【第一章 日常】 第3話 白玉小兎

 帝国の高官たる私は、今日も残業している。

 夜の執務室は周囲の静けさも相まって、蝋燭ろうそくの燃える音がよく聞こえる。低い声の虫が鳴くような、あるいは、重い扉を開く最初の一押しのような音である。


 ブッブッ


 淡い鳴き声が聞こえて、私は顔を上げた。

 子豚のような声である。いや、子豚よりも、もっと小さく、短く途切れるような声。


 ――虫、ではあるまい。


 辺りを見回と、窓際にちらりと白く光るものがあった。雪玉に似ているが、敷地内に子どもはいない。しかも、夜だ。

 書類を置いて、立ち上がる。

 目をこらすと、雪玉のようなものは、ひくひく動いて、鳴いた。

 先ほどと同じ、声である。


「生きているのか?」


 私は窓辺に近づき、雪玉をのぞき込む。

 手のひらに乗るほどの白い塊の全体が震え、縦に五寸ほど伸び上がった。


「わっ」


 私の腕に飛び乗った白い塊には、長い耳があった。耳も短い尻尾も白い。丸く赤い目が、じっと私を見つめている。


「おまえ……うさぎ、か?」


 うさぎでないのは明らかだった。東方の島国に白くて目の赤い兎がいる、と友人から聞いたことはあったが、実際に国内でこのように真っ白な兎を見たことはない。 


「おまえもまた、宝物ほうもつだと言うのではないだろうな」


 私はそっと兎の背をでた。

 近頃、この部屋は怪異が入り込みやすい。動物だと思ったら、置物だったこともある。だが、兎は赤い目を細め、気持ちよさそうに鼻をひくひくさせて鳴いている。指先に触れる肌は温かい。

 私はほっとし、兎を抱いたまま、椅子に戻る。

 兎は時折、真っ赤な瞳で私を見上げる。私もその目を見つめる。

 かわいい。残業の疲れも癒やされる。


 仕事は山積みだが、しばらく兎を抱いていてもよいだろう。

 そう思って、私はひざに兎を乗せ、椅子いすの背にもたれた。


「キュ」


 突然、兎が甲高い声を上げた。

 ぼんやりしていた私は手元を確かめる。


「すまん! どこか、気に入らないところに手が当たったか?」


 兎の表情は変わらない。真っ赤な瞳の中に、黒い影がうごめいている。私の姿が映っているのであろうかと、覗き込む。


 その瞬間、瞳が透明になり、私ではない誰かが映し出された。

 私は吸い込まれるように、瞳に顔を近づけた。


 瞳の奥には、町の風景が見えた。

 執務室ではない。見知らぬ町だ。しかもずいぶん、古めかしい。


 低い女の声がして、兎の目に暗い室内が映った。


白兎はくと。あなたさまは、犬と名のつく場所に行ってはなりません。曹操そうそうに食われてしまう」


 曹操は何百年も昔の人物である。また、その息子は皇帝から禅譲ぜんじょうを受け、国を建てた。

 政治手腕はともかくとして、近頃、ちまたでは冷酷な悪者として物語られる人物だ。

 とはいえ、女の服装も、向かい合う男のひょうも、私が知らぬくらい簡素で古くさく見える。もし、曹操が生きている頃の様子を映し出したものだというのなら、名前でぶっつけに呼ぶなど、無礼なことだ。


 男は笑った。


「食うか? よかろう。俺は今でこそ武将だが、もとは山賊だったのだ。食う食われるは天の定めだと知っておる。俺が決められることではない」

「ではなぜ、私に占いを頼んだのです?」


 女は首をかしげる。

 男はおもしろそうに女を見下ろし、唇の片端をつり上げて、腰に手を当てた。


「俺はもともと山賊だ。人を殺して金を得る。武将となっても変わらん。名のある人も殺した。それで今の俺がある。世に戦がなくなったとき、俺は人殺しの功績を元に都の屋敷にすっこんで、花など眺めておるのかと思うと、面倒でな」


 男はかがみ込み、女の前に丁寧にかねを並べた。


「そなたの占いが当たれば、思い通りの人生が送れそうだ。さらば」


 彼らの世界が一瞬明るくなり、再び町が映し出されたときには、戦場になっていた。逃げ惑う母子、かばう老人、何事か知らせながら走る若者、すべての者が倒れ、辺り一面、赤くなった。

 景色が変わった。

 周りでは剣で斬り合い、槍で刺し、頭上を矢が飛び交っている。

 目の前で、先ほどの男が馬上で戦っていた。敵も騎馬の武将だ。相手の方が力も装備も上だった。勝てない。そう思ったとき、男は落馬し、動かなくなった。ときの声が上がった。敵の軍が、勝ったのだった。


 ――男はまだ、生きているだろうか。


 私が男の首筋に触れようと、手を伸ばしたときだった。


欧陸洋おうりくよう! だめだ!」


 空を割るような友の声がした。私は天をあおぎ、空が赤くなって細かくちぎれていくのを見た。


 何度か、名を呼ばれた。

 目を開けると、私は執務室の床に寝そべっていた。となりで見守っていたのは、友人の楊淵季ようえんきだ。珍しく、心配そうな顔をしている。


「おい、大丈夫か。働き過ぎじゃないのか。仕事中に倒れるなんて」


 机を見ると、白い兎の置物が、じっと私を見下ろしていた。手に乗せたときのように、やわらかな毛並みではなかった。白濁したぎょくで作られた置物だ。


 ――見間違えたのだろうか?


「確かに、過労かもしれないな。今日はもう帰ろう」


 私は楊淵季に支えられながら立ち上がった。私ばかりを見ていた彼の視線が、ふと机上の兎に向けられた。


白玉はくぎょく小兎しょうとか。誰がこんなものをここに置いたのだ」

「これが何か知っているのか、淵季」

「もちろんだ」


 楊淵季は袖を白玉にかぶせ、手で包むように持った。


「我が国に伝わる宝物の一つだよ。昔、ある大帝国が滅びようというとき、巫女が白玉を削って作ったという置物だ。巫女は戦乱の世を白玉小兎の中に封じ込めたという」


 楊淵季は溜息ためいきをついた。


「それから二十年ほどして、いったん、天下は統一された。しかし、数十年の後、また王朝が変わる。その王朝が滅ぶと、何百年も国は乱れたのさ。さらにいくつかの王朝をて、我らの国につながるというわけだ」


 彼の言葉につられるように、私は歴史を思い返す。巫女は戦乱の世を封じ込めたというが、その後も我が国は戦を繰り返してきた。


「巫女のしたことは意味がなかった、ということか?」

「どうかな。民間の話では、その巫女はかなりの実力者でね」


 顔をしかめ、手で包んでいた白玉小兎をふところに押し込む。


「何百年も前のことだ。あざなを白兎という男に家族を殺された女が、恨みを元に霊力を蓄えた。それが、例の巫女だ。この宝物を作るとき、自分の魂と、すべての力を使ったという」

「白兎、という男?」

「ああ、かん帝国末期の山賊上がりの武将だよ」


 兎の目の中の世界で、男は「白兎」と呼ばれ、女は占いをした。

 あの世界では戦が起こり、男は死んだ。


「しかし、淵季。巫女が封じ込めた世界が兎の中にあるというのなら、私たちはもっと戦乱のない穏やかな世界に生きていなければならないだろう?」

「そうだな。民間の伝承では、兎のぎょくは世界の大きさに耐えかねて砕けたと言われるが」


 楊淵季は懐を押さえた。どこからか、キュ、という声がした。


「砕けなかったのか。――伝承の通りなら、我々の先祖も玉の中にいたはずなのだが」

「話は合うじゃないか。私たちの先祖が戦いを繰り返してきたのも、閉じ込められた戦乱の世の果てであれば」

「だが、白玉小兎が存在するじゃないか」

「白玉小兎は存在していて当たり前だろう。なくなったら、世界ごと消えてしまう」

「わかってないな、欧陸洋。本来ならば、我々も玉の中の世界にいなければならないのだよ。だが、外側にいる。巫女が世界を白玉に封じ込めたという宝物は、我らの空であり、地でなければならない。つまり、


 また、キュ、という声がする。

 明かりの届かぬ天井に、うっすら丸く、赤い部分があるように見えた。


「まさか、淵季。宝物が存在する以上、私たちは過去の歴史から切り離された世界にいる、と言いたいのか?」

「そうなるな。もとの世界は白玉小兎の中だ」


 もし、巫女たちのいる世界が兎の中ならば、今いる私たちは、なくなった世界の上に生み出された何か、ということになる。


「じゃあ、私たちは何なのだ」

「巫女の想像の産物かも知れん。戦乱の世の巫女に、戦いがない世は想像できなかったのだろう」


 それでは、巫女が平和を知らないせいで、我らは戦を繰り返す羽目になったことになる。

 指先が冷たかった。体中に玻璃はりのかけらが貼り付いているように、動きにくい。


 ブブブ……


 楊淵季の懐から兎の声がした。私は我に返り、声を張り上げる。


「おい、淵季。冗談もいい加減にしろ。それは宝物じゃなく、生きた兎……」

「陸洋、だめだ!」


 兎に手を伸ばした途端、鋭い声で制止された。


「宝物に触れるな。中の世界が崩れれば、おまえは跡形もなく消えるかもしれないぞ」


 楊淵季は薄く笑ったが、懐に当てた手は震えていた。

〈おわり〉

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