【第一章 日常】 第9話 飛将の戟

 秋とはいえ、まだ寝苦しい夜である。


「眠れないなら、これを飲め。ただし、れるのは家中で最もよく寝る奴に任せるんだぜ」


 友人のちゅうこうが茶をくれたのは、今朝のことである。商人である彼は、近頃は毎朝、我が家にやってきて、珍しい菓子や野菜、時には宝石や絹を売りつけていく。彼のすまいは、こう家という大きな商家である。妻が女主人で、仲興は夫にして店員という立場だという。

 とはいえ、あるじの夫である彼が、毎朝、物を売りに来るというのも酔狂な話だ。

 一度、使用人にさせないのか、と尋ねたら、一日に一度くらいおまえの間抜け面を見ないとおもしろくないだろう、と言い返された。

 私はいたって真面目な性格で、顔も生真面目が出ていると言われるが、どうやら、仲興にとっては、おもしろい間抜け面らしい。

 

 現実的な話をすると、黄家からすれば、祖父の代から高官を輩出している我がおう家とつながっていることは、政治の動きを察知するのにうってつけなのだろう。

 証拠に、朝の忙しさが収まったころ、黄家の女主人がやってきて、私の妻と話し込んでいるらしい。少年時代から私の元で働いている程適ていてきの言葉だから、間違いはないだろう。

 夫婦で入り浸っているのだから、私が不眠を相談したことは、今頃、妻に筒抜けに違いない。心配性の妻のことだ。温めた牛の乳か、卵と牛の乳と砂糖を混ぜて蒸した菓子か、口当たりがよく、腹に優しいものを用意して待っているに違いなかった。

 

 申し訳ないことに、私の残業は、まだ終わらない。

 

 妻が寝ずに待っていると悪いから、私には仲興のくれた茶がある、と伝えておいたほうがよいだろうか。

 懐から茶の包みを取り出し、中をのぞく。茶葉にしては甘い香りがした。よい品物なのだろう。普通、茶を飲むと目がえてしまうのだが、眠くなるとは変わった茶だ。

 茶の包みをしまい、顔を上げる。

 

 机の書類の上に、一本の矢が置かれていた。

 先ほどまでは、なかったものだ。

 私は辺りを見回す。

 矢とは、物騒だ。誰かが射込んだのなら、私を狙っていることになるし、音に気づかなかった以上、相手は密かに矢を射る技を身につけているということになる。

 

「誰かいるのか!」


 声を上げたとき、頭がクラリとした。前のめりになり、体勢を立て直そうとするがかなわず、そのまま床に倒れた。


 どのくらい倒れていたのだろうか。

 離れたところで話し声が聞こえた。

 一人は仲興だ。

 夜の役所は、門番の機嫌も悪い。よく私の執務室まで入れたものだ。

 いま一人は、はくぶんである。彼も役人だが、違う部署で働いている。

 どうしたのだろう。

 普段は、二人とも私の執務室など訪れないのに。

 

 嫌な予感がした。

 以前、伯文だと思ったら白鼠しろねずみが化けていたことがあった。

 私は、彼らの正体を確かめようと、足を前に出そうとした。

 だが、動かない。

 足だけではない。

 身体全体が、動かないのだ。


 どうしたのだろう、と視線を巡らすと、磨き上げられた柱にうっすらと影が映っているのが見えた。

 奥の柱に映る人が三人。

 そして、そばにある柱に細く光る物が一本。槍だろうか。

 いや、槍の両脇に、細い月形の刃があって、二本の金属で柄に固定されている。

 げきだ。それも、方天画戟ほうてんがげきかんの末期に、強さと裏切りで知られた武将が使ったという。文官の私では、とうてい扱いきれないものである。

 例の武将は、武勇に優れた将軍として飛将ひしょうと呼ばれた。


「では、けをすればよい。ひとつ、俺が矢を射てやろう」


 突然、三人目の男が話し始めた。

 友人のようえんだ。


 仲興、伯文、淵季。


 これで、三人。柱に映る人影と一致する。

 じゃあ、私はどこにいるというのだ?


「仲興は、かの国との戦は避けられぬから、こちらから仕掛けるべきだというのだな」


 淵季の声に、仲興がうなずくのが見えた。


「そして、伯文。国ができてから数十年しか経っておらず、まだ、体制を整える時期であり、無用な戦いは避けるべきだというのだな」


 伯文が、静かな声で、そうだ、と言った。


「では、俺が矢を射よう。あの方天画戟の柄に当たれば、戦いはなしだ。当たらなければ、開戦の合図としよう」


 そのとき、楊淵季の姿が視界に入った。彼は私に向かって弓を引いていた。矢じりがまっすぐに私を狙っている。

 淵季と私との間には、距離があった。彼が弓の名手でもなければ当たらないだろう。だが、なぜ、彼は、私を射ようとしているのか。

 もし、矢が当たれば、死んでしまうかもしれないというのに。


「恨みっこなしだぞ、二人とも」


 淵季が弓を引き絞り、指を離した。

 瞬間、矢が私の心臓めがけて飛んできて、グサリと刺さった。


 痛みはなかった。ただ、相変わらず体が動かない。

 私はもう一度、影の映る柱を見た。

 立派な方天画戟である。しかも、不思議なことに、自立している。

 戟の柄を、矢が貫いていた。

 私は、方天画戟になっている。

 ぼんやりした頭に、伯文の低く、ゆったりとした笑い声が染み込んだ。


 私は思い出していた。幼い頃、祖父がしてくれた歴史物語だ。

 漢の末期、飛将が仲裁をしたときがある。

 飛将は、言ったのだ。

 おれが射た矢が方天画戟の柄をとらえれば、この戦いはなしということにしよう、と。

 見事、矢は命中した。


 私はその話を思い出しながら、ゆっくりと体を伸ばしたまま、倒れた。


 ――――


 頬に震えを感じて目を覚ましたのは、体が秋の夜中の風に吹かれて、すっかり冷えてからだった。


「大丈夫か、欧陸おうりくよう


 楊淵季が子どものようにひざを抱えてしゃがみ、私を覗き込んでいる。


「訪ねてきたら、いきなり倒れているから驚いたぞ。今回はなんの怪異だ」


 淵季のあきれ顔を見つめながら、私は自分が方天画戟になっていたことを思い出す。

 おそるおそる体を起こすと、手も足も、元の通りに動いた。

 私は床にあぐらをかき、項垂うなだれる。


「夢を見ていたようだ」


 背中は汗で着物が貼り付いている。


「ひどい夢だったようだな。それで、何がきっかけだ?」

「わからない。仲興にもらった茶の包みを開けたら、急に頭が重くなって」

「茶? 効用を教えてもらったか?」

「よく眠れる茶だそうだ」

「それはいけないな。仲興は言わなかったのか? 何をしたって悪夢を見ないような、寝ることだけは得意な者に茶を淹れさせろ、などとは」


 私は、仲興の言葉を思い出す。


 ――淹れるのは家中で最もよく寝る奴に任せるんだぜ。


 確かに、そのようなことは言われていた。


「では、茶が原因で私は倒れたのか」

「おそらくはな。南方の珍しい茶で、そういうのがあるんだ。茶葉の状態で香りをかぐとよくない。茶を淹れてしまえば、心地よく眠れる効果があるというのだが」


 それにしても酷い夢だった、と、方天画戟になっていた自分が映っていた柱を見遣る。よく磨かれているとはいえ、あのようにはっきり姿形が映るはずもなかった。

 その時点で夢ときづいてもよかった、と私は自分の回らない頭に溜息をつく。


「淵季、どうしてそんなことを知っている」

「その茶を仕入れたばかりのときに、黄家で仲興から聞いたからだ。俺は、よくあそこのそばの店で飲んでいるからな」


 手で杯を口元に当てる仕草をしてから、淵季は、ん、と顔をしかめた。


「あれ、この部屋、あんなところに傷があるな」


 淵季は柱に近づいていき、根元のほうに手を当てる。彼の手元を陰にしないように気をつけながら、私も覗き込む。


「開くぞ?」


 淵季は柱の傷に爪を立て、力を入れた。カポンと音がして、表面が外れる。

 中に小さな空洞があって、刃のかけらが置かれていた。


「まじない、か。質のいい刀かな」


 そでにくるむようにして、淵季が拾い上げる。刀にしては細く、そりが強い。


「まさか、方天画戟?」


 つぶやく。淵季が振り返った。


「確かに、形は合いそうだが。しかし、方天画戟といえば、漢の末期の飛将、裏切りの代名詞じゃないか。忠臣として名高いおまえにしては、らしくない名を出すもんだな」

「それは」


 私は夢のことを話した。みるみる淵季の眉間のしわが深くなり、険悪な表情になる。


「……おまえが、俺の武器だとでもいいたいのか。そして、俺に裏切れ、と」


 どんどん淵季のかもす雰囲気が凶悪になっていく。


「怒るな。別にそんなことはないだろう。夢の話だぞ」


 私は慌てて、淵季の肩をつかんだ。はっとしたように、淵季が短く息を吸った。


「ああ、もう。いいから、紙をよこせ」


 淵季は手を払い、私の机のほうに歩いて行く。くずかごにあった紙を何枚か取り、刃を包むと、表面に何か文字を書き付けて、懐にしまった。


「おまえが仲興から、茶をもらっていて良かったよ」

「なんだ? 急に」

「南の方では、化け物が睡眠を妨げると言われていてな。その茶は、そういった化け物を身の回りから洗い出す効果があると噂されているのだ」

「茶葉の香りのおかげで、そのまじないが見つかった、というのか」

「そういうことだ。夢に方天画戟が出てきて、あの柱に映ったのは、まじないがあったからだ」


 淵季は不機嫌そうに言い、爪をかんだ。そんな姿を見たのは、初めてだった。


「……俺は、裏切らないぞ」


 ふと、淵季が言った。


「わかっているよ。でも、珍しいな。今でもときどき、『俺は不敬のかたまり』だなんて言っているのに」


 なぜ、淵季が不敬という言葉にこだわるのかわからないが、少年の頃より彼の口癖だった。俺は不敬だ、というのが。

 漢の末期の飛将にたとえられるのは酷いが、こんなに怒るほど、陛下に忠誠心があるとは思わなかった。

 すると、楊淵季は私を一瞥いちべつし、吐き捨てるように言った。


「ばか言え。俺が裏切らないのは、この国だよ。俺とおまえがいる国だ」

〈おわり〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る