【第一章 日常】 第8話 老師の謎
月夜に書庫に入る者は、古の流行病に
夜に人手がないからと、陛下に本を取ってくるよう頼まれた。残業中の執務室に、陛下の使いが直々に現れたのでは断れない。
私は
陛下がご覧になる書庫は、宮殿に二つ、役所に二つある。
役所にあるもののうち一つは、陛下がお出しになる命令などを司る役所に付属している棟で、法に関する書物が大半である。
私が向かっているのは、残る一つ。
ほかの三つの書庫に分類できない本が詰め込まれたところである。
本来なら、
――書庫と宝物庫に入るときは名乗れよ。
前に、淵季がそんな忠告をくれたことがある。物が来訪者の挨拶を気にするとは思えないが、ここは
「
扉を開け、真っ暗な室内に呼びかける。奥のほうで、空気が、うわんと鳴る音がしたが、反応はない。きっと金属の器か何かがあって、私の声が響いてしまったに違いなかった。
扉の脇にある
目的の書架は、かなり奥の方にあるようだ。
私は蝋燭の明かりが届く範囲を気にしながら、足を進める。
ようやく、二百二十まで来たときだった。
バタン。
離れたところで風が扉を打つ音がした。振り返ると、さっき閉めた扉が開いていた。蝋燭の炎が風に揺らいだと思うと消え、細い煙が上がる。同時に、辺りは青白い月明かりに包まれた。
とはいえ、蝋燭がないと、かなり暗い。本の題名を確認できるだろうか、と書架を
「よい月夜であるな」
突然、隣から声がした。
見ると、青白い衣を着た白髪の老人が、私と並んでいる。
背筋に寒気が走った。
私が入ってくるまで、この書庫には鍵がかかっていた。そして、私は入ってすぐに、内側から
風が扉を押し開けてから入ってきたとしても、私に気付かれず、ここまで来られるはずはなかった。
魑魅魍魎、である。
私は答えてよいものかわからず、小さく
「欧陸洋殿とおっしゃったか。おじいさまは
私は老人を見つめた。かなりの年齢に見えるが、腰は曲がっていない。髪もひげも白いが、つやがある。顔には
存外、若いのかもしれない。
一方、祖父は私が小さい頃に病で亡くなった。生きていれば、この老人を越える年齢である。この者の生徒であったはずなどなかった。
私はまた、小さな咳払いをした。
すると、老人は「
私は気づかぬ風で、月明かりの中で目をこらし、表紙の文字を読む。
仙山に関する書物の名は、見当たらない。
「なにをお探しかな」
老人は問うた。
私は答えない。
次の書架を見ようとしたとき、老人が手招きをした。
「お探しの本は、これであろう」
老人の手元を覗き込むと、確かに仙山に関わる書だ。
「ありがとうございます」
思わす声を出し、本を受け取ろうとする。
「
突然、老人が本を破り、紙を食べ始めた。紙は
「それは、陛下がお求めになった本で」
私は初めて老人の目をしっかりと見た。
真っ黒な穴が二つあった。深い。頭など通り抜けて、書庫の奥の奥まで、続いているように見える。
そうしている間にも、本はどんどん食べられてしまう。
私は老人から本を奪い取ろうと手を伸ばした。
瞬間、私と老人の間を、何者かが
私に背中を向けた人物は、いつもの官僚の衣を身につけ、肩で息をしている。
よほど、急いだと見えた。
楊淵季だ。
「動くなよ、陸洋」
淵季はこちらを見もせず、まっすぐ老人を向いている。
「淵季。この老人は本を」
「黙ってろ」
低い声で言われ、私は口を閉じた。
老人は口を笑う形に
とうとう、老人は表紙まで食べてしまった。
「本をお渡し願いたい」
楊淵季が静かな声で言った。
老人は奇妙なものでも見るように首を
「
老人の目は真っ黒ながら、表情が穏やかになったせいか、知性が感じられた。
淵季がこちらを向いた。珍しく、戸惑っている顔だった。私も、分からない、というように首を振って見せる。
「おい、陸洋。何か言ってみろ」
「黙ってろと言ったのは、おまえだろ」
「今は別だ。帰りたいとか、何とか。妻子も独立した家も持たぬ俺より、一家の主であるおまえのほうが、帰りたい理由がつくだろう」
背中を叩かれ、私は老人の前に出た。
老人への言い訳を、避けられそうにない。
私は、理由をひねりだした。
「ええと、息子が寝る前に本を読んでやることになっておりまして、もう遅いので家に帰りたいのですが」
「ほかに家族がおるのなら、その者がそなたの代わりに読めばよい」
老人が思いの外、
「しかし、残業続きで読んでやれないと、父の威厳というものがやや失われがちでございます。私は、ぜひ、今日、帰って本を読んでやりたい」
「これまで失墜した威厳が一晩の行いで回復するわけでもあるまい」
正論だ。
私は淵季に助けを求めようと視線を振ったが、彼はうつむいて考え込んでいた。
「陛下のご命令で来ているのです。早く戻らないとそのうち誰かが探しにきますよ」
「そのときを待てば良い」
「それに私は仕事も残っている。早く片付けないといけないのです」
「気の毒だが、そなたの仕事は際限ない。ちょっとここで休んでいくがよい」
その後も、さまざまな理由を試してみた。
しまいには、あまり遅いと妻が浮気を疑うと言ってみたが、疑ったところで男ばかりの役所で何があるのかと言い返された。さらに、父や兄たちのところへ知らせが行き、
もう駄目だと振り返ったところで、あきれ顔の楊淵季と目が合う。
「おまえ、ずいぶん家族で苦労しているんだな。親しい家族がいるのも善し悪しだ」
そのつぶやきのような言葉を聞いて、私は久しぶりに腹が立った。
「うるさいな! 私ばかりに言い訳させて、一言も言わない淵季のせいだろう! こっちはもう、出尽くしたぞ」
「その程度で、か。少年の頃からあれだけ勉強ができるのに、まともな言い訳一つ思い浮かばぬとは」
成績のことを言われて、体にしびれるような熱さが走る。
優秀は優秀だった。それは、父も兄も、全員官僚だったからだ。官僚になれぬのなら、家族として受け入れられないという危機感があったからだ。
好きで優等生になったわけではない。
それに、ろくに勉強をしていないふうだったのに、淵季の方が
「じゃあ、おまえが言い訳を考えろよ!」
まるで少年の頃のような口調で、大声を出してしまう。
淵季もムッとしたように、腕まくりをした。
「やるか、役立たず。本気になれるならかかってこい」
役立たず。
その一言が、私に理性を失わせた。
相手が淵季なのも構わず、私は力任せに肩をつかんだ。呼吸が荒くなり、指にこもる力がどんどん強くなる。
このままでは、肩の骨を砕いてしまう。
そう、恐れたときだった。
「
老人が叫んだ。
「こんな貴重な本が多いところで
瞬間、淵季がニヤリとした。私の指先からも、力が抜けた。
彼は私の手を振り払うと、老人に向かって礼をした。
「それでは失礼いたします、先生。本を、お渡し願えますか」
老人は、あ、と軽い声を挙げた。だが、すぐに口元を笑わせ、さきほど食べたはずの本を淵季に差し出した。
本を受け取って引き下がった淵季が、私に小声で「可及的速やかに出るぞ」と言った。私たちは振り返りもせず、書庫を出て、鍵を掛けた。
私は消えた蝋燭を廊下に置き、大きな溜息をついた。
楊淵季は書庫の扉に背中を当て、月を仰ぐ。
「満月か。よくないな」
それから、本を
「今日の満月は、今年いちばん、大地に近いのさ。妖怪じゃなくても、知識にこびりついた偉人の魂が、歪んだ形でよみがえってしまう」
私は書庫を振り返った。
「あの老人は、偉人だったのか?」
「そうだな。俺の記憶が正しければ、
「え?」
「その二人の軍師が、あの先生に同じ謎を掛けられて、解いたんだよ。二人は部屋の中で
思い出せてよかった、とつぶやくと、淵季は姿勢を正し、廊下を戻っていった。
〈おわり〉
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