関係人調査・後

 駆け足で昼食を食べに出て、庁舎に戻って来て、事務室に戻ろうと庁舎内を歩いているところで、相川はその女性を見かけた。赤いロングヘアが目を引く女性だった。白いシャツにダメージジーンズ、足元は黒いスニーカー。誰かを探したり、行き先に迷ったりしている風でもなく、背筋を伸ばして颯爽と歩いて行く。待合室がある方向だった。赤い色が待合室の中に入って見えなくなるまで女性の姿を眺めていたことに気付いて、相川は軽く頭を振って、止まっていた足を動かす。階段を上らずに待合室と逆の方に向かって歩き、事務室の扉を開けた。

「あ、相川さん。たった今、今日の午後の調査の人が訪ねてこられましたよ」

 自分の席の前で、椅子に座らずに立ったままの沼田が、少し早口で言う。どこか興奮したような様子で、相川が戻るまでは、おそらく藤見を相手に話していたのだろう。席に座っている藤見も、隣の机の島の面々も、苦笑気味に沼田のことを見ている。人が一人訪ねてきただけにしては騒がしいなと思いながら、相川は自分の席に着いた。

「ずいぶん早いね」

「ちょっとぼうっとしてる感じでしたけど、すっごく目立つ赤い髪の女性でした」

 沼田の言葉を聞いて、すぐに、さっき待合室に入っていた赤いロングヘアの女性のことを思い出す。颯爽と歩いて行く、どこか人目を集める立ち姿。

「さっき見かけた。待合室に入っていったのは、沼田さんが案内してくれた?」

「そうです。あんまり人目がないところの方がいいかなと思ったので。今日、調停日じゃなくて良かったですね」

「どうして」

「相川さん、見なかったんですか。彼女の顔面、青痣だらけでしたよ」

 沼田がせき立てるように言う声に、相川はひゅっと息を呑む。顔面の青痣、暴力、自宅になかなか帰ってこない、恋多き女。浮かんできた単語が一くさりにつながって、くらりと目眩を感じる中、足の裏に力を込めて踏ん張る。

「DVですか」

「相川さんがそう反応するってことは、何かその手の前情報があった?」

「彼女の姉、申立人から、妹は家に居ないことが多いとは。文脈で、交際相手の家に居るということだろうなと思っていたので」

「なるほどねえ。問題は、あの暴力の痕を見て、私たちにどう出来るかなんだけど」

 藤見が苦笑いしながら言うことは、相川にも分かる。裁判所は、捜査機関でもなければ、保護機関でもない。申し立てのあった事件は失踪宣告。彼女は成人している。暴力があったことを目の当たりにしたとて、なんら有形力を発揮出来る立場には、今のところはない。

「とりあえず、体調とからめて聞いてみます。必要がありそうなら、警察に被害届とか、法律相談とか、それぐらいは案内してもいいですかね」

「構わないでしょ。必要があるんだから」

 とりあえずやれそうなことを伝えると、藤見はうんうんうなずいて、「いいですよね、谷村さん」と隣の島の主任に投げかけている。振られた側は「まあそれくらいはねえ。というか、それくらいしかできないしねえ」とのらくらと返事をする。できたとてそれくらいまでなのだから、あまり深くは尋ねない方が良いだろうと相川は考える。けれど、それでいいのかという欲求を感じつつも、職務には不要な態度だと言い聞かせる。机の上のスケジュール帳を閉じ、スケジュール帳とペンケースとをクリップボードの上にまとめて乗せる。事件の記録をロッカーから取りだし、机上に風呂敷を広げて、まず記録を置いてから、クリップボードなどをその上に置く。対角線同士の角を結んで、風呂敷を抱えると「じゃ、調査いってきます」と言った。

「早いですね」

「相手も早く来てるからね。時間まで待ってもいいけど、なんか早くした方が良い気がする」

 相川がそう返すと、沼田はどこか釈然としない表情を浮かべながらも、席に着こうとしている。昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り、相川は自分の席の前を離れて、事務室を出た。廊下を進んで、人影がちらほら見えるホールを通り過ぎ、先ほど赤い髪の女性が入っていった待合室へ向かう。

 待合室の扉は引き戸で、相川がレバーを握ってそろりと扉を動かすと、音もなく開いていく。すぐに、赤い髪が視界に入った。一番前のベンチの端に、座面に深く腰掛けて背筋を伸ばしながら腰掛けている。前を向いている顔面には、確かに青痣が見える。目の周り、頬骨、顎。どうして先ほどは気付かなかったのだろうかと、不思議に思うほど、グロテスクで鮮やかな怪我だった。目を背けたくなるが、そうもいかない。

「藁山さんですか」

 相川が声を掛けると、女性は視線だけを動かして、相川を見る。ぼうっとしている、と沼田が言っていたのが思い出される、こちらを見ているはずだが焦点の合っていないような感じもする、不思議なまなざしだった。「そうです」と答える声は、かすれて今にも拡散していきそうだ。電話のやりとりで、はじめの方に聞いた声だ。女性の視線は変わらず相川に向けられているのに、女性がここに本当に居るのかどうか、一瞬分からなくなる。奇妙に早くなる鼓動を深呼吸で抑えようとしつつ、瞬きを繰り返す。女性は変わらずそこに座っている。

「電話でお話した、調査官の相川です。面接のお部屋に案内しますので、こちらへどうぞ」

 こちらへ、と言いながら、相川が廊下を示すと、女性は立ち上がって、開いた扉から廊下に出る。足音は聞こえない。赤い髪が肩口や背中でふわりと揺れる。相川は待合室の引き戸を閉めて、女性を先導して歩き出す。数メートルの距離だから見失われるはずもないのに、相川は、後ろの女性が居なくなっているのではないかとどこか不安になって、どうしても後ろの様子をうかがってしまう。

 面接室の扉を開けて、後ろを振り向けば、女性はちゃんとそこに立っている。茫洋としたまなざしを相川の方に向けながら「どうぞ、奥の椅子にお掛けください」という相川の案内に従って、面接室に入ってくる。足音はしない。椅子を引いて腰掛ける動作のどこにも音が聞こえてこず、相川は、やはり、女性が本当はここには居ないような感覚にとらわれる。ゆっくりと息を吐いて、指先の感覚があることを確かめてから、相川は、机の端に風呂敷包みを置き、女性の向かいの席に腰掛けた。

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