傷モノ令嬢、誰かが死ぬと分かっていても
(ローク様が私を好き、って)
ロークとしては延々と恋心を騙っていたのだが、ルシールの理解力は「彼女は私の恋しい妻」というロークの初手以来まったく機能していなかった。
そしてルシールの顔はいつも通り感情の見えない無表情だが、その内は驚愕、羞恥、歓喜、疑惑などかつてないほどに混沌としていた。
嘘みたい。
でもロークには嘘を吐くメリットはない。
でも信じられない。
でもロークは―――よし、嘘だったら心の底から恨もう。
信じる気持ちが混沌とした感情を落ち着かせた瞬間、目の奥がツンッと痛んだ。
咄嗟に表情筋に力を込める。
泣きたい。
でも人前で泣くなんてみっともない。
でもいつまで我慢できるか。
(どうしたらいいのかしら)
分からないのだ。
自慢ではないがロークが初恋。
恋したこともなければ、ずっと王太子妃候補だったから恋心を吐露されたこともない。
(恋愛結婚の方はすごいですわ)
この感情のカオスを鎮めて、結婚まで進んでいるのだから。
(政略結婚でよかったですわ)
自分に恋愛結婚をできる自信がない。
政略結婚において恋をすることは必須ではない、一番重要なのは政略だからだ。
互いを尊重し合える家族となれれば及第点、子育てを乳母や使用人に任せても貴族社会は何も言わないので家族としての情すらも必須ではなかったりする。
物心がついたときからフレデリックの婚約者だったが政略結婚。
恋心どうこうの前に帝王学を学んだからか、自分の感情は二の次で、恋愛感情はもちろん家族としての情も“なるようになる”とルシールは思っていた。
ロークも政略結婚だった。
律儀な人柄に好感をもち、特筆することのない日常のなかでじわじわと滲むようにロークのことが気になってきて、気づいたら恋をしていた。
恋をしていたけれど、もう妻だったし。
侍女たちから借りた恋愛物語は「結婚しました」で終わるか、ざまあな展開で夫をぎゃふんといわせて終わるものばかりだったから、夫婦になってからの恋愛に関する知識はなかった。
だからだろうか、ルシールは恋した先を特に考えていなかった。
つまり、自分の恋心が報われたらと想像したこともない。
「も、申しわけありません」
これからどうなるのか。
これから、どうしなければいけないのか。
わからない。
わからないから、こわい。
答えられない。
正しい答えが分からない。
「ルシール!」
ロークの驚いた声を背中で聞きながら、反射的に動いた人垣の間をぬって部屋を出る。
分からない。
考えもしなかった。
ロークが自分のことを好き、なんて。
自分もロークのことが好きだ。
じゃあ、好きの先には何があるのだろうか。
結婚は、もうしている。
口づけも、体も重ねている。
これ以上何がある?
(無理だわ)
政略結婚じゃなくなるのが怖い。
もしロークが心変わりをしたら?
政略なら割り切れた。
ロークが他の女性を好きでも、ロークが誰かを妾として迎え入れても、家のために「仕方がない」と笑って受け入れることができた。
でも、いまはもう笑えない。
想像するだけで心の奥底、自分も知らない真っ暗なところからドロリと汚いものが吹き出そうになる。
こんな汚い自分はイヤだ。
こんな汚い自分を知られるのが怖い。
「ルシールッ!」
不意に、近くから聞こえたロークの声。
同時に腕を掴まれて、体のバランスが崩れる勢いで後ろに引かれる。
「どこに、行こうと?」
「……どこに?」
ロークに問われて周りを見渡す。
特に当てなどなく部屋を飛び出したから、ここがどこか、どこを歩いてきたか分からないが、
「ソニック公子様、馬車をお呼びしますか?」
建物の正面玄関。
声をかけてきた侍従の後ろには馬車広場が見える。
「すまない、妻の体調が悪くてね。馬車に乗る前に少し休ませたいのだが」
「それでしたら、あちらの部屋をお使いください」
侍従に礼を言ったロークに引かれるまま、玄関近くの休憩室に入る。
まだ夜会の中盤、どこの部屋にも人がいないのだろう。
静かな空間で息がつまる。
「申しわけございませんでした」
「……どうして、謝るの?」
どうして謝るのか。
ただ逃げたいがために一番無難な言葉を選んでいたことを恥じる。
そして、そんなズルい自分をロークは分かっている。
「謝る必要はないよ、追い詰めた俺が悪かったんだ。俺のほうこそ、すまなかった」
後悔のにじむ声に、思わず俯いていた顔をあげる。
目があい、想像した以上に甘い視線に顔が熱くなるのを感じる。
「あんなところで、あんなことを言うつもりはなかった」
好きだというのは、嘘だったのか。
自分を王家に差し出さないのはソニック公爵家の矜持であって、夫として愛しているといって無難におさめようとしたのだろうか。
(もしそうなら……恨めしい)
「君が好きだと……いつか言いたいとは思っていたけれど、あんな場所で、あんな風に、君を追い詰めるようにいうつもりはなかったんだ」
「いつ、か?」
「うん、いつか。悠長だなって自分でも笑ってしまうが、あんなことを言った俺が舌の根も乾かないうちにいうのも誠意がない感じがしたんだ。それに俺たちは夫婦だから、“いつか”はこの先いくらでもあるだろうって……やっぱり悠長だな」
自嘲するようにロークが笑う。
「でも、だって、君は一生俺の妻なんだ。離縁には双方の同意が必要で、俺は絶対に同意しないからね」
「一生……」
「そうだから……だめだな、強気で最後まで言おうと思ったのに」
苦笑したロークは何度も深呼吸し、何度も口を開けては閉じるを繰り返したあと、
「離縁は絶対にしない。だから……諦めでも、仕方なくでもいいんだ。君に恋して欲しい、ほんの少しでいいから俺に恋をして欲しいと思っている」
恋して欲しい。
切なさに胸が締めつけられる懇願に心がトクンッと跳ねる。
「本音を言えば早く恋して欲しいけれど、ずっと待ってる。俺が死ぬときでもいい。死ぬ寸前の俺の手を君が握って、そうだな、『仕方がないから恋してあげます』って言ってくれれば報われる、俺は幸せもんだと満足して死ねる」
ロークが苦笑する。
「気長にいくつもりだったのに……殿下たちの横暴に、頭に血がのぼってしまった」
『殿下』という言葉に反射的に体が震える。
「殿下のあの言葉は……」
ルシールがフレデリックの妃になれば全てが丸くおさまる。
正妃となったルシールはティファニーの産んだ子を養子に迎え、次期王太子として教育していくだろう。
これをティファニーが受け入れれば彼女をフレデリックの愛妾として認めるし、ティファニーが受け入れなかったとしても遠い離宮に送るなどして命だけは助けるつもりだ。
でも、これはカールトン侯爵家とルシールにそうするだけの余裕があるからだ。
でも、ルシールが妃にならなかったら?
後ろ盾のないフレデリックとソリアは謀反などの罪を着せられてその血で石台の渇きをいやし、場合によってはティファニーと彼女の産んだ子も同じ運命をたどる可能性がある。
(そんな未来が見えるのに私は……)
「私は、一生フレデリック殿下をお守りして生きてくのだと言われていました」
ロークに失望されるかもしれない。
そう思いながらも、感情の赴くままに、好きなように、何も考えずに話を続ける。
「殿下は昔から面倒を嫌いました。怖いとか嫌だとか言って、持ちうる知識と悪知恵で逃げるのです。あの逃げるエネルギーを責務に向けて欲しいと何度思ったことか」
立場が違うがロークも同じくフレデリックの傍にいたのだ。
フレデリックのことはよく知っているだろう。
「楽なほうに逃げなければ、あの婚約破棄だって問題ない形でおさまったでしょう」
ティファニーを愛妾にして、ルシールを形だけの正妃にして。
「婚約破棄の罪は全て殿下にある。因果応報、その報いで彼らが死ぬことになっても、決してルシールのせいではない」
卒業パーティーで大々的に婚約破棄を宣言した上にティファニーの懐妊を発表。
ルシールの父が申し出た話し合いの場で国王は上手く誤魔化してフレデリックの宣言をなかったものにしようとしていたが、カールトン侯爵が断固拒否した上に宰相であるソニック公爵も「いい加減あきらめましょう」と国王を諭したのだ。
分かっている。
ルシールと婚約を破棄した時点でフレデリックは、フレデリックとティファニーの真実の愛を公に応援した時点でソリアは自分たちの死刑執行書にサインをしたのだ。
「ソニック公爵家は王家からの要求をはねのける。王家の傍系として、そこまでの横暴を認めるわけにはいかない。唯一の例外は君からの離縁の申し出だが、それも俺は受け入れない。人殺しの誹りを受けようと、俺は絶対にイヤだ」
人殺し。
その罪からルシールを守って背負おうとしてくれている。
「ローク様、その罪を私も背負いますわ」
「ルシール?」
首を傾げて自分を見るロークの視線に羞恥心が耐えられず、少しだけ視線を外す。
「他の方の妻になどなれません」
なれないのではない。
なりたくなどないのだ。
「他の方の妻になりたくありません、私はローク様の妻でいたいのです。私は……」
心を預けたあと裏切られるのは怖い。
でも幼い頃から傍にいた人を見捨てる形になっても、その罪を一人背負って自分を想ってくれるロークを信頼しないで誰を信頼すればいいのか。
裏切られたら思いきり文句を言えばいいのだ。
泣いて、詰って、場合によっては刺し違えてでも……
「私はローク様が好きです。もう、とっくに、恋しています」
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