第8話 双方のジレンマ

 二人は、梶原青果店を後にしたが、とりあえず清水刑事はいったん署に戻って、辰巳刑事が近所でこの夫婦のことの聞き込みを行うことにした。

 まずは、正面の家も魚屋を営んでいたので、同じ商売者同士、話もあったかも知れないと思い訪ねてきた。

「すみません、警察のものですが」

 と言って声を掛けると、

「はい」

 という少しハスキーな女性の声が聞こえた。

 どうやらおかみさんのようである。

「警察のものですが、少しお話をお伺えできますか?」

 と聞くと、

「いいですよ。って、これはお向かいの奥さんが殺されたというお話の件ですよね?」

 と聞かれたので、

「ええ」

 と苦笑しながら辰巳刑事は答えたが、相手が最初から前傾姿勢で聴いてくれるのはありがたい面もあったが、どこか調子の狂うところも辰巳刑事にはあった。

「お向かいの奥さん。旦那さんがどういったか知りませんが、例の宗教団体の連中からは結構人気があったようですよ。気さくな奥さんだし、それに比べて旦那sなは気難しそうなところがあるので、その分、奥さんの気さくさが目立ったでしょうね」

 と、人間分析を語り始めた。

 辰巳刑事は言葉を発せず無根で頷くと、おかみさんは続けた。

「そんな時、奥さんと教団の一人の男性とが仲がいいというようなウワサが立ちましてね。なるべく、梶原さん夫婦にはそのウワサが流れないように注意はしていたんですが、何と言っても主婦同士のウワサなので、なかなか戸を立てられるものではありません。奥さんの耳には入っていたようですね」

 という話を聞いて。

「旦那さんは知っていたんしょうかね?」

 という辰巳刑事の問いに、

「それは分かりませんが、知っていたという可能性よりも、知らなかったという可能性の方が、かなり低い気はします」

 と、曖昧だが、ある意味分かりやすい回答をした。

――この奥さん、さすがは商売人、弁が立つというのは、こういうことをいうのだろう――

 と思った。

 辰巳刑事もおかみさんの見解は、ほとんど的を得ていると思った。その言葉に信憑性はあり特に話好きの奥さんで、知っている話題は人に話さなければ気が済まないと感じている人は、ウソをいうようには思えなかったからだ。

 ウソを言ってしまうと、せっかくの話も無駄になってしまう。話を盛るにしても、そのほとんどは真実でなければ、いくら盛った話をしても、話をしている本人が、まったく楽しくないというのは、本末転倒な話であろう。

――ここにいない清水刑事がこの奥さんの話を聞いたとしても、自分と同じことを考えたに違いない――

 と思うのだった。

「ありがとうございます。そのあたりはこちらでも調査してみましょう」

 と辰巳刑事は言った。

 その後、奥さんがいくつか情報をくれたが、そのほとんどは旦那の梶原の話を裏付けるくらいのものであった。それ以上の話は、今の段階では無用だと思ったが、一つ思い出したように、

「ああ、そうだ。少し前から犬が遠吠えのようなことをしているという話を聞いたことがあるんですが」

 というと、

「ええ、ありましたね。梶原さんのところもうちも朝が早いので、結構悩まされましたよ。でも、一月くらい前から急に声が聞こえなくなったんです。死んだんじゃあないのかな?」

 と奥さんは言った。

「そんなに年の犬だったんですかね?」

「年齢までは分かりませんでしたが、犬などの動物って、死の時期が分かるっていうじゃないですか。自分の死期を犬が悟って、それで寂しい気持ちになって、飼い主を呼ぶんだという話を聞いたことがあります、きっとあの犬も自分が死ぬといういことを知っていて。寂しがっていたのかも知れませんね」

 という話を聞いて。

「そうかも知れませんね。私は犬は飼っていませんが、犬好きの人から、似たような話を聞いたことがありました。やっぱりそういうことだったんですね」

 と辰巳刑事は言った。

 その奥さんからは、もうこれ以上の話は聞けないと思った辰巳は、最後に、

「さっきの犬の話ですが、どこで飼われていた犬かご存じですか?」

 と聞くと、

「ああ、三軒先のお宅で飼っていた犬ですよ。以前は決まった時間に散歩させていたので、よく飼い主の方が連れている犬をよく見ました。でも、さっきも言ったように、吠える声が聞こえなくなってから、散歩をさせている姿を見なくなりました」

「なるほど、よく分かりました」

「あそこの飼い主は結構話好きで気さくな人だったんですが、犬を吊れていない時に出会うと結構期限が悪かったように思います。」

「それは犬がまだ吠えている時からですか?」

「ええ、そういう傾向はありました。ペット依存症の人は結構いると聞きますからね。きっとそうだったじゃないかって思います。でも、遠吠えが聞こえなくなってからは、もっと不機嫌になりました。ひどくなったというか、違う種類の不機嫌さではないかと思うような感じですね」

「まったく人が変わってしまったような感じなんですぁ?」

「そこまではないと思います。でも、同じ人間が性格の違いを見せる時の、一番極端な例ではないかと思うくらいのものですよ。あんな人は珍しいカモ知れませんね。やはりペット依存症のなせる業なんでしょうかね」

 とおかみさんは言った。

 そのおかみさんの言葉を胸に、おかみさんにはお礼を言って、魚屋を後にした。

 おかみさんから教えてもらった、三軒先の家に行ってみることにした。このあたりは商売をしているか、あるいは、昔からの屋敷が残っているという感じで、三軒先と言っても結構歩く感じだった。塀にはまるで家紋をあしらったかのような瓦屋根の先についている鬼瓦のような円形の模型にが、埋め込まれていた。それを見るだけで、このあたりが旧家の屋敷跡に思えてきた。

 戦後の探偵小説などに出てくる日本家屋の屋敷と言った雰囲気で、それを見ていると、昔読んだ探偵小説を思い出していた。

 旧家というと、まず思いつくのが、遺産相続関係のドロドロとした人間関係。当主が死の床に就いていて、明日をも知れぬ命である状態で、親族縁者が集まってきて、

「しっかりしてください、お父様、ご遺言を」

 などという、いかにも遺産だけのために集まってきたかというような探偵小説のお話、少しは盛っている部分もあるだろうが、決して根拠のないものではないだろう。

 もっとも、皆、心で思ってはいるが、口に出さないだけというのは、一般俗世間の状態なのかも知れない。

「どうせ助かるわけでもないんだから」

 という思いが一番であり、その思いとともに下手をすれば、死ぬなら早くとまで思っている人もいるかも知れない。

 バチ当たりと言えばバチ当たりだが、それだけで片づけられないから、殺人事件に発展したり、探偵小説のネタになるのだろう。

「人間は金が絡めば、鬼にもなれば蛇にもなる」

 ということなのであろうか。

 確かにお金が絡めばいろいろな思惑が孕んでくるのだろうが、さすがにこのあたりで殺人事件というのは発生していない。だが、考えてみれば、当主の死がハッキリしている中で、遺言状を書きかえるなどと言った問題が生じれば。遺産相続対象者の中で、損得がハッキリしてくる中で、死が分かっている当主を秘密裏に殺すということもありえるだろう。

普通であれば、放っておいても死ぬ人なので、

「わざわざ危険を犯してまで殺人をしないだろう」

 という思いがあるからで、裏での細かいやり取りが見えない中で並行して進行することで、いつの間に蚊殺意を生んでいることもないとは限らない。その場合は、きっと完全犯罪を形成することができる状態なのだろう。

「三軒目というのは、ここだな?」

 と思って、門の前に佇んでいると、立派な門構えにふさわしくない一人の老人が、

「どなた様かな?」

 という声を掛けてきた。

「私は、K警察署の辰巳というものですが、すみません、少しお話を伺え明日でしょうか?」

 と辰巳刑事は言った。

「ええ、構いませんよ、それでは今から門を開けますので、門を開いたらお入りください」

 と言って、老人は奥に入って、門を開けた。

――あの人がこの屋敷の主人なのかな?

 もし、使用人であれば、

「ご主人様にお伺いを立てますので」

 というような言葉を発するに違いない。

 それがなく、自らで迎えるということはやはりあの老人がこの家の当主なのだろう。

 門はゆっくりとした、それでいて一定のスピードで開いていく。完全に門が開いたところで、辰巳刑事は敷地内に入った。

「お邪魔します」

 と言いながら、庭を見渡していた。正面には屋敷への入り口があって、その左側には大きな庭があるようだった。少し進むとその庭が見えてきたので、少したたずんで見ていると、盆栽を大きくしたような松の木があったり、その奥には池があり、池のほとりに見える灯篭、さらに池の上には粗末ではあるが、橋のようなものがかかっていた。

「どこかで見たことがあるような光景だな」

 と思わずつぶやくと、

「ほう、刑事さんにもお分かりかな?」

 と、老人は自分の家の庭を褒められているような気がして嬉しかった。

「どこかで見たような……。ああ、そうだ、兼六園の雰囲気じゃないのかな?」

 というと、老人はいかにも嬉しそうに、

「ご名答じゃ、わしの苦心の作とも言っていい、ミニチュアの兼六園じゃよ」

 と言った。

「ご主人は、設計士か何かですか?」

 と訊かれると、

「ええ、若い頃は土建屋で設計士をしておったんですがな」

 というではないか。

「これだけのお庭ともなると、整備も大変でしょう?」

 と聞くと、

「そうですな。植木だけでも毎月来てもらっているからな」

 と言われて再度松の木を見ると、なるほどしっかりと手が加えられていることが、素人の自分にもよく分かると、辰巳刑事は感じた。

「刑事さんは、この先の青果店の奥さんが殺された事件を捜査しておいでかな?」

 と、先に訊かれたので、少し戸惑った。

 だが、それだけこの老人もその事件のことが気になっているということであり、なぞそこまで気になるのかを考えてみた。

 今までの分かっていることから、この老人が事件に関わっているということはありえないだろう。辰巳刑事がここを訪れたのは、あくまでも被害者の旦那さんが言っていた一言があったからだ。あの時、旦那が犬の話などを思い出さなければ、この老人と生涯会うことはなかったかも知れない。

「ええ、あの事件を捜査しております」

 というと、

「はて? 私どもはあの家族とは何ンら面識があったわけではないんですよ。どうした意味で私どもに話を伺うと言って、馳せ参じたのかな?」

 と聞かれたので、

「事件に直接関係のあることではないんですよ。実は殺された奥さんの旦那さんが、言っていた話なんですが、数か月前から犬の遠吠えのような声に悩まされていたと言っていたんですよ。で、その声を一か月くらい前から聞こえなくなったということを聞いたので、それが夫婦の間で微妙な関係を形成していたということなので、その裏付けをしようと思って訊ねたんです」

 半分は本当のことであったが、半分はハッタリであった。

 それを聞いて老人は、

「はて?」

 と言いながら、自分にはよく分からないというような顔をしていた。

「いかにもうちには、ずっと犬を飼っておりましたが、最近死にましてな。今まだわしは寂しいと思っていたところだったのだが」

 と言った。

「ええ、そのことなんですが、お気を悪くされないほしいと思いますが、このあたりは、青果店や鮮魚店が多いので、皆さん朝が早い方々ばかりなんですよね。それで、深夜の犬の遠吠えが気になって寝られないというような話を聞いたものですから、どのような状態だったのかということをお伺いできればと思ってきてみました」

 と辰巳刑事は言った。

「そうなんですか。ご近所さんには悪いことをしましたな。でもわしもこの歳になって、家族は皆独立して、女房にも数年前に先立たれてらというもの、使用人が数人構ってくれる程度で、実に寂しい思いをしておりました。そんなところで、犬でも飼えばいいと言われて、飼ってみることにしたんですよ」

 ということだった。

「お気持ちがよく分かります」

「でもですね。寂しさから犬を飼ってみたはいいんですが、その犬というのが、ずっと元気だったんですが、どこかで急に病気になったようで、まだ若かったのですが、その病気が元で死んでしまったんですよ。本当はわしのほうが先に死ぬ予定だったので、わしが死んでからのことも手配はしていたんですが、まさかあの子の方が先に逝ってしまうとは思ってもいなかったので、家内を亡くした時のことを思い出して、さらに寂しさがこみあげてきました」

 という話を聞くと、さすがに辰巳刑事も、ホロッとした気分になった。

「私はペットを飼ったことはないのですが、飼っていたペットが死ぬと、当分は気の毒でそれから別の子を飼ってくる気にはならないんです。ですから、ペットを飼うようなことはないと思っているんですよ」

「それはきっと子供が嫌いな人に自分の子供が生まれると急に子煩悩になったという話と同じなんじゃないかな?」

 と老人は言った。

「ところで、犬が吠えたというのは、どうしてそんなに吠えたんでしょうか?」

「これは想像でしかないけども、犬には犬で死ぬのが分かっていたんじゃないかな? あまり吠えるので、わしは病院に連れていってみたのですが、最初は犬が吠えるのが別に原因があると思っていたんですが、まさか不治の病だったとは思ってもいなかったんです。最初に医者からそれを聞いた時はショックでしたよ。その思いが犬にも伝わったのか、わしを見る目が潤んでいて、何かを求めるような目になったんですよ。それを見ると、可愛くて仕方がなくなって、抱きしめたくらいです。でも、その頃から悲しく吠えるようになったんですよね。本当に遠吠えという言葉がピッタリで、その声を聞いた時、かわいそうで、やめなさいとは言えなんだんです。きっと夜に吠えるというのは、今まで感じたことのない怖さを感じたんでしょうね」

「まだ、若かったんでしょう?」

「ええ、人間でいえば、まだ成人したばかりだったんじゃなかったんでしょうか? それを思うと可哀そうで仕方なかったし、短い命なだけに、ずっと一緒にいてやろうと思っていました。でも、本当に悲しそうに鳴くんです、それは本当に胸を締め付けられる思いですよ」

 と、老人は言った。

「そんなに可哀そうだったんですね。お察しします」

 と辰巳刑事がいうと、老人は、

「わしの犬のせいで眠れなかった人たちには気の毒なことをしたと思いますが、もう、他界してしまったので、お許しを願いたいと思っているところですね」

 と言った。

「私が来たのは、そのことがどうのではなかったんですよ。たぶん、そういうことではないかと八百屋のご主人さんは想像していたんですが、それが事実かどうかを確かめようと思いまして、要するに、いつ頃、犬の鳴き声に悩まされていたかということを確認することで、奥さんの方の西晋状態は少しでも分かればいいと思いましてね」

 と話した。

「そうなんですね。ご主人の証言とは合いますか?」

「ええ、話は時系列としても辻褄は合っています。だからご主人の話には信憑性はあると思いますよ」

 と老人は言った。

「犬はいつ亡くなったんですか?」

 と聞くと、老人は少し苦虫を噛み潰したような表情になり、

「一月ほど前です。ただ……」

「どうしました?」

「実は、殺されたんじゃないかって思ったんです。病院ではまだもう少しは生きると言われていたんですが、吐血して死んでいたんです。吐血するようなことは医者から言われなかったのもあって、しかも、死に顔が苦痛に歪んでいたんで、あれはやはり、病死ではないと思うんですよ」

 と老人は言った。

 この証言は、辰巳刑事には晴天の霹靂で、衝撃を与えるものだった。もしその通りだとすると、

「誰が、何の目的で?」

 ということになるのだろうが、

「目的は何であれ、殺されたとなると、話が変わってくるからな」

 と、老人は言った。

 辰巳刑事としては、

「殺されたということになれば、問題はその目的だ」

 と思っていた。

 これは飼い主の気持ちと警察関係の人間との考え方の決定的な違いであるが、問題は、犬が殺されたかも知れないということと、今回の八百屋の奥さんの殺害との間に何か関係があるかも知れないというのは、考えすぎであろうか。

 今までなら、

「そんなのはただの偶然だ」

 と考えたであろう辰巳刑事であったが、今回に関しては。ただの偶然では片づけられないと思うのだった。

「ところで、ご老人、お宅の犬が、不治の病であるということを、近所の人は知っていたんですか?」

 と訊かれて、

「最初は知らなかったはずだけど、途中から知っていたんじゃないかな?」

「それは、犬が死ぬ前からですか?」

「そうだと私は思っていましたが言われてみれば、今から思えば微妙です。ひょっとするとすれ違いくらいだったのかも知れないと思っています」

「じゃあ、殺害された八百屋の奥さんもご存じだったんでしょうかね?」

「分かりません。でも、微妙だったような気はしますね」

 と老人は言った。

 この「微妙」という期間が実に問題だった、

 辰巳刑事が思うに、この犬を殺害したのが、奥さんだとすればm何か今回の事件に関係があるとしてそちらの視点から捜査してみようと思えるであろう。しかし、違っていれば、見込み違いになるということで、かなり回り道の捜査になるということである。それを思うと、この曖昧さは重要な曖昧さであった。

「犬の死を不審に思って、調べてみようとは思わなかったんですか?」

 と辰巳刑事は訊いたが、

「どちらにしても死を免れられるわけではなかったので、死んだことに対して覚悟ができていたことで、下手に騒ぎ立てるよりも、静かに送ってやろうという気になっていたのは事実でした。今から思えば、ハッキリさせるべきではないかと思ったのですが、それもできずに、死んでしまったんですよね」

「犬はその後、どうされました?」

「本当は保健所に連絡をすべきだったんでしょうが、せっかく縁があってわしのところに来たのだから、わしだけの手で葬ってやろうと思い、庭に埋めております」

 と言った。

「それは、棺桶のような箱を用意してですか?」

「いいえ、穴を掘って、そのまま捨てました」

 というではないか。

 一月ほど前に死んだ犬の死骸を、掘った穴の中に捨てたのだということであれば、腐敗はひどいものであろう。棺桶に入れていなかったとなれば、余計にそうであろうから、いまさら保健所で引き取って、解剖などの手配をしたとしても、ハッキリとした死因を特定することは難しいであろう。

 そうなるとすべてが想像でしかないが、想像が許す限りにおいては、辰巳刑事の中では、今回の事件は、犬の死と関連があるという結論に限りなく近づいているような気がする。辰巳刑事は自分の思いが本当は違っていてほしいという思いもあるので、真実だと思っている内容とのジレンマに悩んでしまうことになった。

 そんな飼い主と犬の気持ちを知る由もない、

「身勝手な犯人」

 がいて、その犯人が、ノイローゼになることで、耐えられなくなる自分や家族の衝動を代表し、行動に移したのが、犬殺しなのではないだろうか、

「相手は、犬だから」

 という気持ちがあったとすれば、それは大きな間違い。

 犬だからこそ、人間の癒しになっているのだから、そんな犬に手を掛けるというのは、卑怯なことであるかのように思うのは、無理もないことだと、その時に辰巳刑事は感じた。

 ただ、これは猪突猛進的な考えに、さらに人情深い考えを持っている辰巳刑事が、老人と犬という立場から考えたから、そう思い込んでしまったのだろう。

 だが、本当に犬のためにノイローゼとなってしまい、いくら犬とはいえ、殺そうとまで思ったのだから、その人の気持ちも思い図らなければいけないだろう。そのことを忘れて、一方的に考えたとすれば、辰巳刑事は盲目であったのではないだろうか。

 今から思えば、あの時梶原氏はなぜ、犬のことを持ち出したのだろう? 黙っていれば、老人や犬と知り合うこともなく、辰巳刑事の中で、

「奥さんがノイローゼから、犬を殺害した」

 などという理屈は出てこないだろう。

 ただ、これが今回の奥さんの殺害されたことと関係があるかも知れないと旦那が思っているのだとすれば別問題だった。もし、そう思っているのだとすれば。旦那が今回の事件の犯人に繋がる理由と、その犯人が誰かということを知りたくて、敢えて奥さんの犯罪かも知れないと思いながらも、恥を忍んでヒントを与えたのかも知れない。何しろ旦那には捜査権も何もないのだから、、自分のやりきれない気持ちをジレンマに感じながら、辰巳刑事に託したのかも知れない。

 そう思うと、今度は、

「老人と犬も可哀そうだが、梶原夫妻も可哀そうな気がしてきたな」

 と、今まで恨んでいた相手の哀れみを感じてくるという、こちらもジレンマに陥ってしまっていた。

 そんな風に事件をいろいろな面で考えていると、これは今に始まったことではないのだが、

「いくつものジレンマを感じるということは、それだけ、見えてくる真実というものが、本当に探す必要があったのかと思わせるものなのかも知れない」

 と、辰巳刑事は感じていた。

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