第12話 過去 十 苛立ち

 佐波さわとの会話の後、明継あきつぐ人力車ジンリキシャの上で考え事をしていた。

 蹴込ケコミに足を組み、同じように腕も組んでいた。

 悩んでいたが、こうのためにと頑張る気力が戻って来た。


 見慣れた景色が辺りを流れる。渇いた大地に罅割ヒビワれがショウじている。タマに、溝に車輪が落ち込んで、不安定になり、首をヒネるのを、気を付けていた。


 庶民は天都てんとから少し離れた、長屋ナガヤに住んでいて、煉瓦レンガ作りの西洋建築にはホド遠い身分の世界だった。入り組んだ道、一本でも貧富の差は歴然としている。


 クルマを下車した。

 家の前に立つと、かくしの中から、紙の切れ端が顔を覗かせた。

 明継は完全に忘れていた。

 紅から買い出しを頼まれていたのである。しまったと顔に書いてある。


 ドアを開けた瞬間に『先生、材料は。』と聞かれるに違いないと渋々足を進めた。


 階段で何度も、もう一度、買い物をしに出直そうかと思い直したが、無駄な足掻アガきでしかなかった。

 革靴が一歩一歩、階段に当たって、足取りを重くした。

 腹をククって扉の取っ手を握り締める。れでいて、何時もより冷たく、カタクく、重い。


「ただいま……。」


 明継は、少し小さめの声で部屋に入った。

 違和感のある空気が頬に伝わった。其の違和感が何かを示すのかは直ぐに分かった。

 驚きで息が出来なくなる。やっとの思いで、息を細く吐くと、見開いた目から水分が飛んで乾燥し始めた。

 れでも、目を閉じる事が出来ない。現実を受け入れる事が出来ないように……。


「紅、何処ドコだ……。」


 叫びはムナしく響いた。

 息を浅く吸い込む。

 発作に近い状態になる。呼吸が普通に出来ない。


「紅。」


 思い切り叫ぶと、明継は土足ドソクの侭、部屋を駆けり周った。

 何時イツも居るはずの存在がいない。

 何時も直ぐに出て来る存在がいない。

 何処にもいない。


 部屋の扉を、フスマを、開けっぱなしにする。セマい部屋を、何度も確認する。

 部屋の中を隈無クマナく捜したが、何処にも紅の様子がウカガえない。一段と部屋が広く感じる。



 不安が一層深まった。必死に冷静になろうと努力はしたが、心は裏腹に動く。

 室内を見回すと、窓やドアがヤブられている気配はない。物色された後もない。


「何処にいる。紅。」


 誘拐、強盗、拉致、色々な可能性を考える。

 明継は、地べたに座り込み、腰が抜けて、泣き崩れるかのように、腹ばいになった。

 して、コブシを床にタタき付ける。

 痛みで我を忘れるのを望んでいるかのように……。何度も何度も。

 痛みすらしない手が、色合いだけを鮮やかにした。肉がれ、血がニジむ。れでも、打ち続けた。

 骨がり減って、肉が裂けた時、物音がする。



 物音とうより悲鳴かもしれない。

 其ちらの方を即座に振り返る。明継に、紅の大きな瞳が向けられた。


「どうしたのですか……。先生。」


 驚きの眼が近づいて来る。

 明継のコブシ凝視ギョウシしてから、手荷物を垂直に落とした。

 紅は慌てて救急箱を取りに行き、明継の横に座った。


「先生、の手……。」


 明継の拳には出血の色が痛々しさを伝える。指と指が直角に曲がった侭、動きが鈍い。


 呆然と、明継は手当てする紅の横顔を見詰ミツめた。紅は治療のため固まった指を無理矢理、離れさせる。上半身を起き上げ、紅の前に胡座アグラく。


「紅。」


 呆然とした侭、の明継は、一生懸命、包帯を巻く紅を、まだ見詰めている。


「どうしたのですか。先生。床なんか殴って……。帰ってきたら、倒れているし、……。死んでいるかと思いました。」


「紅……、本物。」


「えぇ。本物です。」


 意味も分からず笑いが出る明継。

 渇いた笑いが部屋を木霊コダマする。紅はアキれて、目頭メガシラに手を当てた。


「本物……。紅。しかし、どうして部屋に居なかったのです。外出をするなんて……、今までなかったのに……。」


 上からノゾき込んだ紅の茶毛が、目にまった。

 瞳がニラみ付けているが、紅の表情が愛らしい。


折角セッカク、先生からモラった鍵があるのですから、買い物ですよ。せつさんの件もありましたから、止めようと思ったのですが……。先生、余りにも遅すぎですし……。もっと早く帰る予定でしたが、道に迷ってしまって……。」


 玄関付近で散らばる食材、手持ち袋から野菜が、転がり出て来ていた。


「其うでしたか……。私は誘拐ユウカイでもされたかと……。」


「部屋の中でですか。其れは、拉致ラチではないのですか。」


「どちらでも良いのです。こうやって見付ミツかったのだから……。」


 又、笑い出す明継。


「此れ、御返オカエしします。」


 天井を仰ぎ見て、紅が明継の目前に黒い鍵を突き出した。明継の顔の上に乗せる。


れ以上、床を壊されたくないですから……。」


 愛らしく微笑む紅。嫌みっぽくったつもりらしいが余計に、可愛い。


「分かりました……。預かります。」


 額から鍵を取ると、床に転がした。

 頑丈カンジョウに縛られた包帯が、手の感覚を無くすほど殴ったのを印象づける。


 紅が帰って来たのが、純粋に嬉しかった。

 笑みが何時までも顔から離れない。其れでも、不安は付いて来た。笑えども幸福にはならない。


「申し訳ないのですが……。抱き締めても良いですか。」


 不意フイに明継が云う。


マタ、馬鹿な事を云って……。」


 傷ついた腕で、紅を引き寄せる。

 紅の上半身がバランスを崩し、明継の胸へと、撓垂シナダかる。

 明継のクビ元に、紅の頭がり付いた。


佐波さわ様は何と……。」


 其の体勢の侭、紅は話をした。ウツムいている紅に、視線を落とす。


慶吾隊ケイゴタイについてどう思われます……。」


「慶吾隊が動いているのは心配です……。皇院の誰かが私をネラっているのかもしれません……。」


 話す度に暖かい息が、漏れる。

 明継は愛おしく、優しい表情になった。

 胸の奥底から、幸福感がいて出てきた。


「慶吾隊なら、紅に危害は加えないはずです。」


皇院家オウインケで一番嫌われているのは、私ですし……。」


「何時も、私と一緒にいたからですよ。」


「いいえ。其うではなくて……。」


 声を引き締めて、紅はツブヤく。

 紅の話をもう少し聞きたかったが、


「食事の支度シタクをしますね。」


 と言い残し、明継の腕の中から離れた。

 紅の表情は微笑ホホエんでいた。



 紅は何をいたかったのだろう。其して、何を隠そうとしているのだろう……と明継は考えた。

 だが、無理に聞き出して、紅が傷付くなら、見ぬ振りをしようと腹をククる。時間がくれば、紅の方から話してくれると納得した。信頼関係は強いと思った明継。


「佐波様が会いたいとっていました。」


「聞こえません。」


 と台所で紅が云うと、炊事場に重い腰を上げて、明継は向かう。


 其の前に、靴を玄関に置き、転がっている食材と、鍵を戸棚トダナに閉まった。


 紅の背中を確認できる位置で、壁にモタれ掛かった。


「佐波様が会いたいって……。」


 水場でシャッをくし立てて、食事を作っている紅に話し掛けた。其れでも、紅の動きは止まらない。


「どうする。」


「えぇ……。」


 紅の腕だけが止まらない。受け答えはするが、明継の方に正面を向けなかった。


「どうする……。」


「えぇ……。其うですね……。」


 明継は立っているのが面倒臭メンドクサくなり、壁伝いに腰を下ろした。紅の背中に話しけた。

 炊事場に立つ紅の背は、とても華奢キャシャな骨格をしている。女性のように細い手首がアラワになる。


「先生なら、どうしますか。もし会うなら何時に、会いに行きましょうか。」


「深夜に迎えがきます。佐波様が信頼できる者を出してくれるそうです。近々に……。」


「ですか……。」


 紅の態度から乗り気ではないのがウカガえた。確かに、宮廷から離れて、三年、彼の元いた場所に舞い戻るのは勇気がいる。

 其の上、連れ出した明継が其れをススメめているのは、不可解に思われるかもしれない。


「先生……。今頃イマゴロ、何の用でしょうかね……。」


「さぁ。其処ソコまでは……。」


 紅は一呼吸ヒトコキュウした。


「先生と引き離されるなら、戻りたくはありません……。」


 ぽそりと本音が出た紅。

 動揺の色が背筋に現れているが、明継は紅の安全を考えた。事情も伝えず、従えと云うのは理不尽リフジンに思えるかもしれない。

 卑怯ヒキョウに思われても紅の安全第一である。


「大丈夫……。」


 節の話を鵜呑ウノミみにする訳ではないが、誰が紅にアダなすか判断しずらい。佐波の権力の側に置けば、警備も万端だ。

 其れを承知で佐波様は紅に会いたがっているのだと……。其れならば、明継は従うしかない。


「先生は、どう考えですか。」


「えっ……。」


 紅の背中が話すが、不意の質問に明継は答えにツマった。


「何が。」


「いえ……。何でもありません。出来上がってから呼びますよ。先生。」


 紅は、顔だけを明継に向ける。

 の表情は穏やかであったが、冷たい視線にも感じられた。



 歩みを進めて何時もの居間に向かった。

 紅のコノんだ窓際の椅子イスに寄り添う。癖で、椅子の上に読み掛けの本をせてある。其の本は枝折シオリヒモがあるにも関わらず、伏せてある。

 明継は本に紐を忍ばせ、机に置く。


 中央には硝子ガラスの灰皿があり、其の上に不釣フツリり合いな煙管キセルが乗っていた。

 煙草タバコは毛嫌いしたが、紅は煙管なら良いと了承されていた。

 明継は常用者でなかったにしろ煙草タバコを止めたのである。本人も何故ナゼ吸っているのか疑問に、思ったからでもあった。しかし、今日は非常に吸いたくなる。


「今日はやけに疲れたな……。」


 上着を脱ぎ捨てて、足を放り投げた。

 一番楽な姿勢でクツロぐ。煙管には目をやるが、手に持つ事を拒否した。今更イマサラ、拳が痛いのである。



 昔良く、母に行儀ギョウギが悪いとシカられた。人前では母の顔に泥を塗ってはいけないと、何時でも姿勢に気を付けていた。



 今では身の回りの事を紅に任せっきりにしている姿を叱るだろうか。紅の前では母と同じ様な行動を取っているのが、面白くて仕方ない。母に対する愛情が紅に移行したのかもしれない。


「行儀悪すぎです……。」


 驚いて、声の主を見た。


 紅がお盆を持って、明継の前まで来ていた。

 苦笑ニガワいをする明継に、馬鹿な思い出を振り払った。少しだけ、紅に、母の面影を見た。


「ごめん。御免。」


 明継は立ち上がり、紅の側に寄る。



 低めの机に、紅は不服フフクそうに味噌汁と麦飯を乗せた。


 初めて明継と外出した記念にしようと考えた品揃シナゾロえが出来ないのが、残念だった。

 先程サキホド、戸棚に食材を運んだ明継だけが、紅の心を理解していた。

 祝ってくれる気持ちを、喜ぶだけの気力は、先程、紅を抱き締めた時に、補充した。


「先生、どうぞ……。」


「あぁ。すみません。こんな時間になるまで、待たせて……。」


 自分の所為セイで、食が遅れた意味で謝る明継。

 『いいえ。』と紅は首を振る。


 紅はハシを差し伸べた。

 何気ナニゲない動作に明継は、口元の笑いを隠せないでいる。


「何が可笑オカしいのですか。」


「否。昔良く母と、の様な会話をしたなと思いましてね……。」


「其うなのですか。」


「えぇ。其うだ……。紅の両親はどんな人でしたか。今まで聞いた事ないですし……。」


 紅は驚きに満ちた瞳で彼を見たが、明継は箸で味噌汁の具を食べていた。

 芋を口の中に頬張ホウバる明継がやっと紅の方に興味が行くと、紅は視線をらせてしまった。


「どうしました。紅。」


 返答すらしない紅に変な事でも聞いたかと、後悔する。弁解をする上手い台詞セリフが見付からない。

 仕方なく黙々モクモクと食を進める。


「男親は……。」


 紅が重い口を開いた。

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