第3話

「安芸ってさ」


 いつものように、私がソファーの上でごろごろしていると、東雲が何気ない口調で言った。


「いつも何時くらいに寝てるの?」


「えっ? 十一時くらいだと思うけど……なんで?」


「べつに。ここに来るといつも寝てるから、そんなに寝不足なのかと思って」


「朝がはやいだけ。準備にいろいろ時間かけてるから」


「ふーん」


 と、東雲は生返事。


「いつもオシャレだもんね。安芸」


「そうかな?」


「うん。私よりはね」


 たしかに。



 でも、東雲は化粧なんてする必要ないだろう。


 私はベッドに寝そべったまま、視線をスマホから東雲に移す。


 細くしなやかな指を鍵盤にはしらせる、長い黒髪の少女。その顔は驚くぐらいに整っている。


 かわいいっていうよりも、キレイとか、美人って言葉が似合う顔だ。



「なに?」


「……なんでもない」


 目が合ったので、何気ないふうに目をそらす。



 妙に思われるかもなんて思ったけど、東雲はまるで気にしていないふうにピアノを弾き続けている。


 だから私も、また適当にスマホをいじった。


 曲が変わった。それは私が初めて聞く曲だった。私に分かるのは、クラシックっていうことだけ。



「ねえ」


「なに?」


「いま弾いてるのって、なんの曲?」


 すると、東雲はなんとなく考えるような顔をした、気がする。それから、


「なんの曲だと思う?」


 珍しく、ちょっとイタズラっぽい口調で訊いてきた。


 いや、そんなこと訊かれてもな。私に分かるはずない。



「うーん……ベートーヴェン、とか?」


「うん。正解」


 自分から訊いたくせに、東雲は妙に気のない声で言った。……ホントに正解なのかな?


 また眠くなってきた。やっぱり、六時前に起きるのはキツイ。でも、こればかりは仕方な……



「ねえ」


 落ちかけていた意識が一気に覚醒する。


「えっ。なに?」


 ちょっと驚いた声が出た。でも、東雲はそんなことはどうでもいいという感じで言ってくる。



「……最近さ、テレビとか見てるの?」


「? 急になに?」


「べつに……いつもスマホいじってるけど、テレビはどうなのかなって……どう?」


「ほとんど見てない。たまにドラマ見るくらいかな」


「ふーん。そうなんだ……」


 会話が終わった。



 てか、なにいまの返答。自分から訊いたくせにずいぶん適当じゃない? でも……


 気のせいかな? いまの言葉、ちょっと安心したみたいな、そんなニュアンスがあったような……?


 そんなことを考えている間に、ピアノの音に誘われるみたいにして、私の意識は薄れていった。




 その日の夜。


 私はベッドに寝転がって、適当にスマホをいじっていた。



 しばらくいじって、目を休ませようと思って一度置いたところで、あるものが目に入った。


 テレビだ。それで、今日の東雲との会話を思い出して、適当にチャンネルをパチパチ回す。やっているのは、バラエティやクイズ番組、それにドラマ……うーん、とくに面白そうなのはやってないな。


 消そうとしたそのとき、リモコンを持つ手が固まった。


 うぅん、それだけじゃない。体まで固まって、私の目はテレビにくぎ付けになった。



 やっているのは音楽番組。その画面に、見知った顔が映っていた。


 東雲だ。最近、一緒に授業をサボっている東雲が、いつもピアノを弾いている東雲が、テレビに映っていた。


 でも、その雰囲気はまったく違う。純白のドレスを着て、化粧をして、なんというか……キレイだなって思う。てか……



 え? なんで? どういうこと?


 驚いたままでいると、東雲を紹介するVTRが始まった。


 曰く、東雲は天才ピアニストで、幼いころからその才能を発揮していた。いままであらゆる賞を総なめにしてきた……とか、そんな内容だ。



 ていうか、マジか。そういうアレだったんだ。


 素人の私でもピアノがうまいってことくらいは分かったけど、どおりでって感じ。


 なんで黙ってたんだろう?


 そんな疑問を持つ私をよそに、東雲はいつもみたいに、鍵盤に指をはしらせた。




 翌日。


 倉庫へ足を運ぶと、東雲はいつものようにピアノを弾いていた。


 だから私もいつもどおりにソファーでごろごろして、たまに雑談をして……


 でも、あとになって考えてみると、いつもどおりなのは東雲だけで、私は違っていたかもしれない。



 いつも話している、自分の知っているやつが〝有名人〟ってことに、浮かれているみたいな、奇妙な非現実感的なものがあったから。


 だから私は、深いことなんてすこしも考えずに、軽い気持ちで切り出してしまったんだ。



「昨日、ひさしぶりにテレビ見たらさ」


 そう言った瞬間、ほんの一瞬、ピアノの音が止まったような気がした。でも、そう思ったときにはまた聞こえ出したから、やっぱり気のせいだったかもしれない。



「東雲、テレビ出てたね。ピアノ弾いてた」


「……まあね」


「いつもここで弾いてる曲弾いててさ、でも、なんかいつもと違う雰囲気だった」


「そう……?」


「てかさ、曲、ベートーヴェンでもモーツァルトでもなかったんだね。だれだっけ? バッハ? って人のだったんだ。なんでウソついたの?」


「べつに」


「東雲、すごいやつだったんだね。知らなかった。天才ピアニストなんて呼ばれててさ、すごいじゃん。どおりでうまいと思った。私もさ、東雲のピアノは……」


 言葉を止めるだけじゃなくて、思わず顔まで顰めてしまった。演奏が止まると同時に、とても耳障りな、イヤな音が聞こえてきたから。



「やめて。その話聞きたくない」


「えっ? なんで?」


「なんでも。いやなの」


「だからどうしてさ。ひょっとして、照れてんの?」


「ちがう。そんなんじゃない」


「いいじゃん。知り合いがテレビに出たら、からかうまでがお決まりでしょ? いろいろ教えてよ。ねえ、いままでにもテレビ出たり……」



「だからそれがイヤだって言ってるのっ!!」



 最初、私はその声がだれのものなのか分からなかった。


 いつも物静かな東雲がこんな声を出すところなんて、私は初めて見たし、想像もできなかったから。



 声……というか、こんな、ほとんど悲鳴みたいな……


 驚きすぎて、私はどうすればいいのか分からなくなった。


 とりあえず口を開いてみたけど、なにを言うかなんてもちろん考えていないし、考える余裕もなかった。



「しっ、東雲……」


 絞り出すみたいにして、なんとか名前を呼んだとき、チャイムが私の声をかき消した。


 東雲は返事をしてくれなかった。うつむいているから、長い黒髪で顔が隠れてしまっていて、どんな表情をしているのかも分からない。


 私は、なかなかソファーから立ち上がれずにいた。



 このまま出て行ったら、もう二度とここには来れないんじゃないか?



 そんな不安が頭を駆け巡っていたから。

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