後編 ティッシュのような良心

『気を取り直して第七レース。1番。アーレダウア、チョムスキー……』

 

 放送が淡々とがなりたてた。馬頭どもがこちらに近づいてくる。

 走馬は馬頭に難癖なんくせをつけられるかもしれないと思い、すぐにまきびしをポケットに隠した。


 


 スタートラインの前に、選手たちが一列に並べられる。

 走馬と猪野も。

 猪野が励ますように言った。

 

「よくわからんが、きっとそのうち終わるだろう。それまでがんばろう」

「は、はい」

「俺もがんばって帰るぞ。まったく。普通に帰ったら今頃娘の誕生日会だったのに」

 

 馬頭のスターターが銃を空に向けた。

 

『よーい、ドン!』

 

 放送、即座に発砲音。

 それを合図に、走馬も猪野も各国の選手たちも、全速力でレーンを走る。

 

  

  

 最下位でゴールした選手は、馬頭によって、抵抗虚しくドアの奥へと引きずられていく。

 その度に、パネルに不吉な肉の映像が映るのだった。

 

『よーい、ドン!』

 

 ゴールに辿り着いても、疲れ果て倒れれば、やはり馬頭に連行された。

 

『人刺のお求めは軽食売り場まで』

 

 目に見えて、周りの選手が少なくなっていく。

 走馬そうま猪野いのはレーンを走り続けた。脚は重く、汗の冷たさが不快で、息が苦しい。

 それでも、死にたくなかった。

 

「走馬ー!」

 

 猪野はぜいぜいと走りながらそう叫び、走馬を励ましてくれる。

 

「コーチ!」

 

 息苦しさに顔を上向け、走馬も返した。

 

「走馬ー!」

「コーチ!」

「走馬ー!」

「コーチ!」

  

 二人は走っている間、ゴールするまで呼びかけあった。

 その甲斐あって、最下位になることはなかった。

 



 グラウンドに残った選手はあと数人というところか。

 肩で息をする猪野はあたりを見渡してから、フラフラとした足取りでスタート地点にもどる。

 走馬は、少しでも気を抜けば立っていられない疲労に膝を震わせ、過呼吸のようにゼーハーと息をし、コーチの後を追おうとした。

 横から見覚えのある金髪の日本人に、馴れ馴れしく肩を組まれるまでは。

 

衛宮えみや選手……?」

 

 衛宮えみやは汗で冷たくなった腕を曲げ、走馬の首をガッチリ挟む。ヤンキーのような鋭い目つきでこっちを見据えて。

 荒く息をしつつ、彼はコソコソと早口で言った。

 

「あんた日本人だよな。聞け。ここは最終レース上位2位までの選手だけが解放されるんだ」

「……なんでそんなこと知ってるんですか。まさか」

 

 あの馬頭の仲間だとでもいうのか?

 そんな走馬の疑念を察したのか、衛宮は小刻みに頭を振った。

 

「俺は以前、宇賀うがとこの大会で優勝したことがある。宇賀は今回オーエンにめられてヘマしっちまったが」

「宇賀選手もあのまきびしを……」

「あんた、助かりたいなら俺に協力しろ」

 

 突然の要求に、少し混乱する。

 

「なんで俺が? それにできることなんてありません」

「一緒にいる日本人をめろ。見てたぞ。オーエンのまきびし拾ってただろ」

 

 もっと混乱する要求だった。

 

「コーチを?」

「あいつは生き残ろうと必死だ。火事場のバカ力ってやつか? このままだと最終レースでゴールするのはあいつ、次に俺かあんたと見てる。あんたも早いな。俺が現役オリンピック選手だったら余裕だっただろうが」

 

 何を言っているのだろう。この男は。

 

「俺にはあなたを助ける理由なんてありません」

 

 わざとそっけなく言い、肩にかけられた太い腕を振り払って逃れようとする。が、力強い腕は、走馬を容易に放してくれなかった。

 

「俺にもあんたより遅く走る理由がない。それに俺にまきびしは効かないぜ。もう知ってるからな」

「……」

 

 それは確かにそうだ。

 

「ゴールするのはあんた、俺だ。それならあんたも俺も確実に生き残れるんだよ」

 

 言いたいことは言ったとばかりに、衛宮の固い腕の力は緩んだ。

 走馬はすぐに足を動かし、スタート地点まで戻った。

 そこには、すでに猪野が立っている。

 彼はキョトンと首を傾げていた。

 

「衛宮選手となにか話してたのか?」

「まあ……。このレースが狂ってるって」

 

 ボソリと嘘を言ったと同時に、熱気が充満した観客席から、たちまちやかましいブーイングが渦巻いた。

 

「狂ってる? もとはといえば人間が我々馬にしてきたことだろ!」

「娯楽のために馬を酷使した因果応報。今更被害者ぶってんじゃねえ!」

 

 走馬も猪野も、げっと腰を抜かしそうになる。

 

「聞こえてた?」

『まあまあみなさん。次のレースが始まりますよ〜』

 

 放送が大音量で取りなす。

 

『位置について、よーい、ドン!』

 

 何度も何度も走らされ、何人も何人も消えた。

 どんなに苦しくても、走馬は走る。命が惜しいから。

 猪野もまた、苦しさに泣きながら走る。

 

「まおちゃん、パパ誕生日に行くからね。いつも忙しくて遊べなくてごめんね」

 

 呪文のようにつぶやく猪野が、そのレースでは一番にゴールした。

 最下位の選手やバテた選手は、早々に奥へ連れていかれた。彼らの末路は、パネルにパッと映された肉の映像が示している。

 走馬はそれを見上げながら、こぶしを握って震わせた。

 自分は人間だ。人間には、良心というものがある。だから馬とは違うし、馬より偉いんだ。

 コーチはいつもよくしてくれた。

 朝から晩までどうすればもっと早く走れるのか、グラウンドで一緒に考え、一緒に走った。

 走馬がいい結果を出せば、自分のことのように喜び、ゴールまで駆け寄って抱きついてきたこともあった。

 良心に従うなら……。

 コーチには娘さんがいるから。世話になったから。いい人だから。だから。だから……。




 いつの間にか、スタート地点に残っている選手は三人だけになっていた。

 汗びっしょりの走馬と猪野。ヤンキーみたいな目で走馬にチラチラ視線をよこす衛宮。

 

『さあいよいよ最終レース。残ったのは全員日本人。誰に賭けるか決まりましたか?』


 放送が煽れば、馬頭の観客は大喜び。

 猪野も喜んで笑う。

 

「やったぞ。あともうひとふんばりだ。絶対生きて帰ろうな」

「はい。生き残ります。絶対に。だから……」

 

 三人はスタート地点に並んだ。

 膝をつき、ダッシュの準備する。

   

『位置について〜。よーい』

 

 間抜けな放送。波のような騒がしい歓声。

 走馬の発する、低くか細い声。

 

「……許してくれるよね」


 その声に、猪野が振り向きかける。


『ドン!』

 

 けたたましい発砲音がしたので、それは叶わなかった。

 日本人三人は、一斉に走り出す。

 走馬は走る苦しみにあえぎながら、猪野の足元にポイっとまきびしを投げた。

 



 表彰台に登れば、スタジアムじゅうが歓喜の声で満たされた。

 馬頭のスタッフによって、ヘトヘトの走馬の首に金メダルがかけられる。

 隣の満足げな衛宮の首には銀メダルが。

 走馬は自分の正しさについて考えていた。

 俺だって若いし。オリンピックでメダル取る夢あるし。親や友達が悲しむし。結婚して家族とかほしいし。

 誰かの娯楽のために死ぬなんて、たまったもんじゃないし。

 選択が正しかった理由はいくらでも見つかる。だからやっぱり正しかったと思う。

 讃えるような放送がされた。

   

『両選手に賭けた方はもう賞金ゲッドしましたか〜?』

 

 オリンピックメダリストの衛宮並みに走れるようになったのも、コーチの訓練の賜物だ。

 本当にいいコーチに恵まれた。感謝している。他に感謝できるのが人間だ。だから馬より偉い。

 走馬は晴れやかに金メダルを掲げた。

 

「コーチ、あざーっす!!」



 会場をワァっと、一際大きい歓声が包んだ。

 人間が自らの存在の特権の理由として主張する人間の良心は、ティッシュのごとくであり、人間は馬以下の存在であることが、今ここに証明されたからである。

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