夕のち夜



 暮れ落ちるちいさな夕焼けが川沿いを歩く人々にやさしく別れをつげるころ、その遊歩道に面する一つの家に住むまりが化粧室から帰ると、部屋の机の上の活字に――ほのかな夕焼の火が灯っていました。

「あ、まりちゃ! おすー!」

 夕焼は元気になるおクスリをキメてきた、みたいに勢いよく飛びまわり、果無いような光のあとにつきまとわれつつまりはコーヒーを淹れ、スカートをなでつけて机の前に体重をあずけました。

「おすーじゃなくて。何」

 夕焼はぴたりと動きをとめ、光の余波だけが机のチリを払うらしく、ゆれ動きました。

「きゃー! まりちゃ、マジクール~!」

 夕焼は飛びまわっています。

「用があるんじゃないの」

 まりがコーヒーカップにくちびるをあてると、夕焼はまたぴたりと動かなくなり、鱗粉めいた光のコナが部屋中にちらされました。

「いや~、これといって用があるでもないんだけどさあ、露ちゃがさあ、『マリの部屋を覗きに行ってこい』って。あコレ言っちゃいけないヤツ~! まりちゃのキオク、飛びまくれ~!」

 と、夕焼はそのへんを飛びまわりました。

「アンタが飛びまくってんでしょうが」

 夕焼はぴたり。

「アレ? あたし今何してた?」

「…………もうねるから」

「え? 今からグースピー?」

「ねてなかったの」

「そっか。あしたさ、どっかいかない?」

「……いかない」

 夕焼は散々飛びまわった挙げ句急停止し、クスリの利きすぎっぽくわめき立てました。

「なんでなんでなんでなんでどしてどしてどしてどしてなぜなぜなぜなにゆえなにゆえ教えて誰かあたしに教えて」

「ちょっ……落ちついてよ夕焼。あのね、ペダウってゆう女の子を家まで送ってあげて欲しいって教会の女のひとに頼まれてるの。だから……」

「ふーん」

 熱烈に訊いたわりに興味はないようでした。

「夕焼は光を散らして飛び去っていきました。

 その夜、夜露よつゆは卓上にふいッと着地して、窓辺から見廻しました。

 本、手帳、コーヒーカップ、インクビン、メモ用紙、辞典、万年筆、文鎮(イルカ)ラジオ、クロッキー帳、鉛筆、アロマポット、読みかけの恋愛小説――、それらが机の上に散乱しています。

「こいつは酷い嵐がこの部屋を吹き荒れたらしい」

 と、夜露は冷やかし半分にいいました。

 まりはミルクを入れた陶磁器の小鉢を夜露の前に置き、コトコト片づけはじめました。

「アンタがいきなり入ってくるからでしょ……いつもの合図してよ、小石のヤツ……」

「ガラスが傷付くからやめろとマリがそう言ったんじゃないか」

「そうだっけ……」

「ま、忘れるのは悪い事ばかりじゃない。過去の面影に踏み出す足首を摑まれてばかりもいられんからな」

「…………」

「ユウイチの事は私も残念に思っている」

「…………」

「死者というものは、大いなる海に落ちる雨の一と粒のようなものなのかもしれんな。私や夕焼の如く、自然に逆らい未練がましくハイカイする者も少しばかりいるようだが。しかしな、霊感的に連絡する者同士であれば死さえ二人を引離す事は難しい。愛する者を見守ろうとするのは、不変的な光相だろう」

「……もうねるから」

「そうか。なら今日は帰るとしよう。だが少しばかり待ってくれ。私はまだこのミルクを飲み終えていないのでね」

「ほんとにちょっとずつしか飲めないの」

「何を言ってる……。私はただの猫だぞ」

 夜露は既にミルクを飲むのに夢中でした。

「よく言うよ……」

 と、まりはほんのちょっぴり笑いました。



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