関係人調査・前

 電話がつながった。相川が、父親に対する失踪宣告を申し立てた、年若い申立人と面接をした一週間後だった。申立人の助言に従って、なるべく日中の、勤め人ならば家を空けるような時間帯に電話を掛けるようにしていたが、呼び出し音が続くばかりで、留守番電話のアナウンスが流れることもなく、相川は毎回十五回ほど呼び出し音を聞いて、電話を切っていた。それを毎日二、三回も続けていたのだから、もう申立人の妹は電話に出ることはないのではないかとすら相川は感じていた。「もしもし」と少しかすれた吐息混じりの声が聞こえたとき、相川は、咄嗟に電話を切りそうになった。落ち着け、と心の中で念じて、軽く息を吐いて吸う。

「藁山琴さんのお電話で間違いないですか」

 はじめて電話を掛ける相手に対する定型文を、相川は尋ねる。少し間を置いて「そうですけど」とぼんやりした声で返事が聞こえた。ぼんやりして、途切れがちな声。電話の向こうの女性が、今にも眠ってしまいそうな状態なのではないかと、相川は想像する。

「私は家庭裁判所で調査官という仕事をしている、相川と言います。お姉さんから、私から電話があるかもしれないと聞いていませんか」

 また少し間を置いて「ええと」と曖昧な、かすれて空気に拡散していきそうな声が聞こえる。不思議と待つのが苦ではない沈黙だった。十秒ほどを数えると「聞きました」と答える声が、少し輪郭を取り戻している。相川は少し安堵しながら、スケジュール帳を手元に引き寄せて、口を開く。

「一応、簡単にご説明しておくと、お姉さんがあなた方のお父さんに対して、失踪宣告という手続きを申し立てました。そのことで、あなたに対してもお話をお聞きしたく、こうしてご連絡しています」

 電話口の声は何も言わないが、相川はそれを了解と受け取った。スケジュール帳の空白をいくつか確かめて、シャープペンシルを手に取り、芯を出さない先端でスケジュール帳のある空白を示す。

「例えば、裁判所にお越しいただくとして、少し急ですが今週の金曜日の午後とかはいかがですか。あるいは、来週の水曜日の午前か、来週の木曜日の午前か」

「今週の方がいいです。金曜日……すみません、裁判所ってどこにありますか」

 質問を受けて、相川は裁判所までの経路案内を口にする。隣県で私鉄に乗って、特急で三駅。駅からバスはなく、徒歩で十五分程度。他の公共交通機関も使えはするが、どの駅を使っても歩く時間に大差はない。電話の相手は、メモを取る様子もなくその説明を聞いて「分かりました」と返事をする。受け答えする声は、はじめ聞いたかすれた声ではなく、はっきりと輪郭を持った、理知的にすら聞こえる響きを伴っている。

「もし道が分かるか不安でしたら、地図をお送りしましょうか。来ていただく時間も書いておきます。午後一時三十分でいかがですか」

「時間はそれで大丈夫ですけど」

 逆説の後に続く言葉がなかなか聞こえてこない。相川は、スケジュール帳に今し方決まった面接の予定を書き入れながら、電話の向こうの音に耳を傾ける。電話の相手の息遣いも聞こえない。背景の環境音も何も聞こえない。たっぷりとした沈黙が、相川の体感では十秒ほど続く。先ほどと同じく、その沈黙が苦にならないのを不思議に思いながら、相川は返事を待つ。

「お手紙は、要らないです」

 ゆっくり、きっぱりとした返事を聞いて、相川は「分かりました」とうなずいた。曜日と時間を念押しで伝え、質問はないか尋ねると「大丈夫です」と返事がある。軽く息を吐いてから「では、金曜日、よろしくお願いします」と伝えて、受話器を受け口にそっと置いた。呼び出し音が鳴り出さないことをしばし確かめて、ようやく大きく息を吐く。肩の力が抜けていくのを感じて、相川は、自分が緊張していたことを知った。

「電話、ようやくつながりましたね」

 ラップトップの画面の横からひょこりと顔を出して、沼田が声を掛けてくる。底上げの台にラップトップを乗せているので、まっすぐに座っていると相川から沼田の顔は見えないのだ。沼田の表情にはいたわりがにじんでいる。この数日の相川の苦闘を、前の席で聞き続けていたせいだろう。

「しかも、つながった後は話が早くて、良かったですね」

「まさか今週に会えるとは思わなかったから、ちょっとびっくりしてるけど。説明の聞き返しも、質問もなかったし、ここまで電話がつながらなかったのと、ちょっと違和感はあるかな」

「確かに気になりますねえ。最後まで一貫してくれよ、みたいな。でも、失踪宣告の調査ですし、どこまで聞きますかねえ」

 考え始めたらしい沼田の顔が、またラップトップの画面の向こうに引っ込む。沼田の言うとおり、これは失踪宣告の調査なのだから、申立人やその他関係者の生活状況の把握が主題ではない。しかし、主題ではないだけで関係はある。たとえば、申立人が抱える財産関係の問題が申立ての動機となっているような場合だ。この件も相続が直接のきっかけだが、今のところ、申立人が莫大な借金を抱えているとか、土地にえらく高い値段がつきそうだとか、そんなきな臭い話は見えてこない。だからおそらく心配はいらない。が、まったく放置しておくわけにもいかない。

「必要な範囲で聞きますよ」

 相川がそう言うと、沼田も「まあそうなりますよねえ」と、顔を見せないまま答える。必要な範囲で、取りこぼしなく、過不足なく。簡単なようでいて、適切に実行するのはなかなか難しい。相川もできている自信は、強くはないが、そう弱くもない。それなりにやれるだろうと思えるぐらいには、相川は自分に信頼を置けている。

 もう一度スケジュール帳を見る。今週の金曜日の欄、「13:30~」という走り書きの下に、「失踪宣告(藁山妹)」と付け足して、相川はシャープペンシルを机に置き、椅子に腰掛けたままうんと背伸びをした。

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