三話

 空を飛んだのは、人生で三回目だ。


 一回目は、まだ小学生の時。歌のお仕事を受け、飛行機で東京へ渡った。歌う事が人生の全てだと、そう思っていたあの頃。何もかもが輝いて見えていた。


 二回目は、車に撥ねられた時。……痛みが強すぎて、正直思い出したく無い。


 そして今、僕は箒に跨って空を飛んでいる。正確に言えば、空を飛ぶ箒に二人乗りをさせて貰っているだけだが。


 自身を魔女と名乗った女性。風に靡く彼女の髪からは、ふわりと甘い香りが漂ってくる。それは人間味溢れる香りで、魔女としての不気味さを薄めているように思える。


 どうして僕は、彼女の手を取ったのだろうか。他に行くあてがないから? 彼女に、この命を終わらせて欲しいから? 


 ……それとも、彼女に魅力を感じたから?


 分からない。彼女は何も話さないし、僕は話しかける事が出来ない。この沈黙は、目的地に到着するまで続いた。



 


 女性に案内され、木造の小さな小屋に入る。中は暗く、窓から漏れる月明かりだけが、室内を淡く照らしていた。


 女性が指を鳴らす。すると、部屋にオレンジ色の明かりが灯り、その全貌が顕になった。

 一人で過ごすには丁度良い広さ。真ん中に四人がけくらいのテーブルがある以外は、特に何の特徴もない閑散とした部屋だ。


 さらにもう一つ指を鳴らすと、部屋の隅に小さなベッドが姿を現した。


「この小屋、自由に使っても良いから」


 立ち尽くす僕を置いて、女性は出口へと向かう。


「……ただし、絶対に外へ出ない事。これだけは約束して」


 そう言い残し、この小屋から去って行った。



 自由に使え、なんて言われても……。


 ベッドへ横になる気にもならないし、椅子に腰掛ける気にもならない。キョロキョロと部屋を見回した後、そのまま床に座り込み、ベッドにもたれかかる。


 ふぅ、と大きなため息を吐く。やっと一人になれた。見知らぬ部屋なのに妙に落ち着くのは、きっとテーブルの上でゆらゆら揺れているランプのおかげだ。


 彼女は、僕をどうするつもりなのだろうか。


 監禁? ここに僕を閉じ込め、じっくりと食べるつもりなのか? だとすると、入り口に鍵がかけられているかもしれない。


 別にここから逃げるつもりはない。ただの興味本位で、確かめるようにドアノブへ手をかける。

 しかし、鍵はかかっておらず、扉は呆気なく開いた。

 そして目の前に、彼女が居た。良い香りが漂う料理を、お盆に乗せて。


「あっ……」


 水色の瞳が、驚いたように丸くなる。多分僕も、同じような顔をしている。


「……出ないでって、言ったでしょ?」


 眉間に薄っすらと皺が寄り、眉がきりりと吊り上がる。彼女の視線に押されるように、僕は部屋へ戻った。


「お腹、空いたでしょ? これ、適当に食べて。足りなかったら言ってね」


 素っ気無い口調で言い、テーブルの上に料理を置くと、彼女は再び部屋から出ていった。


 

 香りに引き寄せられるように、テーブルの上を覗き込む。木でできたお盆には、パンやサラダ、それに暖かそうなスープが並んでいた。

 

 どうして彼女がこんな事をするのか、さっぱり分からない。僕をペットのように、ここで飼うつもりなのだろうか。

 僕はただ、この命を終わらせて欲しいだけだ。だからここまで着いてきた。彼女に飼われたいという気持ちは毛頭ない。

 

 この世界に来て何も口にしていないから、お腹は空いている。しかし、この料理に手を出す気分にはなれなかった。


 再び床に座り込み、ベッドにもたれかかる。そして食欲を押さえ込むように、ぎゅっと目を閉じた。



 

 眩しい光を感じ、目を覚ます。窓から朝日が差し込み、僕の顔を照らしている。


 ……いつの間にか、寝てしまったのか。


 座ったまま眠ったからか、身体が凝り固まっている。大きく伸びをしながら辺りを見渡すと、今この部屋で過ごしているのは、僕一人だけでは無いことに気づいた。


 魔女が居る。


 テーブルに向かい、頬杖をついて何かを読み漁っている。真剣な眼差しだ。よほど集中しているのか、僕が目を覚ました事に気づいていないようだ。


 特にすることが無い僕は、床に座ったまま彼女を眺め続ける。


 横から見ると、より目鼻立ちの良さが際立つ。大きな瞳に、高い鼻。改めて、バランスが良いと思った。

 しかし胸元に視線を移すと……相変わらず、そこには肋骨と脊椎が姿を現しており、彼女が魔女であるという事実を主張していた。



 やがて本をパタリと閉じ、立ち上がる。そこでやっと僕の視線に気づいた彼女は、おはようの挨拶をする事無く、この部屋から立ち去る。


 そして数分後、再び戻って来た。……料理を乗せたお盆を持って。

 つかつかとこちらに歩み寄ると、床に座り込む僕の前に料理を置いた。


 パンの種類も、サラダに使われている野菜も、スープの香りも、昨日とは別物だ。


 昨晩、一口も食べずに残された料理を見て、彼女は何を思ったのだろう。

 一瞬、申し訳なさが頭によぎる。しかし、やはり彼女の料理を食べる気分にはなれなかった。


「……食べないの?」


 しゃがみ込み、目線を合わせようとしてくる。膝に頬杖をつきながら。

 僕は彼女の瞳からも、そして料理からも視線を逸らした。


 彼女は困ったようにため息をつくと、まだスープの湯気が立つ料理を持ち、小屋から出て行った。



 日中も、彼女はテーブルに向かい、ひたすら分厚い本を読み耽っていた。


 僕は、というと……。相変わらず床に座り込み、底知れぬ空腹に襲われている。腹の虫が鳴るたび、彼女に聞こえないように身体を丸める。


 一日何も食べないだけで、こんなにもお腹が空くのか。先程出された料理に手を付けなかった事を、少しだけ後悔した。


 このまま食事を拒み続け、餓死を待つという選択肢もある。しかし、人は何も食べなくても数週間、数ヶ月は生存できるという話を聞いた事がある。

 その期間、空腹で苦しみ続けるというのは、きっと他のどの死に方よりも辛いと思った。

 


 そして再び夜が訪れる。彼女は当たり前のように、料理を運んで来てくれた。スープから漂う香りが、僕の食欲を刺激する。


 最初は、食べるつもりなんて無かったけれど。餌付けされるペットと飼い主みたいな関係、望んでいる訳ではないけれど。


 でも、一口だけなら……。


 空腹に敗れ、料理に手を伸ばす。温かいスープを一口啜る。乾いた口内が潤うと共に、その旨味に反応し、舌が溶け出すような勢いで唾液が分泌された。


 一度動き始めた手は、止まる事を知らなかった。硬いパンも、少し酸味のあるサラダも、流し込むように平らげる。


 彼女は表情一つ変えず、僕が食事にありつく姿をまじまじと見つめ続けていた。



 


 次の日も、その次の日も……。彼女は朝と夕の二回、無言で料理を運んできた。


 僕が食べ終わるとお盆を下げ、その後テーブルに向かって本を読む。機械的に、淡々と同じ行動を繰り返していた。


 ……本当に、何がしたいんだ?


 声を出す事さえ出来れば、彼女が何を考えているのか問い詰めてやる所だ。

 しかしそれすら叶わない僕は、ただただ彼女の横顔を見つめる事しか出来なかった。



 そしてこの部屋に監禁されて、五日目の午後。いつものようにテーブルで分厚い本を読んでいた女性が、おもむろに立ち上がる。

 食事の支度かな? と思ったが、まだ外は明るい。夕ご飯の時間には、早すぎる。


 水色の瞳でこちらをジッと見つめながら、ゆっくりと歩み寄る。そして目線を合わせるようにしゃがみ込み、白い右手をそっと伸ばして――。


 

 僕の首を、前方から鷲掴みにした。

 


 手のひらから、ひんやりと冷たい体温が伝わる。突然の出来事に意表を突かれながらも、彼女の顔を伺う。しかし相変わらず、感情を読み取る事は出来ない。


 最初は手のひら全体で包み込むような、優しい力だった。しかし、徐々に指先に力が入り、爪が首の肉に食い込む。苦しくは無いが、少し痛い。


 さらに首が絞まり、呼吸が苦しくなる。この時点で、僕は今後の展開を察した。


 ――殺される。


 心拍数が上昇する。でも、怖いとは思わなかった。むしろこれは、ずっと待ち望んでいた状況だ。

 ここにきて漸く、魔女としての本性を表してくれたみたいだ。彼女はこれから、僕の命にどんな終止符を打ってくれるのか。


 ごくりと唾を飲み込み、そっと瞳を閉じた。

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