競人

Meg

前編 人間版競馬

 陸上競技のスタジアムにぎっしりつめこまれた観客は、全員馬の頭を被っている。

 ワァッとドームじゅうに満ちる歓声。渦巻く馬頭の観客の熱気。

 

『第100回世界競人開始〜! 人が命がけで走るこの戦い。誰に賭けるか決まりましたか?』

 

 興奮気味な放送はかなりの大音量。うるさすぎる馬頭の歓声に、全くかき消されていない。

 突然グラウンドのど真ん中に立たされた阿部あべ走馬そうま猪野いのは、この意味不明な状況に、並んでぽかんと立ち尽くすほかなかった。


猪野いのコーチ、ここどこなんでしょう? 確か練習終わりに休憩室で誰かに襲われて……」

 

 走馬は猪野に尋ねるが、彼も目を瞬かせていた。

 

「ひょっとして俺たち拉致されたのか?」

 

 知らないうちに着させられているのは、陸上競技用の服。走馬は現役の全日本陸上選手、猪野はそのコーチだったから、着慣れた服ではあった。

 スタジアムに響く大音量の放送が、淡々と名前を羅列し始める。

 

『1番。ナミビア、ビアン・ジョゼフ。2番。アルメニア、ニラスキ・ジヴァーノ……』

 

 白線で区画分けされた、100m走のスタート地点に、続々とそわつく人々が連れてこられる。みんなが着ているのは、走馬たちと同じ陸上競技用の服。

 ずらりと並ばされた彼らの、肌の色や体格はさまざま。戸惑ったような話し声にも、英語や知らない言語が入り混じっていた。

 

『3番。日本、宇賀うがかける。4番。日本、衛宮えみや信昭のぶあき……』

 

 放送と一緒に、のっぺり顔のアジア人が二人ばかり、数人の馬頭のスタッフに引きずり出された。

 一人は黒髪の角刈り。一人は金の短髪。どちらも細身ながらも体格がいい。

 猪野はそれを見て、驚いたように指差す。

 

走馬そうま。あれ宇賀うが選手と衛宮えみや選手じゃないか? オリンピックメダリストの」

 

 走馬は目をこらし、緊張した様子のその日本人二人を凝視した。

 テレビで見た覚えがある。

 黒髪角刈りで真面目そうな宇賀うが。金髪でヤンキーみたいな衛宮えみや

 

「本当だ。でも二人は今カナダにいるってニュースで見ましたけど。どうしてこんなところに」

 

 輝かしい経歴と才能ある肉体を持つ彼らはしかし、肩で息をし、日焼けした皮膚には、いく筋もの滝のような汗を垂らしている。

 特に宇賀駆は顔色が悪く、表情を歪め、いかにも辛そうだった。

 それでも、居並ぶ蒼白な選手たちがスタートラインの前でしゃがむと、彼は慌てたように真似して膝をついた。

 脅されでもしているかのように。

 スタートラインの脇に立つ、馬頭のスターターが、上空に銃口を向ける。

 パンっと音が弾けると、選手たちが一斉に走った。

 風のような彼らの走りに、馬頭の観客の歓声はうねり、熱狂はより増幅する。

 宇賀うがは歯茎を剥き出しにしながら走っている。苦しそうな彼は、不意に何かにつまずき転倒した。

 

「あ」

 

 走馬と猪野があっけにとられているうちに、ほかの選手の筋肉質な足は、どんどんゴールのラインを踏み越えていく。

 宇賀が遅れて最下位でゴールすると、スタジアムはブーイングで溢れかえった。

 馬頭のスタッフがグラウンドの白のラインをズカズカ踏み越え、宇賀を取り囲んだ。力つきた彼の腕を、強引に引き立てる。

 

「助けてくれ。もう一度チャンスを……」

 

 馬頭の誰も、かわいそうな日本人の哀れな懇願に耳を貸さなかった。

 彼はスタジアムのスタッフの出入り口らしきドアの奥へ、捕食者の口のような闇の奥へ、引きずられていった。

 残念そうな放送の声が流れる。

 

『最下位に終わった日本代表の宇賀。しかし前半戦で見せたその筋肉は間違いなく本物だ。宇賀の人刺にんさしをお求めの方はフロントの軽食売り場までどうぞ』

 

 正面に巨大なパネルがあった。そこに、デカデカと肉の写真が映し出される。『宇賀駆』という文字とともに。

 走馬はゾッとして、頭が真っ白になった。猪野も口を押さえている。

 考えたくない。現代にこんな非人道的なことがあるなんて。こんな危険に晒されるなんて。

 走馬の肩が、いかつい手につかまれた。振り返れば馬頭がいる。握り潰すかのような手つき。猪野も別の馬頭のスタッフに肩をつかまれている。

 二人は問答無用でスタート地点に引きずられた。

 

「何をする! 放せ!」

 

 狂った放送は、抑揚なく名前を読み上げていく。

 

『12番。猪野いの翔斗しょうと。13番。阿部あべ走馬そうま


 スタートラインにいる、世界中の青ざめた選手らの間に、無理矢理立たされた。

 猪野は声を低めて走馬に言う。

 

「俺たちは全力で走ったほうがよさそうだ。でなければ宇賀選手のように……」

 

 最後まで聞きたくない。

 とっくにそれを承知していることを伝えるため、走馬はコクコクうなずいた。

  

『位置について、よーい、ドン!』

 

 パンっと発砲音。それを合図に各国の選手が、屈強なあしで自らの身体からだを前に跳ね飛ばした。走馬もだ。

 すると走馬の隣のコーナーの浅黒い肌の選手が、走馬の足元にひょいっとまきびしを投げてきた。


「うわっ」

 

 つまずき転倒しそうになる。

 とっさに立ち止まった猪野が支えてくれた。

 

「コーチ……」

「早く!」

 

 ほかの選手はすでにはるか先を走っている。

 遅れを取り戻さねば。

 走馬は雄叫びをあげて全力疾走した。なにがなんでも足を動かす。試合でもこんなに早く走ったことはない。

 なにせ命がかかっている。

 猪野も同じだった。走馬の隣を風よりも早く駆け抜ける。

 白いゴールラインを踏み越えたとき、ようやく最下位を免れていることに気づいた。

 走馬は自分が助かったことに安堵しながら、感謝の念を込めて猪野に深々と頭を下げる。

 

「ありがとうございました」

 

 猪野はぜいぜいと息を荒くしているが、ここに来て初めて笑った。

 

「愛弟子になにかあれば、気持ちよく娘に会えんからな」

 

 猪野には6歳くらいのかわいい娘がいた。走馬も以前写真を見せてもらったことがある。そのとき、忙しくて家を長く開けていたら、娘に嫌われたとコーチは言っていたっけ。

 まきびしを投げた選手が、そそくさと二人の横を通り過ぎようとした。

 走馬はそいつに気づくと、湧きあがってきた怒りのまま、逃げる隙を与えず、すかさず行く手を阻んだ。

 

「今不正しましたよね」

 

 こっちは危うくミンチになるところだった。はっきりさせておかねば気がすまない。

 そいつは聞いたこともない言語でペラペラと話しだす。次第に語気が荒くなり、顔を紅潮させて怒りだし、最後には殴りかかってきた。

 恐怖した走馬が目をつむると同時に、猪野がかばうように前に立った。

 その頬に、理不尽な拳が叩き込まれる。

 

「コーチ!」

 

 猪野は尻もちをつくが、笑っている。

 

「自分の弟子を守るのもコーチの仕事だからな」

 

 本当にいいコーチに恵まれたと、走馬は自分の巡り合わせに感謝した。

 殴りかかってきた選手はわめき、また拳をつきあげる。が、暴力沙汰が起こる前に、馬頭がぐるりとそいつを取り囲んだ。

 馬頭の握力は、万力より強いようだ。暴れるそいつを難なくスタジアムの奥に連行するほど。

 引きずられていくとき、そいつのポケットから、まきびしがポロポロッと地面に落ちた。

 大音量の放送が、やけに楽しげに状況を報告する。

 

『おおっと。ジーケフ共和国代表のオーエン選手、まさかの暴力行為で失格! オーエンの人刺をお求めの方はフロントまでどうぞ』

 

 パネルにパッと新しい肉の画像が映し出される。字幕のように、知らない言語で表示された名前を添えて。

 おののいた猪野は、それに注目している。

 走馬はといえば、あいつが落としたまきびしを憎々しい気持ちで見、ひょいっと拾いあげた。

 こんなもののせいで、危うく自分は……。

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