識がある人物はいなそうに思える。


 食事は日に二回。過熱をした野菜が中心で、全体的にスパイスが薄く、ハーブで風味づけされているものが多い。供されるのは、塩漬けの燻製に、腸詰めやパテといった加工肉。そこにパンが添えられているというのが基本の食卓で、イメージしていた「貴族の食事」と比べるとずっと質素だった。

 とはいえ、健康補助食品で凌ぐ夕食よりはずっと豪華だし、味もいい。――昨日の朝食に出てきた、くたくたになった葉物のスープだけは口に合わなかったけれど。ハーブの香りだけが強くて塩気がなく、煮込まれた葉物が口の中でドロドロに溶けていくあの感触は、思い出しただけで陰鬱になる。ふわふわの卵料理がおいしかったのが救いだ。ただし、何の卵かは分からない。


 昼食がない代わりか、午後には焼き菓子とお茶が用意される。

 こちらは、どれも間違いのないおいしさだった。ざくざくとした厚焼きのクッキーに、甘酸っぱいジャムを挟んだケーキ、摘みたての果物を焼きこんだタルト。添えられた飲み物は紅茶に似た味わいで、花の香りがつけられていて、ミルクと共に頂く。

 この五日間で、午後のティータイムがすっかり楽しみになっていた。


 入浴の習慣もあるようで、三日に一度、湯を浴びることができる。どうやらガスによる湯沸かし器があり、大量の湯が用意できるようだ。お風呂のない日は清拭で済ませる。現代日本に比べて湿度も気温も低いせいか、意外と気にならない。

 簡易的な下水道によって排水は川に流され、排泄物は汲み取られて肥料になる。水洗トイレや下水処理施設というものはなさそうだが、まあまあ清潔だ。


 一週間は、六日。

 一か月は、三十日。

 今は夏で、あと半月ほどで暦の上では秋になる。


 そういった日々の習慣を、理解してい――ぐえ。

「ユーニス様」

 背後に立つクロエが、少しばかり鋭い声で話しかけてくる。

「もっと深く息を吐いてください。コルセットが締められません」

「もうこれ以上は……苦し」

 寝室の壁に両手をつき、身体を支える。わたしの情けない懇願に、クロエは容赦なくコルセットを締めてくる。

 昨日の午後のティータイムで、少しばかり調子に乗ってジャムのクッキーを食べすぎたかもしれない。朝食のスープの口直しというのもあるけれど、ユーニス暗殺事件への進展が見られないことへのやけ食いでもある。

「目を覚まされてから、随分と召し上がるようになりましたもの」

 うん。

 たくさん食べている自覚はある。

「料理長も喜んでいて、野菜のスープをたくさん仕込むと意気込んでいます」

「え」

 あのスープを?

 たくさん?

「ユーニス様、あのスープがお好きでしたから」

 マジか。

「それが……その、一時、意識を失っていたせいで食べるものの好みが変わってしまったみたいで、昨日のスープもあまり口に合わなくて……少し塩を強く味付けしてもらえるよう、伝えて頂けませんか?」

「かしこまりました。……コルセットも締まりました」

 うう、苦しい。

 この上からクリノリンをつけて、ドレスを着て、髪を結って、化粧を施してもらわなければならない。着替えひとつに毎日大がかりだ。

「本日から、サラ先生が再びお見えになられます」

 見た目よりも軽いクリノリンを腰にはめながら、クロエが言う。

 先生、ということは、通いの教育係か家庭教師だろう。学問から遠ざけられていたことから、花嫁修業、良妻賢母教育、そんなところだろうか、とあたりをつける。

「本当なら、すぐにでも伺いたかったそうなのですが、下のお子様が熱を出されていたとのこと。幸い、お子様の熱もすぐに下がり、サラ先生への伝染も見られないので、本日から伺うと報せがありました」

 感染症への理解、公共衛生の概念。

 ……ということは。

「クロエ」

「何でございましょう」

 軽い生地で作られたドレスをかぶり、スカートの形を整え、後ろのボタンを留めてもらいながら言葉を続ける。

「わたしが倒れた時、わたしを診てくださったお医者さまはどうなさっているのでしょう」

 伝染病への理解があるなら、医者がいるはずだ。わたしの死亡を診断した医者が。

 その人物なら、わたしの死因についてなにか聞けるかもしれない。

 ……そうだ。本来であれば、わたしが蘇ったと報せを受けたら真っ先に来るであろう人物だ。それなのに姿を見せていない。なぜ?

 考えれば考えるほど、嫌な予感がする。

 それを裏付けるように、ボタンを留めていたクロエの手が止まる。

「そうですね……ユーニス様は、ご存じないのですよね」

 答えを聞く前に、察する。

「ボードマン先生は、亡くなりました」

 ああ、やっぱりか。

「……理由を、伺っても?」

「ユーニス様を診た帰りに……馬車の事故で、と聞いております」

 おそらく、口を封じられたのだろう。

 証拠は見つかるまい。

「……ありがとう」

 それから、重い空気の中、身支度を整えられていく。その間、お互いに口をきくこともなかった。

「ユーニス様」

 鏡を見る。髪を結いあげられ、化粧を施されたわたしの顔は、どこか暗い。

「お支度が整いました。そろそろサラ先生がいらっしゃる頃かと思われます。……客間へ向かいましょう」

「ええ」


 廊下に出ると、そこにはジェイドの姿があった。

「ジェイド様。ユーニス様のお支度が整いました」

「ご苦労」

 そう微笑むジェイドの顔は、凛々しく、美しい。同性と分かっていても、惹きつけられる。

 それはクロエも同じようで、わずかに頬が上気していた。

「では、参りましょう。ユーニス様」

 ジェイドの先導で客間へと向かう。

 三階から、二階へ。階段を降りる時、ふと気になった。

 吹き抜けの階段。その手前に備えられている、作り付けの飾り棚。シンプルながらも滑らかでつやのある統制の花瓶に、活けられた花。

 吹き抜けを覗き込むと、一階と二階の間にある踊り場までは螺旋状になっていて、眼下には一階の玄関ホールに繋がる大階段が見える。わたしが危うく死にかけた場所だ。

 そして――。

「ユーニス様、どうかなさいましたか?」

「いえ、なんでもありません。……ただ、この下に、あの花瓶が落ちてきたのだと思ったら、少し気になってしまって」

 わたしは「それ」から目を逸らし、ジェイドの元へと行く。


 ――吹き抜けの角に、真新しい筋状の傷があった。

 例えば、ワイヤーのようなものを花瓶に括り付け、二階の吹き抜けから引っ張れば……?

 てこの原理で、力が無くても落とせるのではないだろうか。



 ジェイドは、あの傷に気づいているのだろうか。

 そんなことを考えながら、彼女の背中を追っていく。

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転生公女は「わたし」を殺した影を追う クロキハク @Kurokihaku

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