第10話「選択・1」

 空全体を覆っていた雲もまばらになり始め、恥ずかしがり屋さんのお月さまも頻繁にお顔を覗かせるようになった。その冷たい光が夜を神秘的な色に飾っている。


「普段だったらここにいるはず」


 そんな妖しげな夜に、私達は見るからに怪しげなことをしていた。空き巣泥棒でもしようとしているかのように、玄関のひさしの上に立って、目の高さに取り付けられた、両開きの窓を指差した。すると、隣で一緒にひさしに乗っている蒼勇は尋ねてきた。


「何の部屋だ?」

「角部屋」

「黙れ」

「そんな怒らなくてもいいのに」


 小さくクスクスと笑ってから、ゆっくりと中を覗いて、答えた。


「――私の部屋」


 我が家への道中、蒼勇に、銀さんと会って話をしたいと伝えた後のことだ。


「銀さんに会いたいんなら、どっちにしろ急いで真実の家に向かわなかんね」


 蒼勇がそんなことを言ったため、行き先は変わりなく私の家ということになったのだが、


「そもそも、どうして私の家に向かうことになったんだっけ。それも急ぎで」


 気になって尋ねると、


「ああ、そういえば話しとらんかった気がするわ。なあ、真実はどうしてだと思う?」


 逆に聞き返された。私は「ええ……」と暫く考えて、自分なりの推測は立ったものの、それに自信がなかったため遠慮がちに答えた。


「何か時間制限があるとか……?」


 時間制限――そう口に出して言ってみたら、不意に、蒼勇のとある話が思い出された。


『人間の頃の記憶がまだ残っとんのがその証拠』


 恐ろしい想像をしてしまい私はハッとした。


「まさか……私の記憶がもうすぐ消えるとか?」


 おっかなびっくり尋ねると、蒼勇は残念そうに首を横に振った。不正解か、よかった……と思ったその時、彼が言った。


「君のような勘のいいガキは嫌いだよ」


 内蔵が握り締められたような気がした。足が硬直したように止まってしまった私は、愕然と目を見開いて、「え、うそ……」と漏らす。

 記憶が消えるだなんて――想像しただけでも目の裏がチカチカするほどの恐怖感に、頭を抱える。


「私の……記憶、もうすぐなくなっちゃう――」


 震えを帯びた嘆きの言葉は、しかし最後まで紡がれなかった。蒼勇が突然「えっ?」と声を出したからだ。

 言いさして、おもむろに顔を上げて見ると、蒼勇も足を止めて、意表を突かれたような顔でこちらを見つめていた。私達は目を合わせたまま固まる。数秒間時間が止まったような沈黙が流れた後、先に金縛りから解けたのは蒼勇のほうだった。だが、依然として平静は取り戻せていないようで、


「……ああ、いや、ちがくて。そっちじゃないんだ、当たっとったのは」


 あたふたした様子でそう言われ、私は理解が追いつかず混乱する。


「え、どういうこと? 記憶は……え?」


 蒼勇はゆっくりと深呼吸して落ち着いてから、言った。


「記憶は大丈夫。安心して。すぐに消えるようなことはないはずだ」

「なんだ……。びっくりさせないでよ」


 全身から緊張が抜けた私は溜息をつく。


「ごめん。曖昧な言い方をしたのが良くなかった」


 申し訳無さそうに謝罪され、小言の一つや二つ零したかったが、努めて口を噤み、「大丈夫」と一言だけ言って切り替えて、再び歩き出した。


「それはいいとして、当たってたのが、記憶のほうじゃないのなら――」

「そう。時間制限がある……かもしれんってとこだ」

「かもしれん……?」


 時間制限という単語よりも、断定しないその言い回しが気になった。


「俺たちは銀さんがどうやって真実の願いを叶えてくれるか知らん。それはすなわち、願いを叶える手段として、『いなくなる』という方法を取る可能性があるってことだ」


 言われ、私はハッとした。

 そうか。私がほとんど銀さんになったことで人から知覚されなくなり、どうも私がいなくなったような感じがするが、実はまだ真実という人間はいなくなっていない。銀さんが私の代わりに真実になったからだ。銀さんがいるかぎり、真実もいることになる。

 だから、銀さんが私の願いを叶える方法として、真実がいなくなることを選んだのならば、それはまだ達成されていない。

 それを達成するために、これから銀さん自身が、真実としていなくなる可能性もあるということだ。


「そうなってからでは、もう遅い。銀さんがおらんけりゃ、対話の望みも、おそらく人間に戻る望みも潰える。だもんで、銀さんがおるうちに絶対辿り着かんと、真実が二度と人間に戻れんくなるかもしれん」

「だから、こうやって急いで移動してるのか。私の願いと過去を聞いてすぐその可能性を先読みして行動に移してたとか……感心だなんて言ったら何様って感じかもしれないけど、本当に凄いと思う」


 素直に感心して言うと、蒼勇は得意げにサムズアップしてみせた。……と、そろそろツッコむべきか。


「って! さっきからしれっと選択肢に人間に戻るってのがあるけど、どういうこと!? 私は結局人間に戻れるの?」


 蒼勇はあっさりと答えた。


「戻れる」


 だが、そう一言で片付けられても、色々疑問が残る。


「どうやって?」

「単純だよ。真実が銀さんにされたことをそのままやり返しゃあいい。具体的には、銀さんに触れて、その魂から真実としての部分を食らって、代わりに真実の中にある怪異としての魂をくれてやる」

「簡単に言うけど……そんなこと、私に出来るの?」

「出来る」


 彼は即答してから、言った。


「だって今の真実はほとんど銀さんそのもの――悪魔という怪異そのものだ。だから理論上は、銀さんに出来たことはおしなべて真実も出来るはずだ」


 そんな会話をしつつ道を進み、無事に愛しのマイハウスに到着した。しかし、まずはまだ銀さんが私の家に残っているのかどうか確認しなければならない。それを行うのに、念のためと言って蒼勇もついてくることになった。ちなみに、果穂さんは家の前で別れたため、今どこにいるか私は知らない。

 銀さん生存確認のため、もちろん家の中に入って探すのが手っ取り早いのだが、人から見えない私と違って、蒼勇は普通に人から姿が見える。玄関から堂々と入ったりなんかしてしまえば、呆気なく見つかって通報されてしまう。ということで、まずは手始めに外から確認できる方法を取ることにした。

 私の家は二階建ての一軒家であり、二階の、玄関の真上の部屋が私の部屋である。そのため、玄関のひさしの上に乗れば、窓から私の部屋の中を覗くことができるのだ。カーテンが開いているかどうかは賭けだったが、僥倖なことに全開で、部屋の中は丸見えだった。

 ひさしに乗った私と蒼勇は顔を並べて窓枠から中を覗く。部屋にはあまり物が置かれていない。勉強机には筆箱と閉じたノートだけが乗っていて、タンスもクローゼットもしっかりと閉まっている。差し込む月光に淡く色塗られた床には何も落ちていない。我ながらに整理整頓された部屋だ。

 そして壁に沿って置かれた、月光に半分ほど照らされたベッドに目を移すと、そこに彼女はいた。――私だ。――いや、私の姿かたちをした銀さんだ。

 掛け布団を腹の辺りまで被って、目を瞑ってぐっすりと眠っていた。目鼻立ちがはっきりした顔立ちは、私が毎日鏡で相対してきたそれだ。縮毛矯正のおかげでまっすぐの栗色の髪は、枕からはみ出して放射状に散らかっている。


「あれが私になった銀さんだよ」

「そうか、あれが……」


 銀さんを見たまま言うと、蒼勇も銀さんのほうに目をやって、どこか感慨深そうに呟いた。

 すると、不意に、銀さんが苦しそうに唸って身動ぎした。その瞬間をちょうど見ていた私達は咄嗟の判断でしゃがみ、窓枠から外れて姿が見られないようにする。私達は無言で顔を合わせて頷くと、蒼勇が中の様子を確認するために恐る恐る背筋を伸ばし、中を覗いた。


「大丈夫だ。寝とる」

「よかった」


 私達は再び立ち上がって、中を見やる。

 姿勢が変わり、掛け布団の上に投げ出された銀さんの腕。その手首が月光を反射して閃いた。見ると、それは手首についていた。

 ローズゴールドの金属製のブレスレット――中学生の時に、部活のコンクールでいい成績をとったお祝いとして、母からもらったものだ。私が母からもらった最後のプレゼントでもある、私の宝物だ。だから万が一にも無くさないように、家の外には持ち出さないようにして、反対に家にいる時は、風呂に入る時以外は、夜眠る時もふくめてずっと肌身離さず付けていた。

 それをしっかりと付けている辺り、やはり銀さんの私の真似は抜け目ない。そう思っていると、蒼勇が言った。


「真実は本当はあんな感じな娘なんだな」


 初めは一瞬何を言いたいのかわからなかったが、すぐに気づいた。


「そっか、私を見るのは初めてか」

「そうそう」


 私は眠っている私を上から下までじっと観察する。


「元の私より胸が大きくなってるとかは……ないか」

「なんだ……」


 その蒼勇の呟きは残念そうに聞こえた。見ると、彼はあからさまに落胆したような顔をして俯いていた。


「え、めっちゃ残念そうにするじゃん」


 指摘すると、一瞬でキリッとした顔になって、こちらを見た。凄まじい切り替えの早さだ。


「胸の小ささにがっかりなんてしとらん」

「自分で白状してどうすんの……」


 いや、まあ、確かに私の胸の絶壁具合は、それはもう絶壁だから否定できないが……


「私が自分の胸をコンプレックスに思ってたらどうしてたの?」

「大丈夫、それはないから」

「なんで?」

「本当にコンプレックスの人は、冗談でも自分の胸を自虐に使わん。むしろそこに注目されるのを死力を尽くして避けるか、あるいはネタにするにしても動揺は隠せん」

「確かにその通りね……」


 納得してしまった。なんか癪だ。


「まあ安心せい。俺は山が好きだが平原も嫌いじゃない」

「今の発言のどこに安心要素が?」

「全部。俺は正真正銘、人畜無害のセイフティーボーイだからね」

「それ面白くないよ。それに自分の性癖を大っぴらに語る男が人畜無害でもセイフティーでもあるわけ――」


 不意に、だった。私の部屋の窓の方からバタンと音が鳴った。呑気な会話はその瞬間にぷつりと途切れ、私と蒼勇は一瞬硬直した後、きっと同じことを想像したのだろう、揃って壊れた人形のようにかくかくと首を回して窓の方に顔を向け、「ぁ――」と声を漏らした。

 先程までベッドで寝ていたはずの銀さんが、何故か目の前にいるからだ。いつの間にか窓の前まで来ていて、両手で窓を開けて、こちらを見ていた。


「人の家で何してるんですか?」


 不審そうに聞かれたものの、私達は突然の事態に思考が停止して、答えられない。その中でいち早く硬直が解けたのは、もちろん私ではなく蒼勇だ。彼に肩を叩かれて、ビクッとすると、私も我に返ったように体が動くようになった。しかし顔は動かさず横目で見ると、蒼勇はその憎たらしい顔に笑みを湛えてサムズアップして、


「銀さんの生存は確認出来た、ということで、後は君たち二人の問題だ。俺はここでおさらばさせてもらうで」


 そう言って、私に背を向けた。


「待って――」


 と声を掛けた時には、彼はもう目の前にはいなくて、トラックが通り過ぎたような風圧だけを残して、背中は豆粒くらいの大きさになっていた。そして町の家々の屋根の上を、漫画の中でしか見たことないような人間離れした挙動で、軽々とぴょんぴょん跳び超えていった。私はそれを呆気にとられて眺めることしかできなかった。

 やがて姿が見えなくなると、


「来ると思ったよ」


 頃合いを見計らったように、窓の方から、蚊帳の外だった彼女の、私そのものの声が聞こえた。振り向くと、そこにあるのは私の顔。しかしそこに湛えられた表情は私のそれとは少し違う。

 私のようで私ではない、そんな奇妙な印象を与える銀さんは、招かれざる客を見るような不愉快そうな表情をして、しかしそれとはあまりに不釣り合いな、客人を招くような丁寧な口調で言った。


「さあ、入って――あなた」



 ◆



 蒼勇は風を切って、夜の町の屋根から屋根を跳んでいた。寝静まった人々を起こさないよう、足音一つ立てないように意識して屋根を踏んで跳ぶと、大通りを挟んだ向こう、五階建ての、このあたりでは一番高いマンションの屋上に果穂を発見した。

 蒼勇はひとっ飛びに大通りを飛び越え、そっと屋上に着地すると、屋上を囲う鉄製の欄干の上に座り、月を背景にして町を物憂げな表情で眺める果穂のそばに向かう。


「今日は珍しく俺のやり方に口出ししんのですね。いつもだったらこんなやり方許さんくせに」


 欄干にもたれ掛かりながら言う蒼勇を、果穂は表情と姿勢はおろか、目線すら動かさず無視した。


「何か心境の変化でもあったんですか? それとも、真実に偶然にしても図星を指されたことを気にしとるんですか?」

「――――」

「仮に果穂さんに真実をどうこうする権利があったら、人間に戻る気のない真実を、それこそ真実が言ってた通りにしてましたもんね」

『でも、よかった。人間に戻る気ないなら、最悪銀さんもろとも殺すとか言われるかと思って、怖かった――』


 挑発的な台詞をいけしゃあしゃあと続けざまに吐くと、果穂はようやく口を開いた。


「そんなの、言うまでもないでしょ」


 そう吐き捨てるが、蒼勇は「まあね」とそれを歯牙にも掛けない。その反応が気に食わないのか、果穂は舌打ちをして語りだした。


「たとえ怪異であっても、自分を人間だと思ってて、人間に戻りたがってて、かつ人間に戻れる可能性のあるやつは、私は人とみなす――だけど、そのうちのどれか一つでも欠けたら、その時点でその人は人でなくなる。そいつはもう怪異だ」


 口調から段々と、憎しみにも近い、淀んだように暗くて、しかし火傷するほど熱い感情が滲み出てくる。


「怪異は退治される側の存在。退治されて然るべき悪で――」

「――敵だ。って言うんですよね?」


 続きを埋めた蒼勇を、果穂は横目で睨み付ける。


「やっぱり、今日改めてはっきりしましたね」

「そうね……。あんたは顔もいいし、真面目だし、かわいいし、嫌いじゃない。嫌いじゃないけど……、私達は――」


 びゅう、と風が吹き抜けた。吸い込んだ息が肺を刺すように痛かったのは、きっと風が本当に凍てつくほど冷たかった所為だろう。


「最後に、年長者からの忠告。そんな甘ったれた考えがいつまでもまかり通るとは思わないことね。それじゃあ、私は仕事の続きがあるから」


 果穂は最後に普段の大人ぶった笑みを残して、欄干から飛び降りた。


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