芙二宮精肉店 3話


「―――――――――――――っは、はあ、はあ、はあっ!」

がばり、と体を起こす。体中、いや布団まで汗びっしょりだ。最悪の目覚めだ。なんだかものすごく厭な夢を見たような気がする。俺は呼吸を整え、ちらりと時計を見る。

朝の、七時。溜息をつき、布団を畳む準備をする。するとふいに、いい匂いがした。

「―――――――ん?」

台所からだ。………味噌汁の匂い。一人暮らしだから、味噌汁が勝手に生まれることなんてまず無い。けれど、この最悪の寝起きを和らげるには充分な効果があった。ひょこりと台所に顔を出してみれば――――――

「やあ、千草くん。お早う」

「ああ、おはよーございま……………うわあっ!?!?!?」


――――――――そこには。台所に立つ、藤宮蘇芳がいた。

その瞬間昨日のことをすっかりはっきり思い出す。居間で俺は、この人が自分の頸動脈を切って死ぬ所を見た。流れる鮮血を見届けた。そうだ、俺は。きっとあの後気絶をして………………いや、待て。

「…………………………なんで、生きてるんだ」

藤宮蘇芳は振り向き、目を細めて笑う。昨日はその笑みを和やかなものに感じたが、今はものすごく怖い。

「言ったろう、俺の体は特殊なんだよ」



白米。卵焼き。焼き酒。油揚げと葱の味噌汁。

ものの見事に「最高の朝ごはん」が目の前に並べられている。これ、こいつが全部作ったんだろうか。作ったんだろうな。

「というか、勝手にうちの台所使わないでください」

「失礼した。気絶した君を放ってはおけなかったのでね。鍵の場所もわからないし、せめて君が目を覚ますまで居ようと思ったのだ。そうしたらうっかり寝てしまい、朝になり、腹が減ったので朝飯を作ったという訳だ」

「二回言いますけど、人んちの台所を勝手に使わないでください本当に」

「君の分も作ったのだから良いではないか」

「良くない。色々と良くないぞ!」

「いいから冷めない内に食い給え。俺は飯を残されるのがこの世で一番憎いのだ」

ぐ、と黙ってしまう。食べ物を扱う者として、その気持ちは大変よくわかるからだ。

俺は深呼吸を二回して、「………とりあえず顔洗ってきてもいいか」と言った。

「ああ、それなら良いとも。そら、行った行った」

「…………」

訝し気な視線を残したまま洗面所に行く。ざばざばと顔を洗えば、比較的落ち着いてきた。

「(……………どっからが夢だったんだ、昨日)」

顔を拭き、髪を軽く整えて居間に戻る。そこには先程と変わらない、お手本のような朝ごはんが並んでいた。ごくり、と唾を飲む。

「…………それじゃあ、いただきます」

「召し上がれ」

向かい側で藤宮蘇芳が手を合わせ、飯を食い始める。俺もそれに倣って味噌汁をひとくち飲んだ。…………うまい。出汁が効いてて、シンプルだけど温かくて美味しい。人が作る飯、久しぶりだ。鮭に手を伸ばし、しょっぱめの卵焼きを食う。俺は卵焼きは甘い方が好きだが、これもまた良し。もぐもぐと咀嚼していると、藤宮蘇芳は「いい食べっぷりだ」と褒めるような声色で言った。

「…………………」

「ん?どうした、そんな目で見て。いくら俺が色男でも、朝も早うからそんな熱烈に見つめられてはなあ。困ってしまうというかなんというか」

「あんな過激なもの見せといて、そりゃ無いだろ」

どこまでが夢だ、と聞く。ぜんぶ現実さ、と藤宮蘇芳は答えた。

「…………まあ、実際に見せてみないと信用しないと思ったんでね。驚かせたのは悪かった」

「………………あんた、何者だ?…………化け物、ってやつ?」

「化け物ではない。そうだな、一言で言えば―――――『不死身の人間』だ」

藤宮蘇芳はそこで卵焼きをひとつ、口に放り込む。よくよく噛んで咀嚼するまで見届ける。

「……………そんなもんが、本当に」

「いるのさ。君が知らなかっただけでね。とは言っても、俺も俺が不死身だと気づいたのはほんの数十年前の話だ。それまでは、人よりも傷が治りやすいなあ、くらいだったんだが。俺が不死身であるという、ある決定的な事件が起きてね」

「……………それは、俺の父さんと関係がある事か?」

「ご明察。」

味噌汁を飲む。俺は鮭の骨を皿の端にやり、皮まで食う。藤宮蘇芳はそれを見て、なんとも嬉しそうな顔をした。

「……………………あんたを食べた、って。………その、物理的に、か?」

「ああ。食うものが無かったからね。何か口に入れねば死んでしまう。俺も彼も死にそうだったから、俺は彼に――――――俺の肉を食うように言ったのだ。」

白米をかき込む。完全に朝にする話では無いし、ましてや飯時にする話ではない。

「だから彼はきっと、ずっと。俺を殺して生き永らえたと思っていたろう。罪の意識も感じていたに違いない、あの男は真面目というか、気にしがちな所があったからな」

「………………気にするだろ、普通」

「そうかな?君は、十五年前の五月二十日、何を食ったか覚えているかい?」

「そんなん、覚えてるはずないだろ」

「そうだ。その程度の認識でいいのだよ。生きてさえいればよかったんだ、俺のことなんかとっとと忘れて、幸せな一生を送って。長生きをすりゃあ、良かったんだ」

藤宮蘇芳は箸を置く。そうして手を合わせる。

「…………………………」

俺は、何も言えなかった。目の前の男がいきなり死んだり死ななかったり、朝ごはんを勝手に作ったりやりたい放題したとしても――――――父さんのことを想っていたのは、本当であろう。そう心の中で確信してしまったからだ。

「…………で、あんたは俺に何してほしいんだよ」

「おお。その話だな。聞いてくれるかい」

「聞きたくないけど…………」

「聞かせてやろう。」


――――――――どこかに伝わる人魚伝説で。「不老不死を辞める方法」がある。

それは首を落とすことや心臓を一突きすること、あるいは自分に肉を食わせた人魚を探し出すこと――――――――などなど。


「…………………………」

「だがしかし、俺は誰かに不老不死にさせられた訳じゃあない。緩やかに、いつのかにか『そう』なっていただけなのだ。その場合、どうしたらいいか?俺は考えた。考えて、考えて。そうしてひとつの結論に辿り着いた。それが――――――」

「………初心に帰る。つまり、」

「そう。君の父上に俺の肉をもう一度食べてもらえば、何かが変わるんじゃあないか。そう思ったんだがね」

ところが訪れてみれば、当の本人は鬼籍に入ってしまっている。だから息子である俺に肉を食わせたい――――――――そこまで思いついて、一気に食欲を無くした。けれど食事を残す事は自分のポリシーに反するので、勢いで白飯を掻っ込み、味噌汁でそれを流した。俺もまた、手を合わせる。

「…………………いや、普通に嫌なんだけど……………」

「君も父上に似て気にしいだな。俺が良いと言っているのだから良いのだよ。部位は選ばせてやるし、場所によっては調理だって俺がしてあげようじゃないか」

「そういう問題じゃなくてだな……………」

話が通じない。目の前の男は間違いなく人間の姿をしているし、本人も人間だと言っているが―――――――そこに当たり前の倫理観は無い。冷静に考えなくても、自分と同じ姿をした生き物を食べるなんて嫌だろう。

「……………とにかく、俺は嫌だからな」

「おや、いいのかい。俺は君の父上の罪を教えたじゃあないか。それに、先に交渉をしたのは君だぞ?」

「う……………」

それを言われると押し黙ってしまう。俺から言い出した約束を反故するわけにはいかない。かと言って出された条件と真実がどう考えても最悪なものであったため、考えざるを得ない。俺はしばらくうんうんと唸り、ようやく言葉を発した。

「…………………あんたの生活に支障の無い部位なら、食べてもいい…………」

「本当かい」

「…………………ああ」

「凄い渋面だ。君より生きているが、こんな渋面は中々みられるものじゃ無い」

けらけらと笑う藤宮蘇芳に対し「この野郎………」といった思いが浮かんでくる。………そうだ。食べる、だけで良いなら。その事実はやがて腸に生き、排泄され、無かったことになる。それならいいんじゃないか。そう自分を納得させ、俺は食器を持って立ち上がった。

「…………じゃあ俺、開店準備するから」

「ああ。精々夕食を楽しみにしてると良い。俺が腕によりをかけて肉料理を作ってやろう」

「少量で!少量で頼むぞ本当に!」




「千草くん、おはよう」

「おはようございます…………」

「フジミヤのにーちゃん、はよー。………なんか元気ないね。寝不足?」

「はよ。寝不足………ってわけじゃないけど……ま、大丈夫だよ。心配してくれてありがとうな」


商店街は朝から活気がある。洋服屋に靴屋、喫茶店に魚屋に八百屋。それぞれの店が開店し、学生や勤め人が歩き、通り過ぎていく。商店街を通り抜けるとすぐ駅があるので、このあたりに住んでいる人間は大体ここを通るし、顔なじみになっていく。

しかし、そんないつもと同じ商店街に会って。俺の活気はほぼゼロと言って良かった。

気絶するように眠ったというよりは気絶したからか、朝から胃もたれのする話を聞かされたからか。俺はよっぽど憔悴していたらしい。声はへなへな、体はふらふら。お隣の八百屋の奥さんからも「大丈夫かい………?」と心配される始末である。

「だ、大丈夫……………多分」

「多分って。何かあったの?」

「や、まあ。ちょっと夜更かししちゃっただけなんで、ご心配なく」

「そう?駄目だよ、ちゃんと寝て、ちゃんと食べないと」

「食べる――――――――――」

瞬間、俺の脳裏に男の顔が浮かぶ。恐らく現在、「肉を調達」しているのだろう。………あんまり汚さないようにとは言っておいたが。

「(どうしよう、これで居間に血が飛び散ってたら………)」

「やっぱり具合悪そうだよ。今日臨時休業にしたら?」

「大丈夫です………それに仕事してる方が気が紛れるんで………」

「?」

ふらふらになりながら奥さんに手を振り、店内に戻る。なるほど確かに、父の秘密を知った今日は「違う明日」だ。かといってここまでの変化は特に望んでいない。

「(………そうだ、しっかりしろ。仕事に集中、集中………)」

店先のガラスケースを拭き、冷蔵庫から肉を出し、並べる。そうしてようやく息を吐き、それらをじっと見つめた。

「(………………こうなっちゃえば、わかんないもんだなあ)」

俺たちはもう、どんな色をしたものが牛肉か、どんな形をしたものが鶏肉かなんてのは見た目でわかる。けれど、合い挽き肉にしたらどうだろう。………それだってわかるか。じゃあ、全然知らない部位を、店頭に何も言わずに並べたら?………その時、それが何の肉かなんてのは―――――それを置いた者にしか、わからないんじゃないか。

『そうだ。その程度の認識でいいのだよ。』


「……………肉塊になれば、変わらない……………か」


ガラスケースに目線を送る。余白がある。


ここに何の肉を置こう。頭の端でそんなことを考えた。



「やあ、昼休憩かい千草くん。茶でも淹れてやろうか?」

ちゃぶ台の前でひらひらと手を振る怪人がいる。夢ではない。帰りたい。ここが家だ。

「………肉混入しそうだからやだ」

「む、失礼だな。肉入り茶なんで不味そうな物、俺が作るわけ無かろう。………いや待て、『肉を入れた茶漬け』なら美味いんじゃあないか?白米の上に肉味噌と小葱、胡麻を添え、茶を注ぐ。麦茶やほうじ茶といった香ばしい茶の方が合うかな?昼飯にどうだい、千草くんや」

「うるせえうるせえ!よく喋るなおっさん!冷蔵庫に入ってる麦茶飲むわ!」

住居スペースが安らぎの場所ではないことに軽い怒りと新鮮味を感じる。というか、家に人がいること自体が懐かしい。それじたいは、悪い事じゃない。………いる人間が問題だが。

「………………俺、握り飯食べるけど。あんたも食うか?」

「おや、ついでに握ってくれるのか?親切なんだな、君は。」

「違うよ、ついでだついで。…………そもそもあんた、飯食うのか?」

「食わんでも死なんが、俺は食うのも好きでね。余裕があれば三食、飯を食いたいね」

にこにこと人懐こい笑顔でそんなことを言われては「………………そうかい」しか言えない。

「(……………自分の肉を食わせたいくせに、随分人間らしい………)」

朝ごはんも美味しかった。きっとこの藤宮蘇芳という男は、食べるのも食べさせるのも好きなのだ。その点だけ見れば、非常に好ましい。だって俺も、食べるのは好きだから。

そう考えながらボウルに白米を入れ、切り混ぜる。炊けた米のうまそうな香り。ちょっとだけ唇の端が上がり、軽く手に塩を付けてぎゅっぎゅと握る。癪ではあるが、よっつ作り―――――――視界の端に海苔があったので、軽く巻き付けることにした。皿の端にたくあんを四切れ乗せれば完成だ。おにぎりは二個ずつ、たくあんも二個ずつ。これだって久しぶりだ。父が死んでからずっと、自分の分しか作ってなかったから。

「………………………」

父の握ってくれた塩むすびは、少し塩辛かった。それで育ってきたけれど、日によっては「しょっぱいなあ」なんて思っていた。だから父が亡くなった後に作る握り飯は、自分好みに塩を少なめにしていたのだが。

―――――――なぜだろう。何かが足りないと思ってしまう。

塩が足りないのは、自分好みだから。それはわかる。けれど心の中に小さな針穴が開いたみたいに寂しい気持ちになる。それが近しい人を失った喪失というのも、理解しているが――――――――

「(そんなんは、本人にしか埋められないだろ………)」

だから、その穴を埋めるのは無理な話なのだ。時間以外、それを塞げるものはない。




「おお、塩むすびか。沢庵があるのが嬉しいね」

「ありがたく思えよ」

「有難く思っているとも。料理を振舞ってくれたという事実だけで、それはもう喜ばしい」

「……………………」

氷入りのコップにやかんから麦茶を注ぐ。煮出しすぎたか、少し苦みがあるのを氷が程よく薄めてくれる感じだ。美味しい。となると、米だってうまいわけで。手を合わせてから大きめのひとくち、噛めば噛むほど米の甘味が出る。思わず喉の奥の方で「ん~」みたいな声が出た。これは沢庵も確実に美味し――――――

「………………」

そこで、おにぎりを持ったままの藤宮蘇芳と目が合う。穴が開くほど見つめられたら食べ物へ向かう力のようなものが削がれてしまう。軽く睨みながら「何見てんだよ」と言った。

「ああ、今度は俺の方が熱烈な視線を向けてしまったようだ。申し訳ない」

「俺がどうかしたのかよ。別に殺しても生き返るタイプの人間じゃねえぞ」

「なあに、取るに足りない事だ。…………美味そうに食うな、と思ってな」

ごくん、と米を飲み込んだ。隣の奥さんにもよく言われる。なんだったら行きつけの居酒屋の店主にだって言われるし、友人からは「リスみたいな食い方するね」とか言われる。最後のはよくわからないが、総じて意味する所は同じだろう。

「……………よく言われる」

だからなんだよ、と返した。「別に?」と何でも無いように言われた。

「ただ俺が、美味そうに食うヒトの顔が好きだというだけの話だ」

いただきます、と藤宮蘇芳も手を合わせる。一口は俺よりも小さく、咀嚼は長い。ごくんと飲み込む喉の動きを見届けた所で、その言葉の意味もちゃんと呑み込んだ。呑み込んで、ようやく。


「………………はあ!?!?」


――――――――いつもより少しだけ、おにぎりを美味いと感じた、気がする。


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