第10話 過去 八 下男の少年

 人力車ジンリキシャの上で、明継あきつぐが目をツブって、紅を思い出していた。

 カタカタと揺れれば、首が揺れた。


「本心では、離れたくないんだな……。」


 昨日、佐波さわに、『紅を宮廷に帰す』と云うと、心が軽くなった。れは嘘ではない。だが、田所 節たどころ せつの登場で、いとも容易タヤスく、理性が飛んだ。


の感情は、初めてだ。」


 愛情でも、悲壮感でもない感情。


 明継は首をヒネった。

 マブタの裏に、何時イツもの紅の笑顔が思い出された。

 初めて紅と出会った梅ノ木の下での表情とも違う。


 明継にだけ寄せられる微笑。


「独占欲か。」


 独り言を呟く明継には、流れていく街並みを楽しむ余裕はなかった。抱いた感情に戸惑トマドいながら、長い息を吐いた。



 聞き覚えがある其の単語。

 ナンか月前かに、聞いた覚えがある。

 明継は、腕組みしながら、思い出そうとした。


「ああ……、下男ゲナンっていた……。」


 明継の記憶が過去へとサカノボる。

 れは、昼間の仕事休みの事だった。

 皇院おういんの別邸近く、梅ノ花が咲く前の時期。肌寒い中、弁当を食べようと、梅ノ下に座り込んだ時だった。


「伊藤殿も、お昼ですか……。」


 若い少年が、明継をノゾむように立っていた。


「ああ、君か。」


 明継の顔に笑みがコボれた。


久しぶりです。伊藤殿。」


「其うだね。」


 下男は、明継の隣に腰を下ろし、着物のスソを正した。手に持っている竹のツツミから、握り飯を出して、頬張ホウバる。


手製の弁当ですか……。」


 下男は、云った。屈託クッタクのない表情が印象的だった。

 明継の胡座上アグラジョウに布と、弁当のわっぱ箱が開いてある。


「私は、料理は苦手です。出汁ダシを取るのがどうしても、ウマく行かなくて……。」


 口の中から喉に呑み込んだ明継。


「自分で作るのを、アキラめました。」


 明継は、紅が作った弁当を見詰める。


「伊藤殿は、家に料理人がるんですね。」


 紅の顔を思い出しながら、首をヒネった。

 割烹着を身にマトった後ろ姿で、沢庵タクアンを切っていた。


「料理人とうと、語弊ゴヘイがありますね。」


 綺麗に詰められた弁当から、麦ご飯をつついた。

 (コウも今頃、同じ品物を食べてるだらうか……。)とほくそみ、口に運んだ。


「愛妻弁当ですか。」


 明継の箸からおかずがゴボれ落ちた。


「すみません、妻はいません。」


 飯を頬張ホオバ律之りつのと、視線がカラまる。


「何度も、からかわないで下さいよ。毎回、毎回、う度に、妻とわないで、下さい。」


 明継は、の時代では、適齢期で祝言を上げているのは、普通であった。だが、本人は気にする素振りもないので、周りの仕事仲間達は言葉に出さなかった。

 なので、余計にウワサだけが流れた。特に、下女ゲジョの間だったが……。


「伊藤殿は、御人ゴジン大層御気タイソウオキに入りですね。其れを妻と呼ばなくて何と敬称ケイショウすれば、宜しいか………。」


 明継は、言葉を詰まらせた。

 (紅との関係、主従関係しかないか……。)と、思ったが違う気がする。

 少しホホが赤らんで来た。


「私にも解らない……。」


 明継は眉間にシワを寄せた。

 考えた事すらなかった。今の紅の立ち位置など、何も考えた事すらなかった。


「絵姿ナドは有りませんか。」


 明継は、咄嗟トッサに否定した。


「無い、無い。辞めてくれ、撮ってないよ。律之リツノさんは、人が悪い。」


 律之は、塩握りシオニギリを、頬張る。

 明継も、飯をかっ込み始めた。紅が作った飯は、微かに甘かった。


「伊藤殿の飯は、見たこと無いオカズばかりですね……。一つ頂けませんか……。」


「嫌、嫌……。御渡し出来るもの、何てありませんよ。」


 律之リツノがわっぱを、畳んで、タモトに入れ、梅ノ木を眺めながら、空をアオいだ。

 枝から、白い空の輪郭が見える。


「彼が作った物は、一つも渡せないと……。」


「へっ。」


 明継の喉から変な声が漏れる。


「其の人が触った物すら、触らせたくないんですよ。」


「其んな事はありませんよ。」


 意味が解らず、秋継が、 咄嗟トッサに否定した。


「見た目にらず、独占欲が強いんですね……。」


 明継は、「其んな事ありませんて……。」と小さい声で呟いた。


御馳走様ゴチソウサマでした。また、お会いしましょう。」


 律之が、着物を翻し、去って行った。姿勢を正し、背中を見詰ミツめた。


 紅と後ろ姿がだぶって見える。

 律之の方が、幾分か肩幅が広い。着物をいている彼よりも、紅の方が腰周りが細かった。手首も、紅の方が華奢キャシャだった。

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