第9話 大団円

 事件が急転直下、犯人が教団の中の氷室であったということが判明したのは、

「犯人の自首」

 というあっけない幕切れからだった。

 教団の人間である氷室が、奥さんに恋をしていたことは、前述の通りだったが、いつの間にか奥さんのことをストーカーするにまで至っていた。

 教団にいながらのこの異常な行動は、彼が教団を抜けようという寸前のところまで感じたことから始まった。

「君が自首してきたのを、教団の幹部の誰かに話をしたのかね?」

 と清水刑事が聞くと、

「いいえ、誰かに相談したわけではありません。私は本当に卑怯な人間なんです」

 と言って、うな垂れていた。

「君は卑怯な人間なのか?」

 と辰巳刑事が聞くと、すっかり観念したように見えるその身体は、ワナワナと震えていた。

「肝は奥さんを殺したということで、自首してきたんだよね? ゆっくりとそのあたりの事情を教えてもらおう。それに今君が自分で言った『卑怯』という言葉の意味もよく我々には分からない。さらに、疑問に思っていることも結構あるので、そのあたりも含めて教えてもらおう」

 と清水刑事はいった。

 目の前にうな垂れて鎮座している氷室という男、まだ三十歳後半のようだが、見ていると十歳は実年齢よりも高く感じられる。元々、老けて見えるのか、それとも、今回の事件を悩むことで一気に老け込んでしまったのか分からない。教団に入信していながら、人を殺そうとまで感じたのは、よほどのことだろう。これだけうな垂れているのが、自己嫌悪によるものだとすれば、そこに、

「何か人間臭い思惑が隠れさているのではないだろうか?」

 と、辰巳刑事は感じた。

 犬殺しが本当だとすれば、その犬を殺した人間、おそらく被害者の梶原聡子ではないかと思うのだが、その時何の毒を使ったのかということも分からなかったが、少なくとも犬とはいえ、放っておいても死んでいた相手を殺してしまったのだ。そのことを聡子が知っていたのかどうか、それも疑問である。

 そもそも、その毒をどこから手に入れたのか、それもよく分かってはいなかった。少なくとも最近では、病院から劇薬が盗まれたという事実は報告されていない。だが、その毒の出所に対して、氷室という教団入信者が自首してきたことで、何となく頭の中で繋がったような気がした。

 教団において、あれはいつのことだったか、問題とまではならなかったが、やはり毒による自殺未遂事件があった。それはあくまでもフェイクのようなものであり、致死量にまではまったく至っていなかった。ただ苦しい思いをしたというだけなのに、なぜそんな思いまでして、自分を死に至らしめるまでしなければいけなかったのか、誰にも分からなかった。

 その時、たまたま事件の話を聞いたのが、氷室だったという。氷室にはその人の気持ちが分かっていた。

「そんなにまでしなくてもいいんじゃなかったのか?」

 と訊いてみると、

「そうなんだけど、どうしてしないわけにはいかなかったんだ。俺はこの教団で、存在価値がどんどん薄れていった。俗世間でも、俺はおだてられると、調子に乗る方なので、最初はそのおだてに乗ってしまい、まわりに載せられるかのようにいろいろなものを作っていったんだが、その成果をすべて、先輩が横取りしてしまったんだ。本当に最初は、それでもいいと思っていたんだけど、あまりにも度を過ぎたのか、我慢している俺の存在自体が、今度はまわりの人が認識してくれなくなったのさ、それも俺の意に反しだよ。手柄を取られるくらいなら、しょうがないと思ったけど、俺の存在自体が、危機に迫られているということになると話が変わってくる。先輩に話はしたが、もうどうすることもできなくなって、どんどんまわりから存在が薄くなってくる。先輩は意識していたのかどうかも分からないまま、先輩も途中から、俺の手柄をまるで、本当に自分の手柄だと思うようになったんだ。きっと、俺ってそんな存在なんだろうな。俗世間で、皆から忘れられた存在になりながら、俺は一人で悩んだ。そこで見つけたのがこの教団さ。この教団では、俺の存在は間違いなくあった。皆が俺のことを認めてくれる。嬉しかったさ。すぐに俗世間なんか捨てて、ここに来たのさ。しかも、ここでは俺の開発したり、発想したことが俺の手柄として認められる。ごく当たり前のことなのに、その思いが初めて成就したんだよ。どれほど有頂天になったことか。俺はこのままこの教団に骨を埋めるつもりになったさ。だけど、この教団というのは、俺にとって、最後の砦のようなものだったんだ。そのことを思い出すと急に怖くなってきて、そうなると、また俗世間での出来事がフラッシュバックしてきたんだ。そのフラッシュバックがよくなかったのか、またしても俺を孤立させた。前の二の前となってしまい、俺の開発や発明は生かされるんだけど、俺の存在自体がどんどん薄くなってくる。宗教団体では、誰かの陰謀はあるかも知れないが、自分が自然と忘れられるというおかしな状況は起こらないと思っていたのに、実際には逆になってしまった。その時に気が付いたんだ。俺が俗世間で一番嫌だったことは孤独だったんだってね。自分は孤独よりも報われないことが一番嫌なことだと思っていたのだったが、それは違ったのさ。しかも、これが自然現象のようなものだっただけに、俺は焦った。何しろ、ここが最後の砦なんだからな。もう他には行くところがないと思うと、思いつくことは、あれだけの開発や発想ができたくせに、自分のこととなると、実に陳腐なことでしかない。そうさ、俺は自殺未遂しかないと思ったんだ。まるで子供の発想のようだが、俺は真剣だったのさ。真剣だったので、その下準備にも真剣だった。毒薬を手に入れて自殺の準備をする。俺は自分も気づかなかったが、本当に自殺をしてしまうという錯覚に陥っていた。というよりも、そのまま死んでもいいとさえ思った。もし、この陳腐な計画が失敗すれば、それは死を意味するものだと思ったんだ。だから、生き残っても、そのまま死んでも、結果はどちらでもいいと思った。結果的には生き残ることになった。だけど、これが不思議なものでさ。自殺を試みたおかげなのか、俺の存在感はまた以前のように戻っていったんだ。しかももっといいことに、俺が自殺未遂をしたという記憶の方がまわりからどんどん消えていくのさ。警察は一応調べにきたが、本当にちょっと事情を聴かれただけで、その時は大した話はしていない。もっとも、本当のことを話したけどね。でもそれが却って普通の連中には嘘くさく聞こえたんだろうな。特に警察の事情聴取した人なんか、最初から呆れてものも言えないというような顔をしていたよ。俺はそいつの顔を神妙に見ていたが、心の中では嘲笑っていたというわけさ」

 と言っていた。

 あくまでも、その話は本人から聞いただけの話であり、肝心のまわりの人は、自殺騒ぎがあったということをほとんど覚えていなかったことであったくらいなので、その真相に信憑性があるのかどうか疑問だった。だが、氷室にとっては、限りなくウソのない話に聞こえたのだ。その人はどうして氷室にそんな話をしてくれたのか、

「君には俺と同じ匂いを感じたんだ」

 と言って、隠し持っていた毒薬を渡してくれた。

 その時、氷室は奥さんのことが好きでどうしようもなくなっていた。家族と別れてまで入った教団を裏切ることになると思いながら、ずっとジレンマに悩んでいた。

 そんな時、奥さんが、

「最近、犬の吠えることが大きくて、眠れないのよ。ノイローゼになってしまったわ」

 と言っていた。

 氷室が見ると、明らかに今までの奥さんとは違っていた。雰囲気も違えば、まるで別人のようである。

――こんな聡子さんは見たくない――

 と実際にそう思ったのだ。

 すでに二人は気持ちの間では結ばれていた。聡子の方とすれば、別に旦那が嫌いだったわけではないが、今回のノイローゼ騒ぎの中で、自分もノイローゼになっているくせに、何も行動を起こそうとしない旦那に対して、次第に愛想を尽かしていた。

 それにも関わらず、自分たちと関係のない氷室という男は、自分のことが好きだというだけのことで、危ない橋を一緒に渡ってくれようとしてくれている、そんな彼のことを自分が好きにならない道理はないとまで思うようになっていた。

 犬を殺すことに関しては、氷室の立てた計画に沿って行われた。奥さんの匂いを付けた氷室が侵入し、毒を盛った、奥さんの匂いは犬も知っていたのだ。

 しかも、その時の犬はすでに死の直前で力もなかった。その時奥さんは、犬が不治の病だったなどと、まったく知らなかったのだ。

 二人で犬を殺すことに成功し、これから不倫を続けていくつもりだった奥さんだったが、何かの拍子で、犬が不治の病であったことを知る。その時、奥さんの精神に何か違和感がこみあげてきた。ノイローゼが解消された喜びと、何か気持ちの悪いものを噛み潰したかのような感覚に、身体中が震えてくるのを感じたのだ。

 その時、我に返ったと言ってもいいのか、それとも、かつてのノイローゼが解消したはずなのによみがえってきたと言えばいいのか、

 そんな状態で、奥さんは。不倫を続けることを選んでしあったのだった。

 ノイローゼでなければ、ここまでの気持ちにはならなかったかも知れない。それを思うと、ノイローゼがどうして戻ってきたのか、そして、その原因はどこにあるのかを考えていくと、やはり行き着く先は、

「不倫関係」

 でしかなかったのだ。

 この関係を何とか解消しなければいけない。かといって、元の鞘、つまりは旦那の元に戻り、以前の生活をするということはもう無理だった。今のノイローゼ状態が変わらないどころか、増幅してくる可能性があり、しかも、自分で自分を制御できなくなるということが自覚できる気がしたからだった。

 その時考えたのが、自殺未遂であった。

 奇しくもこの考えは、以前氷室だけに明かしてくれた教団仲間のあの自殺未遂の発想に酷似していた。氷室が感じたのは、

「自然現象の中で、原因不明のジレンマに陥ってしまうようなことになると、このようなじさつぃ未遂願望という安直な発想になるのだろうか」

 というものだった。

 安直で陳腐だと、教団で自殺未遂をした経験のある男は言っていた。だが、結果は恐ろしいほどうまくいき、自分の存在感が戻ってきて、自殺未遂という陳腐な発想は、形としても記憶としても残らなかった。もちろん、かすかに覚えている人もあるだろうが、あくまでもただの薄い記憶のようなものでしかない。思い出すことが誰かにあったとしても、きっと次の瞬間には忘れているレベルのものであろう。

 そんなことを考えていると、奥さんが言い出した自殺未遂も分からなくもなかった。

 ただ、この発想は自分が自殺をするだけではなく、

「あなたも一緒によ」

 と言われた時はショックだった。

「こういうことは私一人でやっても効果がないの。あなたも一緒にやってこその効果なのよ」

 と奥さんは言った。

 氷室は驚愕した。

「あの聡子さんが、こんなことを言い出すなんて」

 と感じた。

 そう、

「「この」

 ではなく、

「あの」

 だったのだ。

 遠くを見る目を氷室は感じた。

――俺は一体何をしていたんだ――

 我に返ったと言ってもいい。

 主婦を好きになって、その女のまるで言いなりになってしまい、犬を殺すということに手を貸してしまった。それなのに、この女は自分だけ罪の呵責に苛まれ、勝手にノイローゼになった。それは解消させてやったはずのノイローゼだったのだ。

 相手がどういう人間かということを差し引いても、自分のやったことの虚しさと情けなさ、それは彼女が感じた、

「自分が手を下さなくても、結局は死ぬことになったんだ」

 という犬に対しての思いと同じだったのかも知れない。

 そんな彼女が、自分にも自殺未遂を強要した。女は自殺未遂が必須なのかも知れないが。氷室にはまったくそんな必要などないのである。それを思うと、氷室の中で、もう女への未練もなかったのだ。

 女に対して、

「よし、分かった。一緒に自殺未遂しよう」

 と語りかけておいて、結局はオンナだけを自殺に見せかけた。

 そう、本当は奥さんは自殺することになるだけだった。しかも、自殺をしたのは、ここではなく自宅であった。

 何と、彼女を殺したのは夫の梶原だった。彼が奥さんを殺しておいて、死体を教団の一室に放置するという計画を立てた。その共犯者として、氷室にやらせたのだ。

 氷室は不倫を知っていて、その現場を押さえていた。

 しかも、奥さんの自殺は、氷室の協力があったことも証拠迄握っていたのだ。こうなってしまうと、氷室は協力しないわけにはいかない。そもそも女一人とはいえ、もし他で殺されて運ばれてきたのであれば、一人でできるはずもない。

 自首してきた、氷室は旦那の計画も自分の自首の手土産として持ってきたのだった。

 これが真相であった。

 奥さんは元々は自殺のつもりで氷室に言われ、睡眠薬を服用した。一緒に睡眠薬を飲むと思っていた氷室は呑まずに、致死量の睡眠薬を飲んで眠り込んでいる彼女を密かに家に運んだのだ。それを旦那に見つかり、といっても、旦那は最初から分かっていたので、その状態をネタに脅迫し、奥さんを殺して、教団に運ぶことを氷室に指示した。

 穂室は完全にビビッてしまって、ナイフを突き刺す前に、すでに彼女は死ぬということを言えなかった。いや、後のことを考えて敢えて言わなかったのかも知れないが、それは何とも言えない。

 氷室がどうして自首を考えたのかというと、警察がやってきて、犬のことまで警察は分かっているというのを、梶原に聞かされたからだった。

 まさか梶原も氷室がこんなにあっさりと自首するなどと思ってもいなかっただろう。氷室は完全に観念して正直に警察の聴取に答えていた。

 それを梶原は知っていたのか、氷室の聴取が終わって、梶原への逮捕状が出るのを待って、いよいよ踏み込んだ時、部屋の中で梶原の自殺死体が発見された。

 梶原の遺書に書かれていたことによると、彼には反省はなかったようだ。奥さんを殺したのは本懐であり、この自殺が一種の反省のようなものだと書いている。そして、自分が一番後悔しているというか、終わりだと感じたのは、妻が睡眠薬を飲んでいて、死ぬ運命にあったということだった。

 つまりはじの事件において、犬を含めると、何もしなくても死ぬ運命だったものを、行動を起こしたことで、その人に致命的な思いを抱かせ、それが自殺に繋がったということだった。

「こんなに虚しい気持ちになったことは、久しくなかったな」

 と、清水刑事がいうと、

「一体、我々は何をしたというのでしょうね? ひょっとすると警察の捜査で、真相をつぃきとえるということは、どこかで罪悪を形成していることになるんじゃないでしょうか?」

 と辰巳刑事がいうと、

「本当に、やるせない」

 と言って、二人は一緒に大きなため息をつくのだった……。


                  (  完  )

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自殺を誘発する無為 森本 晃次 @kakku

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