第7話 「あーちゃーは、さっちゃんのこと好き?」

 いつの間にか陽が落ちようとしていた。

 この間も、ずっと沙千帆は俺の髪を撫でてくれる。


「あーちゃー?」

「ん……ありがとう、さっちゃん」


 そう素直に名前を言えた。沙千帆は一瞬、きょとんとして、それから満面の笑みを零す。


「どう、?」

「それを言うなら、どういたしましてでしょ?」


 苦笑を溢しつつ、この小さな淑女レディーの手を取った。日常はもう動き出している。紛れもなく、これが現実なのだとしたら。俺は、今の沙千帆を受け入れるしかない。


(これは、罰なんだろうな……)


 素直になれなくて。意地を張った。そんな俺への罰。きっと沙千帆はこれから、大きくなって、他の誰かを好きになる。俺はそれを見守ることしかできない――。


「あーちゃー?」

「ん?」


「ちょっとだけ、待ってね? さっちゃん、早く大きくなって。あーちゃーのお嫁しゃんになるからっ!」

「うん……待ってる」


 ぽふっと、沙千帆の髪に手を置く。自分の想いを断ち切るように。

 しゅるり。

 ふと振り返る。願いを書いた短冊がほどけて飛ぶ、その瞬間を垣間見た。












 日常は動いていく。

 相変わらず、べったりの沙千帆だったが、何か心境の変化があったらしい。


 ――今日は、ママとお風呂はいりゅっ。

 そう宣言した沙千帆を見やりながら、つい頬が緩んだ。


「あーちゃーも一緒に入る?」


 そんな風にからかってくるから、師匠は本当に人がワルイ。


「ぬぉぉぉぉっ! 歩、お前! 親子丼なんて、なんて破廉恥な――」


 オヤジの発言はすでにレッドカードだった。


「それならサチ、僕と一緒に今晩は寝ようね?」

「パパは臭いくちやいから、ヤ」


 一刀両断とはこのことか。いや、お酒の匂いが嫌いってことだからね? これまでも食事をしながらそんな、表情を匂わせていたけれど、今の沙千帆はあまりに露骨ストレートだった。







■■■




 目の前の沙千帆が、これでもかと言わんばかりに嬉しそうに笑顔を零す。一方の俺は、緊張で心臓が暴れ出しそうだった。昨日は俺の部屋だったから、まだ理性が保てた。でも今日は沙千帆の部屋で。


 これが、娘が母にお風呂の中で交わした「お願い」だったらしい。


 視界に入ってくるのは、整頓された勉強机。可愛らしい小物に混じって、


 小学校の時に誕生日プレゼントとして贈ったぬいぐるみ。

 何より、小学校まではイベントの度に撮っていた写真がフォトフレームに飾られていた。

 その意味が分からないほど、俺は鈍感じゃない。


(……嫌われてなかったんだな)


 そんなことを考えていると、沙千帆が小さな手で頬に触れてくる。


「あーちゃー?」

「え?」


「あーちゃーは、さっちゃんのこと好き?」

「……好きだよ」


 隠しても意味がない。ただ、もう届かない。


「さっちゃんも、あーちゃーのこと大好だいしゅきよ」


 舌足らず。でも全力で囁かれて。ゆっくり緊張がほぐされる。場所がどこであれ。沙千帆がどんな姿であっても。それこそ、もう想いが届かなくても。沙千帆を守りたい。それが俺の偽らざる本心だった。






■■■





 うつらうつらと、船を漕ぐ。

 気付けば、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。






 さらさら、笹が揺れる。

 さやさや、小川が流れる、そんな音を聞きながら。微睡みながら。ようやく俺は目を開けた。


 そこは、見覚えのある――あの神社の本堂で。


 月明かりがうっすらと、差し込んでいる。

 酒精の匂いが鼻につく。俺の膝のうえで、すやすや眠る沙千帆は――18歳の、あれほど会いたかった彼女だった。それなのに――。


「……あーちゃー……」


 まるで3歳児のように甘えた声を出しながら、抱きついてくる。心臓がまた暴れ狂いそうで。でも金縛りにあったかのように、身じろぎできない。


 目の前には、まるで天女かと思うような、着物を纏った女性。彼女が盃を、酒を口に含む。


 着物はあえて着崩し、はだけているのに、つい目を奪われた。神々しさすら思わせる、その所作に飲み込まれそうで。

 と二匹の犬が、俺を前に伏す。


(……これは夢?)


 この奇怪な光景を前に、唖然とするしかしかない。

 この犬達に、俺は見覚えがあった。

 神社の鳥居、その前に鎮座していた狛犬、そのものだったから。


――妖怪の類いか?!

 そう思い、思わず沙千帆を守るように抱きしめて――。

















「「高邑様、神薙様! この度は姫が犯した愚行、本当に申し訳ありませんでした!」」

 なぜか狛犬たちに全力で謝罪された俺だった。



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