【第一章 日常】 第8話 老師の謎

 月夜に書庫に入る者は、古の流行病にたおれるか、人に飢えた化け物にわれる覚悟をせねばならぬ。

 迂闊うかつに一歩踏み出せば、熱林より先が見えず、氷の谷より暗い通路を進まねばならぬからだ。

 

 夜に人手がないからと、陛下に本を取ってくるよう頼まれた。残業中の執務室に、陛下の使いが直々に現れたのでは断れない。

 私はしょくだいを一つ持って、書庫へ向かった。

 

 陛下がご覧になる書庫は、宮殿に二つ、役所に二つある。

 役所にあるもののうち一つは、陛下がお出しになる命令などを司る役所に付属している棟で、法に関する書物が大半である。

 私が向かっているのは、残る一つ。

 ほかの三つの書庫に分類できない本が詰め込まれたところである。

 本来なら、ようえんが担当するのだが、夜間である。使いによれば、すでに帰ってしまった、という話だった。

 

 ――書庫と宝物庫に入るときは名乗れよ。

 

 前に、淵季がそんな忠告をくれたことがある。物が来訪者の挨拶を気にするとは思えないが、ここは魑魅ちみ魍魎もうりょう跋扈ばっこするところだ。


欧陸おうりくようと申す。夜に失礼いたす。陛下の命により、仙山せんざんの書を借りに参った」


 扉を開け、真っ暗な室内に呼びかける。奥のほうで、空気が、うわんと鳴る音がしたが、反応はない。きっと金属の器か何かがあって、私の声が響いてしまったに違いなかった。

 扉の脇にある蝋燭ろうそく立てに燭台を置き、扉を閉めて内側からかんぬきをかける。指定された書架しょかの番号を探す。げんの二百三十七。玄というのは、この書庫の名前である。

 目的の書架は、かなり奥の方にあるようだ。

 私は蝋燭の明かりが届く範囲を気にしながら、足を進める。

 ようやく、二百二十まで来たときだった。


 バタン。


 離れたところで風が扉を打つ音がした。振り返ると、さっき閉めた扉が開いていた。蝋燭の炎が風に揺らいだと思うと消え、細い煙が上がる。同時に、辺りは青白い月明かりに包まれた。

 とはいえ、蝋燭がないと、かなり暗い。本の題名を確認できるだろうか、と書架をのぞき込む。


「よい月夜であるな」


 突然、隣から声がした。

 見ると、青白い衣を着た白髪の老人が、私と並んでいる。

 背筋に寒気が走った。

 私が入ってくるまで、この書庫には鍵がかかっていた。そして、私は入ってすぐに、内側からかんぬきをかけている。

 風が扉を押し開けてから入ってきたとしても、私に気付かれず、ここまで来られるはずはなかった。


 魑魅魍魎、である。


 私は答えてよいものかわからず、小さくせき払いした。


「欧陸洋殿とおっしゃったか。おじいさまは欧太白おうたいはく殿であろう。昔、わしの生徒だった」


 私は老人を見つめた。かなりの年齢に見えるが、腰は曲がっていない。髪もひげも白いが、つやがある。顔にはしわがあるが、肌はうるおっていた。

 存外、若いのかもしれない。

 一方、祖父は私が小さい頃に病で亡くなった。生きていれば、この老人を越える年齢である。この者の生徒であったはずなどなかった。


 私はまた、小さな咳払いをした。

 すると、老人は「よいかな」と言った。


 私は気づかぬ風で、月明かりの中で目をこらし、表紙の文字を読む。

 仙山に関する書物の名は、見当たらない。


「なにをお探しかな」


 老人は問うた。

 私は答えない。


 次の書架を見ようとしたとき、老人が手招きをした。


「お探しの本は、これであろう」


 老人の手元を覗き込むと、確かに仙山に関わる書だ。


「ありがとうございます」


 思わす声を出し、本を受け取ろうとする。


よいかなよいかな。本は、こうするのだ」


 突然、老人が本を破り、紙を食べ始めた。紙はあめのように溶けて曲がり、老人がそれをしゃぶると、透明になって消えてしまう。


「それは、陛下がお求めになった本で」


 私は初めて老人の目をしっかりと見た。

 真っ黒な穴が二つあった。深い。頭など通り抜けて、書庫の奥の奥まで、続いているように見える。

 そうしている間にも、本はどんどん食べられてしまう。

 私は老人から本を奪い取ろうと手を伸ばした。


 瞬間、私と老人の間を、何者かがさえぎった。

 私に背中を向けた人物は、いつもの官僚の衣を身につけ、肩で息をしている。

 よほど、急いだと見えた。

 楊淵季だ。


「動くなよ、陸洋」


 淵季はこちらを見もせず、まっすぐ老人を向いている。


「淵季。この老人は本を」

「黙ってろ」


 低い声で言われ、私は口を閉じた。

 老人は口を笑う形にゆがめたまま、どんどん本を破いてしゃぶっている。しかし、淵季は何もしようとしない。

 とうとう、老人は表紙まで食べてしまった。


「本をお渡し願いたい」


 楊淵季が静かな声で言った。

 老人は奇妙なものでも見るように首をかしげ、ひげを指先でしごいた。


よし。では、儂がこの部屋から出てよい、と言ったら、すべてを元に戻してあげよう」


 老人の目は真っ黒ながら、表情が穏やかになったせいか、知性が感じられた。

 淵季がこちらを向いた。珍しく、戸惑っている顔だった。私も、分からない、というように首を振って見せる。


「おい、陸洋。何か言ってみろ」

「黙ってろと言ったのは、おまえだろ」

「今は別だ。帰りたいとか、何とか。妻子も独立した家も持たぬ俺より、一家の主であるおまえのほうが、帰りたい理由がつくだろう」


 背中を叩かれ、私は老人の前に出た。

 老人への言い訳を、避けられそうにない。

 私は、理由をひねりだした。


「ええと、息子が寝る前に本を読んでやることになっておりまして、もう遅いので家に帰りたいのですが」

「ほかに家族がおるのなら、その者がそなたの代わりに読めばよい」


 老人が思いの外、抑揚よくようの強い口調で言い返した。


「しかし、残業続きで読んでやれないと、父の威厳というものがやや失われがちでございます。私は、ぜひ、今日、帰って本を読んでやりたい」

「これまで失墜した威厳が一晩の行いで回復するわけでもあるまい」


 正論だ。

 私は淵季に助けを求めようと視線を振ったが、彼はうつむいて考え込んでいた。


「陛下のご命令で来ているのです。早く戻らないとそのうち誰かが探しにきますよ」

「そのときを待てば良い」

「それに私は仕事も残っている。早く片付けないといけないのです」

「気の毒だが、そなたの仕事は際限ない。ちょっとここで休んでいくがよい」


 その後も、さまざまな理由を試してみた。

 しまいには、あまり遅いと妻が浮気を疑うと言ってみたが、疑ったところで男ばかりの役所で何があるのかと言い返された。さらに、父や兄たちのところへ知らせが行き、しかられるとか、幼い頃から変わらぬ心配事まで話してみたが、帰ることは許されない。

 もう駄目だと振り返ったところで、あきれ顔の楊淵季と目が合う。


「おまえ、ずいぶん家族で苦労しているんだな。親しい家族がいるのも善し悪しだ」


 そのつぶやきのような言葉を聞いて、私は久しぶりに腹が立った。


「うるさいな! 私ばかりに言い訳させて、一言も言わない淵季のせいだろう! こっちはもう、出尽くしたぞ」

「その程度で、か。少年の頃からあれだけ勉強ができるのに、まともな言い訳一つ思い浮かばぬとは」


 成績のことを言われて、体にしびれるような熱さが走る。

 優秀は優秀だった。それは、父も兄も、全員官僚だったからだ。官僚になれぬのなら、家族として受け入れられないという危機感があったからだ。

 好きで優等生になったわけではない。

 それに、ろくに勉強をしていないふうだったのに、淵季の方が官吏かんり登用試験の成績はよかったじゃないか。


「じゃあ、おまえが言い訳を考えろよ!」


 まるで少年の頃のような口調で、大声を出してしまう。

 淵季もムッとしたように、腕まくりをした。


「やるか、役立たず。本気になれるならかかってこい」


 役立たず。

 その一言が、私に理性を失わせた。

 相手が淵季なのも構わず、私は力任せに肩をつかんだ。呼吸が荒くなり、指にこもる力がどんどん強くなる。

 このままでは、肩の骨を砕いてしまう。

 そう、恐れたときだった。


よし!」


 老人が叫んだ。


「こんな貴重な本が多いところで喧嘩けんかをするとは、大馬鹿者だ。出て行け!」


 瞬間、淵季がニヤリとした。私の指先からも、力が抜けた。

 彼は私の手を振り払うと、老人に向かって礼をした。


「それでは失礼いたします、先生。本を、お渡し願えますか」


 老人は、あ、と軽い声を挙げた。だが、すぐに口元を笑わせ、さきほど食べたはずの本を淵季に差し出した。

 本を受け取って引き下がった淵季が、私に小声で「可及的速やかに出るぞ」と言った。私たちは振り返りもせず、書庫を出て、鍵を掛けた。


 私は消えた蝋燭を廊下に置き、大きな溜息をついた。

 楊淵季は書庫の扉に背中を当て、月を仰ぐ。


「満月か。よくないな」


 それから、本をふところに挟むと、額を押さえる。


「今日の満月は、今年いちばん、大地に近いのさ。妖怪じゃなくても、知識にこびりついた偉人の魂が、歪んだ形でよみがえってしまう」


 私は書庫を振り返った。


「あの老人は、偉人だったのか?」

「そうだな。俺の記憶が正しければ、かんの末期に、二人の軍師を見いだした人物だ。……さっきは、すまなかったな」

「え?」

「その二人の軍師が、あの先生に同じ謎を掛けられて、解いたんだよ。二人は部屋の中で大喧嘩おおげんかをして、追い出される形で部屋を出たんだ」


 思い出せてよかった、とつぶやくと、淵季は姿勢を正し、廊下を戻っていった。 

 

〈おわり〉

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