四話

 人の首には、生命維持に必要な物が集まっている。頸髄、動脈、気管、食道……。

 そんな所を鷲掴みにされようものなら、誰だって身の危険を感じずにはいられないだろう。

 

 僕は今、文字通り命を握られている。彼女の手はひんやりと冷たい。血が通っているのか分からないほどに。

 このまま首の骨を折られるのか、あるいは肉を抉られるのか……。いずれにせよ、多分物凄く痛い。


 でも、きっと一瞬で終わる。


 覚悟を決め、息をグッと堪える。どんな痛みにも耐えられるよう、全身に力を入れる。

 しかし相反するように、彼女の手は徐々に緩んでいき、するりと首から離れる。ゆっくりと目を開けた僕の顔先で、彼女は指をパチンと鳴らした。


 数秒間、沈黙の時間が流れる。澄んだ瞳を見つめるが、視線は合わない。彼女は、僕の首元を凝視していた。


「……何か喋ってみて」


「えっ?」


 ……えっ?


「あ……あれ、なんで?」


 声が……出る。


 数年振りに聞いた懐かしい声は、確かに僕の意思によって、僕の身体から発せられていた。


「君……そんな声だったんだ」


 女性は物珍しそうに、水色の瞳を大きく見開く。いやしかし、驚くべきなのは僕の方だ。

 もう二度と、叶わないと思っていた。話すことも、歌うことも、全て諦めなければならないと思っていた。


「喉、違和感ない? 痛いとか、呼吸が苦しいとか……」


 彼女が言うような違和感は全く感じない。しかし、つい気になって自分の首元を触る。何度も何度も。


「……上手くいったみたいね」


 彼女は無事を察したのか、安堵したような声を漏らした。


「何をしたの?」


「幻想具現化術。あなたの声帯を、幻想で形造ってみたの」


「幻想……何?」


「……まぁ、君が知らなくてもいいから」


 彼女の言っている事はよく分からなかったが、魔法で僕の身体に何かした、という事は分かった。


「魔法って、何でも出来るんだね」


「何でもって訳じゃ無いけどね。それに本当は、もっと早く済ませるつもりだったんだけど……」


 無表情のままこちらを見下ろし、僕のおでこに人差し指を当てる。

 

「君が中々ご飯を食べてくれなかったから。人間の正確な喉の動きを把握するのに、時間がかかっちゃった」


 人差し指を、ぐりぐりと押しつけてくる。まるで不満をぶつけるように、力を込めて。


「喉の動きって……」


 まさかと思い、立ち上がってテーブルに近づく。彼女がいつも読み漁っていた、分厚い本。それは人体の構造を著した図鑑のようだ。

 本をめくると、喉の構造や発声の仕組みについて記したページに折り目がつけてあった。


「人の本、勝手に開かないでよ」


 冷たい声と共に、取り上げられた。彼女はパタリと本を閉じると、いつものように椅子へ腰掛け、頬杖をつく。

 

 この数日間、彼女は昼夜問わずこの本を読み耽っていた。僕がご飯を食べる時、僕の首元をまじまじと見つめていた。

 それらは全部、僕の声を取り戻す為の行動だった。点と点が、線で繋がっていく。


「どうして、こんな事を……?」


 分からない。彼女にそんな事をする理由が無い。僕のような人間一人を助けたって、彼女に何の得も無い筈だ。


「うーん、そうね。ちょっとした情けと、魔女としての気まぐれと、あとは……」


 少し間を開け、こちらを向く。


「……ほんの少しの、サプライズかな」


 初めて、彼女の口角が上がった。元々バランスがいいと思っていた顔が、キラリと光を放つみたいに。眩しくて、そして温かく感じた。

 僕の中にある、モヤモヤした得体の知れない何かが薄れていく。それは声を失う原因にもなった、ある日の記憶。


 あの日……。僕は声だけでなく、大切な家族も、将来の夢も、生きる希望も、全てを失った。悲惨な過去は、僕の心を鉄の鎖でぐるぐる巻きに拘束し、何重もの鍵を掛けていた。


 しかし彼女の笑顔は、その錠前を一つこじ開けてくれた気がした。


「……さ、もう私がしてあげられる事はないから。そろそろお家に帰りなよ」


 すぐに口角が下がり、再び無表情な彼女に戻る。名残惜しいと思った。彼女の笑顔が消えるのも、ここから立ち去るのも。

 もう少し、もう一回だけ、あの笑顔を見たい。


 ……もっと、彼女の事を知りたい。


「もう少し、ここに居させてよ」


 思わず、そんな事を口走ってしまった。「えっ?」という声を漏らし、彼女は目を見開いている。


「帰る家なんて無いし、行く当てもない。だから、もう少しここに居させてよ」


「……それ、本気? 私は魔女よ。今すぐにでも、君を食べてしまうかもしれない」


「食べても良いよ」


「は?」


 彼女の瞳が、さらに丸くなる。きょとんとした顔で、僕を見つめている。


「どうせ一度は失った命なんだ。君になら、食べられてもいい。だから、僕を食べるまでの間、君のそばに居させてよ」


「……君、言ってること無茶苦茶だけど、大丈夫?」


 眉をひそめ、少しだけ眉間にシワが浮かんでいる。冷たい視線で、こちらをジッと見つめてくる。

 

 彼女の言う通りだ。きっと僕はどうかしている。そんな事は分かっている。分かった上で言っているんだ。


 負けじと瞳を見つめ返すと、彼女は困ったように大きなため息をついた。


「……久しぶりだな、そんな事言われたのは」


 ばつが悪そうに、目線を逸らした。頬杖をついたまま、どこか遠くを見つめている。


「私、かなりの美食家なの。残念だけど、君のように精力の少ない人間、食べたいとは思わないから」


 自身の剥き出しになった肋骨を、人差し指でゆっくりと撫でる。僕はその動きを見つめる事しか出来ない。

 

 精力、か。そのままの意味だと、生気とか活力とか、そういった物だろうか。

 確かに、ここ何年も生きる喜びを感じて来なかったら。そんな僕は、どうやら魔女達にとって美味しい食事では無いらしい。


「一ヶ月」


 彼女は人差し指を真っ直ぐ立て、話を続ける。


「一ヶ月だけここに置いてあげる。その間に、君が精力溢れる人間になって、生きる意味を見つけた時、私は君を食べてあげる。でももし、それが出来なければ……」


 僕の顎を掴み、くいっと上へ引き上げる。強制的に、彼女と目を合わせる形となった。


「君をここから追い出すから」


 まるで決定事項のように、冷たく言い放った。


 彼女に食べて貰う為には、今の人生に希望や活力を見出し、精力を養わなければならない。生きたいと願えば願うほど、彼女にとって僕は美味しい食事となる。

 

 ……何とも矛盾にまみれていて、奇妙な関係だと思う。でも悪くない。このまま何もせず野垂れ死ぬよりは良さそうだ。


 僕は無言のまま、首を縦に振った。


「じゃあ、少しの間よろしく。私はフローラ。君、名前は?」


「詩音」


「……シオン」

 

 名前を口にした瞬間、フローラの瞳が大きく見開いたような気がした。しかし、きっとそれは僕の思い過ごしで、瞬きをした直後には元の無表情に戻っていた。





―――――――――――――――――――――――

 四話お読み頂き、ありがとうございました。


 突然のお知らせなのですが、友人から詩音とフローラのイラストを頂きましたので、近況ノートにて公開させて頂きました。


 お時間ありましたら、ぜひご覧頂けると幸いです。


 以上、小夏てねかでした。(7/6更新)

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