6.

 その超常的な視界はわたしの脳にいともたやすく受け入れられました。荷馬車の縁から両の足をぷらぷら下げ、水面につま先をつけました。水としての確かな深みを少し感じたあと、足が抵抗感のある物体に当たりました。目視では水面下には特に何も見当たりません。硬質ではなく、この感触を形容するにはわたしの語彙と経験が不足しているように感じます。水の上に立てるとしたら、このような感触を得るのでしょうか。

 息を少し呑み、意を決したわたしは体重移動を試みました。幸いにもそれはすんなりと成功し、水の上に立てるとしたらという仮説は見事実証を伴ったのでした。

 視界が広くなったことを活用し、改めてその眺望を目の奥に収めます。

 静寂。巨大な水塊の上に小さな荷馬車がひとつ、小さな人間がひとつ。空は空というより誰かの絵筆跡で、死んだように音がせず、思えば水を蹴飛ばしても正しい飛沫の音もありません。試しに掬い上げた水は、緑青色から透明度を上げて手のひらから逃れてゆきました。やはり滴る音もありません。

 手のひらの上に意識を取られたため、遠方にそれまでなかった人影が現れたことに気付くのは少し後になりました。これはかなり無警戒な行動ではありましたが、わたしは両の足をそちらに向け、歩み寄り、呼びかけました。わたしの喉から発したオトはやはり、音になって耳に届くことはなかったのですが、その人影には届いていることは何の根拠もなく体感されました。近付くにつれ、人影の解像度が上がるにつれ、それは明らかに自然な、この状況にとても沿った格好をしていることがよくわかりました。宗教的な価値観の反映された白いローブ、そのローブを縦断するように掛けられた黄帯、袖元や腰元にあしらわれた光沢のある濃紺の宝石装飾、そして、秘匿性を与える黒い仮面。……仮面?彼は背を向けているのに。

 突如、消えていた音が耳に舞い戻ります。その轟音は、まるで荷馬車とわたしを水の中に飲み込むような大きな音であり、実際わたしと荷馬車は、足場を失い水の中に飲み込まれていくのでした。泳ぐ能力がないのはもとより、息が続くわけもないのですが、体は重力に引きずり込まれて下へ、まだ下へと沈みます。水面の上の白色のローブの彼は、水の濁りの中に消え、見えなかった緑青色の水塊の奥底には、もぞもぞと蠢く「ナニカ」がわたしを飲み込もうと待ち構えています。四肢から液体にゆっくり溶け出しているわたしは、それに飲み込まれることに抗うことができるはずもありません。「ナニカ」が首元に、腰元に絡まり、抵抗のないわたしを受け止め、大きな口……?を開けてわたしを―




 人の声がします。喧騒と言ったほうが的確でしょう。わたしはついさっきまで目を閉じていたようで、たった今白昼夢からの覚醒を果たしたわたしは、眼窩に漸くの光を取り込み、その過程で室内照明の眩しさに小さな眩みを感じました。

「めっちゃ似合ってんじゃーん!」

 目線を私に合わせた方はハーツさんで、その隣の丈の長いズボンと黒い服を身にまとう女性が、個室に押し込められたわたしに柔らかい目線を送っています。ここには荷馬車はなく、緑青の水もなく、不可解な姿のローブの御仁もありません。ただの現実です。ただ、現実にしては眠りにつく前の光景からの格差が大きく、現実を咀嚼するのに時間が要るようでした。

 ここでわたしが自身の身なりに注目するのはかなり自然か、むしろ少し遅いくらいのことだと思われます。詳しく観察しなければどのような構造になっているか検討もつかない何重にも重なった布生地に、ふりふりの装飾帯がたくさんついた衣装は、観察のために少し腰をひねるだけでその有象無象が大暴れしました。わたしの恥じらいの感情が一瞬で閾値を突破し、その次の思考は、付近に身を隠せる場所がないかを探すことでした。不幸か計画されたか、この押し込められた空間では、わたしのあられもない姿を隠す空間はどこにもなく、むしろ背後に置かれた鏡がとどめの一撃すら与えてきます。

 視界の右側に映り込んだカーテンが、今のわたしの最後の味方でした。

「えーっ、どうしたのさぁー。似合ってんのにー」

 わたしの身を隠す一枚の布の防御壁は簡単に破られました。わたしは現状の不服を必死に訴え、なるべく強い意志を込めて首を横に振りました。

「もぉー、かわいいのに」

 ハーツさんはため息交じりにもわたしの腰元の結び帯……リボンで遊んでいます。そもそもここまでの過程に関する記憶がないことが重大で、目覚めてここにいるような現状に、わたしへの説明責任を誰かは果たすべきです。

「やっぱ寝ぼけてたわけ?まぁ眠い目こすらせながら連れてきたのはわたし等なんだけどさ」

 非常に端的な説明に助かりました。

「決まったのか」

 わたしへの援軍を意味するウォーレンさんの声が聞こえました。

「ウォーレンからも言ってあげてよ~。似合ってんのにこの調子でさ」

 少し遠いところにいるウォーレンさんが覗き込んでいます。マスクも厚手のコートもまだ外していないようです。似合っているが、の枕詞ののち、

「そんなふりふりで長旅ができるわけないだろ」

 と一蹴しました。これにはハーツさんも反駁できなかったようで助かりました。


 わたしが眠っている間に、今いる街、クライストールに到着したようで、靴屋さんでわたしの足の大きさにあった靴をお願いした後、この服屋さんに直行してとっかえひっかえの着せ替え大会が行われていたようです。聞けば例の印章の間違いのどうのこうのという話も後回しにしているのだとか。結局、ウォーレンさんがこの場を収め、重量感がなく、しかし寒さが気にならない程度に厚手の服が勝利をもぎ取りました。ハーツさんはひらひらを最後まで諦めませんでしたが。

 服屋さんを出てからは印章の件の話を片付けに向かったハーツさんとは別行動となりました。ウォーレンさんにおんぶされながら靴屋さんに到着したわたしは、新品のその靴に目を輝かせました。光沢のあるブラウン色はあたたかく、包み込むようにわたしの足をきれいに収め、足を地面につける度にコツコツと好い音を響かせます。

「あれはあの辺りを選んでアテにならなかった。だからわたしが選んだが……気に入ったか?」

 ウォーレンさんが指さしたカラフルで文字通り光り輝きそうな見本展示品たちと比較する必要もなく、この靴はとても素敵な代物です。店内に置かれた姿見で、改めて自分の容姿を見つめます。そこにはわたしがいます。ベージュの服とブラウンの靴。腰をひねって背中の確認も怠りません。これがわたしであるという実感は低かった自分への関心と肯定感を大きく引き上げるものでした。

「……そうか、気に入ったようならそれ以上のことはない」

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